セレクテッドメッセージ 第一巻 第二部

 第26章 キリストと神の律法

 

1.完全な神の律法 [1] [原則は、聖、正義、善]

 御言葉に書き表されたように、神の律法は、それ自身の求めによって広められています。あらゆる原則は、聖、正義、そして、善です。その律法は、神への従順のもとへと人々を誘っています。それは、ある考えと感覚に行き着きます。また、それは、その律法に違反した感覚のあるあらゆる人々に罪の自覚を生み出すでしょう。神の律法が体の外側の行為に及んだだけだったのであれば、人々は、その悪い考えや願望や意図による罪の責任が存在しないでしょう。しかし、神の律法は、[体の内側の]人の魂が清く、知性が聖であること、また、その考えと感覚が神の愛と義の標準と調和した存在であることを求めています。

 キリストの教えの中で、彼はシナイの山で語られた律法の原則がどれほど届いているかを示しています。彼は、特別な記録の書が開かれて、裁く方が座に着く時の大いなる日に、全ての者が裁かれる標準、すなわち、義の大いなる標準として、永遠に残る原則として、生活に適用する律法を作りました。彼は神の要求のすべての詳細に合わせて、人が同じ働き/行動をすることが可能なことを示すために、人間のかしらとして、全ての義を満たすために来ました。主の恵みの広大さが行為の主体者としての人間に用意されたことによって、人は天に[入る]失敗をする必要がありません。品性/個性の成熟/完成は、そのために励む全ての人々によって到達可能なものとして存在しています。これは、福音の新しい契約の基礎として作られています。主ヤハウェ(hwhy)の律法は木です。福音は良い香りのリンゴの花であり、そこになる実です。

 神の聖霊が、人にその律法の意味を充分に明らかにしている時、一つの変化が人の心に始まっています。預言者ナタンがなしたダビデの本当の状態の正確な描写によって、彼[ダビデ]は、彼自身の罪を熟知して、それらを捨て去るように自分を励ましました。彼はその勧めを素直に受け入れ、神の前に自らを謙虚にしました。彼はこう言いました。

 「主の律法は完全/熟達で、魂を回心させます。主の証は確かに信頼できて、単純な者に知恵を与えます。主の掟は正しくて、心を喜ばせます。主の戒めは聖で、眼識を明るくして教化させます。主を畏れることは清らかで、永遠に向かって忍耐させ、主の裁きはまったく真実で正義です。それらは、金より、純金よりもはるかに望まれていて、蜂蜜や蜂の巣よりも甘くて親愛なるものです。汝に仕える者は、それによってさらに戒めを与えられ、それらを守ることに大いなる報いがあります。誰が自分の過ちを知ることができるでしょうか。あなたは、隠れた過ちから私を清めます。汝に仕える者を故意の罪からも遠ざけてください。それらが私を支配しないようにしてください。その時に、私は真っすぐに立てるでしょう。私は大きな過ちをした者から潔白の者となれるでしょう。私の力、私の贖い主、主よ、私の口の言葉と、私の心の内省を汝の視界に受け入れられるものとしてください」(詩編19:7-14 KJV)。

 

2.律法についてのパウロの見解/評価

 律法に関するパウロの証はこうです。[訳者:KJVからの訳出です]「それでは、私達はどのように言ったらいいでしょうか。神の律法は罪 [その律法の中にではなく、その人の中にある罪] なのですか。神は否定しています。そうではなく、その律法が‟汝は切望しないでしょう”と言ったことを除いて、私は強い欲望を知らなかったので、私は罪を知りませんでしたが、その律法によって[罪を知りました]。しかし、神の掟によって機会ある毎に、その罪は、強い欲のあらゆる方法によって、私の中で働きました。神の律法がないので、罪は死んだものでした。かつて、私はその律法なしに生きていましが、神の掟がきた時、罪が生き返り、私は死にました。そして、その掟は命を託されていましたが、私は[その掟が]死の存在であることを発見しました。罪は、その掟によって、また、それが私を圧倒することによって、機会ある毎に私をだましました」(ローマ7:7-11 KJV)。

 罪はその律法を損ない(殺し)ませんでしたが、それ[]は、パウロの身体的な知性を殺しました。彼はこう断言しました。「さて、私達は、縛られていた死の存在する律法から解放されています。私達は、文字にある古い[精神]によってではなく、[文字にある]新しい精神によって仕える必要があります」(ローマ7:6 KJV)。「それでは、善であるものが、私に死をもたらすものとなったのですか。神は否定しています。しかし、神の掟が絶大な罪深さに吊り合うことによって、また、それ[律法]が善であることによって、罪は、罪として現れて、私の中で死の働きをしています」(ローマ7:13 KJV)。「それゆえに、神の律法は聖であり、その掟も聖で、正義、そして、善です」(ローマ7:12)。

 パウロは、破られた神の律法について、読者に注意を呼び掛け、人々は罪の責任があることを示しています。彼は、校長先生a schoolmasterがその学生達に指導しているように人々に指導し、自分達の忠実さを持って神に立ち返るよう示しています。

 神の律法に関する違反には、義も平穏も安全も存在しないでしょう。人は、罪の中に居続けている限り、キリストの功績による彼との平和を得られず、神の前に潔白[な状態]で立つ希望を持つことができません。人は、違反をやめて、忠実になり真実になる必要があります。罪びとは、透明で大きな道徳のガラスコップの中にいるように見えています。人は、自分の品性の欠点を眺めています。その人は、まるで、染みがついていて、不潔で、非難される者であるかのように、自分を見ています。しかし、人は、神の律法が罪悪感や重責や違反の罪をどのような方法でも取り去ることができないことに気づいています。[訳者加筆:下線部の英文は「pardon赦し」ですが、これでは意味が通りません。たぶん、「burden重責」の誤植でしょう] But he knows that the law cannot in any way remove the guilt or pardon the transgressor。人は、このことを離れていく必要があります。神の律法は、キリストにその人を連れて行く単なる校長先生 the schoolmaster/養育係です。人は、自分の罪を負う救い主の方を見る必要があります。キリストが、カルバリーの十字架上で、全世界の人々の罪の重さの下で死んで、人のために明らかにされた時、神の聖霊は、自分達の罪の違反を悔い改める全ての人々に神の姿勢を罪の人に示しています。「神はこの世界の人々をとても愛しました。神は、彼を信じている人々が一人も滅びないで、永遠の命が得られるように、ひとり子を与えました」(ヨハネ3:16)。

 私達は、「主はこのように言った」という言葉を、以前に一度も言わなかった時に、個人個人で注意を払う必要があります。神に不忠実な人々がいます。その人々は、神の聖なる安息日を汚し、御言葉のわかりやすい記述の粗探しをして、御言葉の本当の意味を捻じ曲げています。そして、同時に、御言葉と自分達の不従順を調和させようと、見込みのない努力をしています。しかし、御言葉がキリストの時代のパリサイ派の人と律法学者達をとがめた時、それはそのような行動を戒めています。私達は、何が真実であるかを知る必要があります。私達は、そのパリサイ派の人々がしたようにするのですか。私達は、この世界の人々がかつて知っていた偉大な教師から離れて、人々の言い伝えと処世法と伝統へと向かうのですか。

 

3.神の律法に違反した結果

 人間の知性は、[それを]保つための権利を持っていないという多くの信念があります。アダムは、神の品性に反対して狡猾な当てこすりをするサタンの嘘を信じました。「そして、主なる神は、その人に指示して、言っています。汝はその園にある全ての木から、[その実を]自由に食べることができます。しかし、善と悪の知識の木から、汝はそれを食べないでしょう。その人のうちに汝はそれを食べて、汝はきっと死ぬでしょう」(創世記2:16,17 KJV)。サタンがエバを誘惑した時、彼はこう言いました。「神が、そなたは、その園のすべての木から食べないでしょう、と言ったのですか。その女性は、そのヘビに言いました。園の中央にある木の実以外は、その園のどの木の実も食べることができます。神はこう言いました。汝は、死ぬといけないので、それを食べないでしょう。それだけではなく、それに触れないでしょう。そして、そのヘビはその女性に言いました。神は、汝らがそれを食べる日を知っているので、あなたはきっと死なないでしょう。その時、あなた方の目は開かれるでしょう。また、汝らは、善と悪を知っている神々のようになるでしょう」(創世記3:1-5 KJV)。

 神が、私達の最初の両親に持つことを望まなかった知識は、罪責感についての一つの知識でした。二人が、嘘だったサタンの主張を受け入れた時、不従順と違反は、私達の世界の中に持ち込まれました。サタンの嘘の信条と、神が指示した考えへの不従順は、この世界へ「苦悩の水門」を開きました。サタンは、エデンの園で始めた働きを続けました。彼は絶え間なく働いたので、人は、神への反対を証明として、彼の主張を受け入れるかもしれません。彼は「神の似姿を人の魂に写し込み、人の中に神のかたちimageを回復するためのキリストの努力」に反対して働いていました。

 その偽りの信条は、パウロを、親切にも、思いやり深くにも、憐れみ深くにもしませんでした。彼は、イエスに関する真理に反対して、たけり狂った一人の宗教的な熱狂者でした。彼は、その国中を走り回り、男女を引っ張って行って、投獄するためにその人々を裁判にかけました。このことについて語るならば、彼はこのように言っています。「私は、キリキア州のタルソスで生まれたユダヤ人の一人です。また、ガマリエルのもとでこの町で育ち、父祖達の律法について完全な方法によって教えを受け、汝らみなさんが今日そうであるように、神に向かって熱心にしてきました。私はこの方法で、男たちと女たちを縛り上げて牢獄に送って、死に向けて迫害してきました」(使徒言行録22:3,4 KJV)。

 人類家族は、天の父の律法への違反のゆえに、悩みに中に置かれています。しかし、神は、罪のための救済策を示している限り、罪びとを放置していません。神のひとり子は、私達が生きられるように、死にました。主は、私達がキリストを信じ彼を受け入れた状態において、私達の代理人、保証人として、私達の擁護者としてこの犠牲を受け入れました。その罪の人は、主の功績を確信し、罪を負う主に自分の罪を置き、そして、主の赦しを受けて、信仰をキリストへ持って行く必要があります。キリストがこの世界にやって来たのは、この目的のためでした。このように、キリストの義は、悔い改め、信じている罪の人に帰負/帰属しています。その人は、キリストの信仰遺産の相続に結ばれ、神の信仰遺産の相続人、天の王家の一人の子ども、天の家族の一員となっています。


 

第27章 キリストと神の律法

 

 

 

 

 

1.神の律法の特徴/品性[2] [聖、正義、善]

 ダビデはこう言いました。「主の律法the lawは完全です」(詩編19:7 KJV)。「そなたの証について、私は、そなたが永遠にそれらを据えていたことを以前から知っていました」(詩編119:152 KJV)。そして、パウロはこう証をしています。「その律法は聖で、その戒めも聖で、正義で、善です」(ローマ7:12 KJV)。

 宇宙、全世界の至上の支配者、神は、生ける存在者すべてのためだけではなく、全ての自然界の運行のため、その統治のための諸々の法則lawsを定めました。あらゆるものは、大きいものも小さいものも、生命あるものもないものも、無視できない法則lawsの下に固定しています。神性の手が作ったもので、神性の知性によって忘れられたものはないので、この法則ruleには例外はありません。しかし、自然界の全てのものは、自然界の法則lawによって統治されています。その一方で、その[法則の]求めを理解する能力のある知的な存在者としての人間だけが、道徳律法に従う義務があります。主の創造の働きの冠である人間のためだけに、神は、神性の律法の神聖な要求に気づくように、善悪の判断力を与え、聖と義と善として、それを愛する能力の心を与えました。そして、人間に属している思い出すことと完全な従順求めました。また、神は、人間に服従を強制していません。人は、道徳的に自由な行為者として置かれています。

 人間の個人的な責任についてのテーマは、ほんの僅かに理解されているだけです。そして、また、それは最も重要な問題の一つです。私達は、お互いに[責任を]果たして、生きているでしょう。さもないと、私達は神の律法に違反し、主の権威を否定しているでしょう。そして、向き合わされる神の刑罰を受けるでしょう。全ての魂にその質問が影響力を持って心安らぐ家homeに来る時、私は、シナイの山から語られた10の言葉、天からの声に従うでしょうか。あるいは、私は、火のような律法を踏みつける群衆と共に行くのでしょうか。神を愛する人々のために、それは、主の戒めを守るために、また、主の視界に喜ばれる事柄をするために、高度に知的なものになるでしょう。しかし、人の生まれつきの心は神の律法を嫌っていて、その[律法]自身の聖なる叫びに反対して戦っています。人々は、神性の光が彼らに降り注いでいる時に、それによって歩むことを拒んで、それからその魂を遮っています。人々は、世俗的な益や利己的な満足のために、自分達の天の希望、神の好意の心の清めを犠牲にしています。

 詩編記者はこう言っています。「主の律法は、完全です」(詩編19:7 KJV)。簡潔でわかりやすく完全で素晴らしいものは、主ヤハウェ(hwhy)の律法です。私達が、覚えとして全ての指針に簡単に託せるのは、そうした信条です。そして、また、[それは]神の意思全体を表すもの、認識をするものとして、さらに、外側の行動だけではなく、[内側の]心に属する情緒と願い、意図と思想の広範囲に及んでいます。それらは、外側の行動だけのものとして扱うことが可能です。一人の男性は一人の[律法の]違反者として、また、人の目から見て間違った行動を隠した者として存在しているでしょう。彼は、泥棒、殺人者、姦夫として、一人の犯罪人でしょう。しかし、彼が[それらを]知られない限り、主の律法は罪の責任があるとして彼を有罪とすることができません。しかし、その[人の]意思ではなく、その機会が望んでいたので(because the opportunity, not the will, has been wanting.)、神の律法は、外側の行動に現れず見られなかった、魂から姿を現す野望や強い欲望、復讐心や深い恨み、憎しみや羨望、そして、嫉妬を記録に残しています。そして、これらの罪深い感情は、かの日に責任を問われるでしょう。「神は、裁きの中に、善であれ悪であれ、隠れた事柄の全て、働き全てを持ち込むでしょう」(伝道の書12:14 KJV)。

 

2.神の律法は簡潔

 神の律法は簡潔です。そして、理解されやすいものです。自然界にある造られたものの中に、神の力の現れと人間の生命の中に未知mysteriesが存在していることを忘れて、自分が理解できたことだけを信じて誇らしげに得意がる人がいます。最も広範囲な研究、深遠な哲学[の対象]としての未知は、説明するための言葉がほとんど存在しません。しかし、神の律法の中に未知は存在しません。全ての人々は、それが具体的に表現している偉大な真理を理解することができます。最も知的に低い人はそれらの律法ruleを理解することが可能です。最も無学の人はその人生を良い状態に調整することが可能です。そして、神性の標準に倣って、品性を形成[することが可能です]。人間の子どもが、その能力の最善を尽くして、この律法に従うならば、子ども達は、神の目的と計画についてもっと理解し、識別する能力と知的な能力を得るでしょう。そして、この進歩は、現在の人生の中だけではなく、永遠の時代においても続けられるでしょう。どれほどであっても、私達は、神の知恵と能力についての知識に進歩するでしょう。そこには、常に無限のかなたが存在しています。

 神性の律法は、自分自身のように、私達の隣人と神をこの上なく愛することを私達に求めています。この愛の実践なしでは、最高の信仰告白は単なる見せかけです。「汝らは、汝らの知性の全てで、汝らの魂の全てで、汝らの心の全てで汝らの神、主を愛するでしょう。これが重要な第一の戒めです。第二もそれと同じように重要です。汝らは自分と同じように汝の隣人を愛するでしょう。キリストは言っています。これら二つの戒めに、律法の全体と預言者達の全体がかかっています」(マタイ22:37-40 KJV)。

 その律法[十戒]は、完全な従順を指示しています。「誰でも、律法全体を守るでしょう。そして、また、一つの点において逸れると、その人は全てにおいて罪の責任を問われています」(ヤコブ2:10 KJV)。これらの10の指針の一つは、天の神への背信行為なしに破ることができません。怠慢や意図的違反による、その[律法の]要求からの最小の逸脱は罪です。また、全ての罪は、罪びとを神の怒りにさらしています。従順は、古代のイスラエルの人々が、神の民にとってとても気に入ったものになった契約の達成を受け入れるように存在していた状態の時だけでした。その律法への従順は、それがヘブライ人達にもたらされたように、現在の国の民と個人個人に大いなる祝福としてもたらされるでしょう。

 その律法への従順は、私達の救いのためだけではなく、私達自身の幸福と、私達に繫がる全ての人の幸福のための本質的な要素です。「そなたの律法を愛する者には大いなる平和があり、それらを逸らすものは何もないでしょう」(詩編119:165 KJV)と、霊感の言葉は言っています。また、また、有限な人間は、人間が負えないくびき、束縛のくびきとしての人間の欲望に、創造者自身が適応したこの自由の律法、聖と義と善の律法を人々に表すでしょう。しかし、律法を耐えがたいものと考える人は罪びとです。それ[律法]の中の指針に美を見ることができない人は[律法の]違反者です。物欲的な知性は「神の律法の目的ではありません。確かに[目的となることが]できません」(ローマ87 KJV)

 「その律法は罪の知識です」(ローマ320 KJV)。「罪はその律法の違反です」(1ヨハネ34 KJV)。人々が罪を確信させられるのは律法を通してです。そして、人々は、救い主の必要を自覚する前に、神の怒りを見せられて、自分が罪びとであることを感じる必要があります。サタンは、罪びとの嘆かわしい品性についての人間の評価を低くするために働き続けています。神の律法を彼らの足の下に踏みつけている人々は、絶大なだます働きをなしています。なぜなら、その人々は、罪を明らかにし得るものに関して、唯一の法則ruleを拒絶しているからです。そして、それを律法の違反者の良心の心安らぐ場所homeに持って行っています。

 これらの隠れた目的にまで届いた神の律法は、それら[隠れた目的]が罪深いものであることによって、しばしば、軽視されました。しかし、それら[律法]は、品性のテストと基本原理の実態の中に存在しています。それ[律法]は、彼の道徳的な品性についての正しい知識を持っているかどうかについて、その罪びとが見るために存在している鏡の中です。義の大いなる標準によって、その人が自分に罪があると見ているならば、その人の次の行動は、キリストの赦しを求めて、自分の罪の悔い改めのために存在している必要があります」。この行動に失敗して、多くの人々は、自分達の欠点を明らかにするその鏡を壊そう、また、品性や人生の傷を指し示すその律法を避けようとしています。

 私達は、酷く悪い時代に生きています。多くの人々は、悪習慣と罪深い慣習に束縛されています。人々を縛り付けているその束縛は解き放つには困難です。洪水のような罪悪が地球を覆っています。言葉にすることがあまりに恐ろしいとも言える犯罪が毎日発生しています。「シオンの城壁」の上の見張り人だと公言している人々は、神の律法が、ユダヤ人達のために意図されただけではなく、福音の時代の人々にもガイドされた栄誉ある特権の時を過ごして来たことを意図していた、と教えるでしょう。律法はもはや拘束力がないと牧師達や人々が捉えて教えている事実と、無法や悪事の流布の間に一つの関連はないのでしょうか。

 神の律法を非難する勢力は、私達が行動する事柄についてだけではなく、行動しない事柄にも及んでいます。私達は、神が求めている事柄を行なうことを拒むことによって、自分自身を義とするために存在しているのではありません。私達は、悪を行なうことをやめて当然なだけではなく、善を行なうことを学んで当然です。神は、私達に良い働きを実践するための力を与えました。また、それらの力が利用されるように備えられていないならば、私達は、間違いなく悪い怠惰な奉仕者のように見なされるでしょう。私達は嘆かわしい罪に陥っていないでしょう。そのような反則の罪は、神の記録の書の中で、私達[の事実]に反して記録されていないでしょう。私達の確かな事実は、私達を有罪宣告の下に置いて、私達に託された才能を改善しなかったことを示して、清い、善、高尚、高潔として記録されていないでしょう。

 人間が創造される以前に、神の律法は存在していました。それ[律法]は聖なる存在者達の条件として適応されていました。天使達でさえ、それによって治められていました。罪に落ちた後、義の原則は変えられませんでした。その律法の価値は何も落とされませんでした。[十戒の]聖なる指針自身の一つも改善されることはできませんでした。そして、それ[律法]は世界の初めから存在していたように、それは、終わることのない永遠の時代を通して存在し続けるでしょう。詩編記者はこう言っています。「そなたの証について、私は、そなたが永遠にそれらを据え置いていたことを以前から知っていました」(詩編119:152 KJV)。

 この律法は、天使達を統治し、普通の理解を超えた思想と希望と計画によって聖化を求め、「永遠に堅く立つ」(詩編1118 KJV)でしょう。世界の全ての人々は、神の日に速やかに近づいて裁かれるように存在しています。律法の違反者達は、至高者が知らず、全能者が考えていないと、自分で根拠のない希望をもっているでしょう。主はそれらを常に伝えないでしょう。やがて、その人々は自分達の行動に応じて報酬を受けるでしょう。その死が罪の報酬です。一方、その律法を守っていた義の民は、天上の都市の真珠のような門を通って案内されるでしょう。そして、子羊と神の臨在によって歓喜と不死の生命と共に栄誉の冠を与えられるでしょう。


 

第28章 キリストと神の律法

 

 

 

 

 

1.神の律法に対するサタンの敵対 [3]

 昨夜、私は自分の知性にとても強い負担を感じて眠りから覚めました。私は、私達の[教会の]兄弟姉妹達に一つのメッセージを[書いて]送りました。それは、聖霊を受け入れることと、人間の働き手達を通した働きについて、間違った擁護をしているある人の働きに関する指導と警告のメッセージでした。

 私は「1844年のその時が過ぎた後で、私達が立ち向かうために呼び出された時のものに似た狂信的言動は、そのメッセージに属している世界の終わりの日に、再び、私達の間にやって来るでしょう。また、私達は、私達の教会の初期の頃の体験でそれに立ち向かったように、同じく決定的にこの悪に立ち向かう必要がある」と指導されました。

 私達は、諸々の厳粛な出来事eventsと大いなる戸口に立っています。諸々の預言は成就しています。不思議で波乱に富んだ歴史が天の書に記録されて存在しています。宣言された諸々の出来事は、神の大いなる日に少し先立つでしょう。この世界中のすべては、不安定な状態にあります。国の民は怒っています。そして、戦争のための大いなる準備がなされています。国家は国家に、王国は王国に対して陰謀をたくらんでいます。[訳者加筆:この記事は1909年に書かれています。この6年後、1915年に第一次世界大戦が始まりました]。神の大いなる日は、非常にあなたに近づいてis hastingいます。国々は戦争と殺戮のためにその軍隊を招集しています。[4人の]天使達への命令は影響力を抑えられています。彼らは、神への奉仕者がその額にしるされるまで、4つの風を引き留めています。

 世界の人々は、今、神の律法への違反の結果に間違いなく気づいています。創造の働きが完成した後、主は第7日目に休みました。そして、主の休みの日を聖別し、人間が主に礼拝を捧げる日として取り分けました。しかし、今日、世界の大部分の人々は、ほとんど、主ヤハウェ(hwhy)の律法を軽視しています。別の1日が神の休みの日の位置に置かれてしまいました。人間の代理者達が、自分達の方法と自分達の意思で、御言葉の教えに攻撃的に反逆して定めました。そして、世界の人々は罪と謀反の中に陥れられています。

 神の律法に反対するこの働きは、第二位の天使ケルビムを担うルシファーによって、天の法廷で始まりました。サタンは、天の会合で[自分が]1位になるよう、神と等しくなるよう決意しました。彼は、不満の精神を天使達の間に拡散させようと、その指揮の下にいる天使達と共に謀反に関する自分の働きを始めました。彼はだます方法で働いたので、その多くの天使達は彼の目的が充分に知らされる前に、彼に忠誠を尽くすように勝ち取られてしまいました。神に忠実な天使達でさえ、彼の特徴を充分に識別できなかっただけではなく、彼の働きがどこに導いているのかを知ることもできなかったでしょう。サタンが、多くの天使達を自分の側に勝ち取ることに成功した時、キリストが執っている立場を自分が占めるのは天使達の希望だったと表明して、神に対して自分の目的を達成しようとしました。

 その悪の者は、不満の精神が熟して反乱を起こすまで働きを続けました。天において戦いがあった時、サタンと彼に共鳴したすべての者達は、追放されました。サタンは、天において、征服者として戦い、その戦いで負けました。神は、もはや、敬意と優位を配せず、彼を信頼できなくなりました。そして、彼が執っていた天の統治の一部が、彼から取り去られました。

 その時以来、サタンと彼に共謀した軍勢は、私達の世界に、神への敵軍として公言して、義と真理に属する[人類救済]目的に反逆した戦いを続けてきました。サタンは、神とキリストについて自分の間違った表明をして、その天使達に表したように、現在も人々に表し続けてきました。そして、彼は、自分の側に世界中の人々を勝ち取りました。キリスト教会がとってきたクリスチャンだと公言している立場でさえ、大いなる背信の首位をとっています。

 サタンは、この世界の王国の王として自分を表しています。荒れ野での三つの大きな誘惑で、その三番目にキリストに近づいたことが、この特徴の中にありました。彼は救い主に、「汝がひれ伏して、私を拝するならば、これら全てを」、――サタンがイエスに見せることを目的としていた世界の王国を指し示して――「私は汝に与えよう」と言いました。

 人類がサタンの支配から救われるために存在しているのであるならば、天の法廷において、キリストは、彼の勢力が立ち向かわせられて、征服されて当然な時が来ることを知っていました。そして、その時がきた時、王衣と王冠を取り外した神のひとり子は、人間性と神性の衣をまとって、悪の王に立ち向かうために、そして、彼に勝つために、この地上に来ました。すべての人間が不幸と悲しみと誘惑を受け入れて当然のものとしている時に、天の父の前で人間の擁護者となるために、救い主は地上で彼の生涯を生きるでしょう。ベツレヘムの特別な赤子として、彼は、人類[家族]と一つになり、飼い葉桶から十字架までの染みのない生涯によって、その人間を示すでしょう。彼の中の信仰と悔い改めに属する生き方によって、神の好意が回復されるでしょう。彼は、罪からの救いと恵みの贖いを人間にもたらすでしょう。人々が忠実へと戻って、もはや違反が存在しなくなったならば、人々は思いやりを受けるでしょう。

 キリストは、人間性の弱さの中で、神が天使のような一族に授けていた、高度な性質の能力を持つ者の特別な誘惑に立ち向かうために存在していました。しかし、キリストの人間性は神性と一つだったので、この能力によって、彼は、サタンが彼にもたらすその全ての誘惑を耐えるでしょう。そして、また、罪によって汚されていない彼の魂を守るでしょう。そして、この勝利する力を、彼は、自分の品性の義の特性を信仰によって受け入れるアダムのすべての息子達と娘達に与えるでしょう。

 神は、この世界の人々をとても親しく愛してひとり子を与えたので、彼を受け入れる人は、彼の義の命を生きる力を持てるでしょう。キリストは、神の能力を信仰によって手に入れることは可能であるということを証明しました。彼は、キリストの義による信仰の体験と悔い改めによって、強い欲望によってこの世界に存在している堕落に勝利すること、神性の性質にあずかる者となること、神と調和すること、が可能であることを示しました。

 今日、サタンは、私達の執着のゆえに、戻って来てこの世界の王国を私達に提供して、キリストに表したと同じ誘惑を提示しています。しかし、信仰の創始者であり完成者であるイエスを見ている人々に、サタンの様々な誘惑は無力です。彼は、罪がない者として、私達があるがままに、全ての点で誘惑された主の長所/善を信仰によって受け入れる人に罪の理由を見つけることができません。

 「神は、この世界の人々をとても愛したので、そのひとり子を与えました。彼を信じる人は誰でも滅びないで、永遠の命を持つでしょう」。自分の罪を悔い改めて、神のひとり子の命の贈り物giftを受け入れている人は、敵に打ち負かされることは不可能です。神性の性質に属しているという信仰を手に入れて、人は神の子となっています。その人は祈っています。その人は信じています。誘惑され、試みられた時、その人は、与えるために死んだキリストの力を叫びます。そして、彼の恵みによって勝利しています。全ての罪びと達は、このことを理解する必要があります。その人は、自分の罪を悔い改める必要があります。その人は、キリストの力を信じる必要があります。また、罪からその人を守るためと、救うための力を受け入れる必要があります。私達は、キリストの手本という贈り物が存在していることに感謝して当然でしょう。

 

2.十字架を避けようとしない

 様々の深遠な神学と創られた人間の様々な推測が満ちているでしょう。しかし、最後の時に勝利者から脱落するような人は、神性の力に頼って、十分に謙虚になる必要があります。このようにして、私達が無限大の力を捉える時、また、キリストの所に行って「私が手に持っているものは価値がありません。そなたの十字架を単純に堅く信じます」と言う時、神性の働きをする人々が、その生涯の清めと聖化のために私達と共に働くことができます。

 十字架を避けようとする人がいないようにしましょう。私達の勝利が可能となるのは、また、キリストの親切心と平安と愛の結果をもたらし、神性の働き人達が私達の生活に一つの働きをもたらすことができるのは、試練と苦悩を通してであり、十字架を通してです。

 偉大な一つの働きが、御言葉を学ぶことによって、人間の心に日々に成し遂げられるように存在しています。私達は、真実の信仰についてシンプルに学ぶ必要があります。この意思はそれを繰り返されてもたらされます。霊的な理解力をまず先に決意するようにしましょう。私達の特別な人の勧めの言葉を大切にしましょう。私達は、キリストの側にいつもいて、あらゆる瞬間も注意深く歩む必要があります。キリストの恵みと精神/霊は、その人の魂の清めと愛によって働く信仰と、そして、生活の中に必要とされています。

 私達は、神がその人々に与えている神性の求めをはっきりと理解する必要があります。主の律法、それは、主の品性の写しです。誰も理解することにしくじる人はいません。その言葉は、どんな間違いをする必要がないように、主の人々に関する神の意思を完全に明らかにするために、石の板に神の指によって書かれました。以後、主の統治の原則としてすべての国の民と言葉を話す人々に明らかにされるように、主の王国の律法は、明確につくられて、知らされました。私達は、出エジプト20章と3112-18節に記録されたそれらの律法の学びをよくしていたいものです。

 特別な裁く者が席に着く時、数々の記録の書が開かれ、全ての人々はその書に記録された事柄によって裁かれるでしょう。それから、その日まで神によって隠されていたあの石の板が、義の標準として世界の人々の前に提示されるでしょう。男性達と女性達が、彼らの救いの必須条件は神の完全な律法に従順であるということを見て知るでしょう。罪の言い訳を見つける人はいないでしょう。その律法の義の原則によって、人々は、死に属するか生に属するか、自分達の判決を受けるでしょう。


 

第29章 キリストと神の律法

 

 

 

 

 

1.私達の唯一の希望キリスト[4] [キリストの神性と人間性]

 この世界の基礎が据えられる前に、神のひとり子、キリストは、アダムが罪を犯した場合に、人類の贖い主になることを自分から約束しました。アダムは罪に陥りました。この世界の前に天の父の栄光にあずかっていたキリストは、王冠と王衣を脱いで、ベツレヘムの赤子となるために彼の高い権威から降りました。アダムが躓いて罪に陥った根拠を検討することによって、彼は罪に陥った人間達を贖うでしょう。キリストは自分を、かの敵が男性達と女性達にもたらしたあらゆる誘惑の下に置きました。サタンの全ての激しい攻撃は、天の父への彼の忠誠から彼を逸らさないでしょう。罪のない生涯を生きることによって、彼は、アダムの全ての息子達と娘達が、この世界に罪を最初にもたらしたその者の誘惑に抵抗できる証をしました。

 キリストは、男性達と女性達に勝利の力をもたらしました。彼は、人間の姿でこの世界に来ました。彼は、証明され試されるために人間の性質の傾向を身に帯びました。彼の人間性において、彼は神性の性質にあずかる一人でした。彼の受肉によって、神の子の称号について新たな感覚を獲得しました。その天使はマリヤに言いました。「いと高き者の力が汝を守るでしょう。それゆえ、汝に生じる聖なる事柄は、神のひとり子と呼ばれるでしょう」(ルカ1:35 KJV)。一方、一人の人間の特別な息子、彼は新たな感覚によって、神の子となりました。このように、彼は、私達の世界の人々の中で、――特別な神の子として、この人類に生まれることによって縁組して立ちました。

 キリストは、彼らの創造者に忠実に生きることを人間が可能であることを充分に用意して、罪に陥った世界の住人達と、罪に陥らなかった世界の住人達に示すために人間の姿を取って来ました。彼は、サタンが彼に対して持って行くことを許された誘惑に耐え忍び、彼の激しい襲撃に抵抗しました。彼は独りで苦しめられ、激しく悩まされました。しかし、神は[彼を]知られないままに放置しませんでした。彼が、ヨルダン川でヨハネのバプテスマを受けて、その水から上がって来た時に輝く金のハトのような神の霊/精神が彼の上に降りて来ました。そして、天から一つの声が言いました。「この人は、私がとても楽しみにしていて、私が愛している子です」(マタイ37 KJV)。キリストが聖霊によって荒野に導かれたことは、この声のすぐ後でした。マルコはこう言いました。「すぐに、聖霊が彼を荒野に連れて行きました。そして、彼は、40日の間、荒野にいて、サタンから誘惑され、荒れ野の獣と共にいました」(マルコ1:12,13 KJV)。「そして、それらの日々に、彼は何も食べませんでした」(ルカ4:2 KJV)

 

2.誘惑に立ち向かう

 イエスが、誘惑されるために荒れ野の中に導かれた時、神の聖霊によって導かれました。彼は、自分の任務と働きを熟考するために、独りで荒れ野に行きました。断食と祈りによって、彼は、通っていくために存在していた血まみれの小道に向かって、自分の気を引き締めるために[そこに]いました。彼は、滅ぼす者による苦悩に捕らえられた虜達を解放する自分の働きをどのように始めたのでしょうか。彼の長い断食の間、人間を解放する者としての彼の働きの全体の計画が、彼の面前に描き出されました。

 イエスが荒れ野に入った時、彼は、天の父の栄光から遮られました。神とのコミュニケーションに没頭して[から]、彼は、人間の弱さを脱して引き上げられました。しかし、その栄光は消滅し、彼は、誘惑との闘いに連れて行かれました。それは、彼のあらゆる瞬間に重圧をかけていました。彼の人間の性質(人間性)は、彼を待ち構えていたその闘いでひるんで小さくなっていました。40日間、彼は断食して祈りました。空腹のための衰弱と無力、知的な奮闘による疲労とやつれ[から]、「彼の顔つきは、どの人よりも、また、彼の姿は人々の息子達よりもはるかにみすぼらしくなっていました」(イザヤ52:14)。今がサタンの機会でした。キリストに勝つのは今だ、と彼は思いました。

 光の天使に偽装した者は、主の祈りへの答えであるかのように、救い主[の所]にやって来ました。「もしも、汝が神の子であるならば、これらの石にパンになるように命じなさい」(マタイ4:3 KJV)は、彼が伝えたメッセージでした。

 イエスは、次の言葉でサタンに立ち向かいました。「人は、パンだけで生きているのではないでしょう。神の口から出たものに由来する全ての言葉によって[生きているでしょう]」(マタイ44 KJV)。全ての誘惑における彼の戦いの武器は、神の言葉でした。サタンは、キリストに彼の神性のしるしとして一つの奇跡を要求しました。しかし、それは、奇跡以上に偉大でした。堅く信頼した「主がこのように言っています」という言葉は、論駁されることのできない一つの象徴の言葉でした。キリストがこの立場を取っている限り、その誘惑者は優位な立場を得ることはできないでしょう。

 神の言葉に熟知していることは、私達の唯一の希望です。御言葉を知的に調べている人々は、サタンのだましを神の真理としては受け入れないでしょう。誰も、キリストと神の敵による根拠のない推測によって、打ち負かされる必要がないでしょう。私達は、神の言葉が黙している点を考えて推測するために存在しているのではありません。全ての人々は、私達の救いが神の言葉の中に与えられているということを求める必要があります。一日いちにち、私達は、私達への勧めとして、聖書の中にある人間を形成するために存在しています。

 永遠の昔から、キリストはその父と一つでした。彼が、自身の上に人間の性質を取った時、彼は、依然として神と一つで、彼は人間性と神が一体化して繫がった存在でした。「[神の]子らは肉と血にあずかっている者達で、彼自身もまた同じように、同じ[肉と血の]部分にあずかりました」(ヘブライ2:14 KJV)。彼を通して飲み、私達は神の子となることができるでしょう。彼を信じる全ての人々のために、彼は神の息子達や娘達になることができる力を与えています。このように、その人の心は、生きている神の宮になっています。男性達と女性達が神性の性質にあずかる者になることは、キリストが人間の性質を取った理由です。彼は、福音を通した光によって、命と不死の光へと導いています。


 

第30章 キリストと神の律法

 

 

 

 

 

1.神の律法と福音 [5] [キリストの完全な捧げ物を予示]

 ユダヤ人達がキリストを拒んだ時、彼らは、自分達の信仰の基を拒みました。そして、また一方で、キリストを信じると言いながら神の律法を拒んでいる現代世界のクリスチャン達は、そのだまされていたユダヤ人達と同じような間違いをしています。キリストに堅く信頼していると言っているこれらの人々は、自分達の希望の中心に彼をおいています。一方で、預言と道徳律法に軽蔑の眼差しを注いできた人々は、不信心だったユダヤ人達以上に安全な位置にいません。彼らは、それについて悔い改めるように存在していることを適切に説明する能力がないために、罪びと達に思いやりを持って、悔い改めるようにと呼びかけることができません。自分の罪の[自覚を]熱心に勧める人に、その罪びとは、何が罪ですかと、質問をする権利を持っています。神の律法に敬意を払っている人は答えることができるでしょう。罪はその律法への違反です。このことの裏付けとして、使徒パウロは「私は、その律法によらなければ罪を知りませんでした」と言っています。

 道徳律法について拘束力を主張する認識のある人々だけが、贖いの性質を説明できます。キリストは、主の律法の忠誠へと人を連れて行くことによって神と一つの人間を形成するために、また、人間と神の間を仲介するためにやって来ました。その律法には、違反者を許す能力がありません。イエスだけが負い目を償えるでしょう。しかし、イエスが、悔い改めた罪びとの負い目を償うという事実は、神の律法に違反し続けるような自由を与えていないでしょう。しかし、その人は、これから、その律法へ従順に生きる必要があります。

 神の律法は、アダムが罪に陥らなかったとしても、人間の創造以前に存在していました。アダムの違反の後で、その律法の原則は変更されませんでした。しかし、罪に陥った人間の状態に合うように明確に表現され調整されました。キリストは、彼の父との会合において、犠牲の捧げ物の制度を定めました。[違反者の]その死は、[死の]存在がその違反者に直ちに訪れる代わりに、神の子の完全で偉大な捧げ物として前もって示された生け贄に移されるでしょう。

 人々の罪は、象徴による祭司の儀式に移されました。祭司は人々のための一人の仲介者でした。祭司は、自分もまた一人の罪びとだったので、自身が罪のための一つの捧げ物となること、自分の命を贖い物とすることはできませんでした。そのために、祭司は自分自身を死の捧げ物にする代わりに、欠点のない子羊を殺しました。罪の罰は汚れのない獣に移されました。それは、このように、面前で彼の代わりとなり、イエスキリストの完全な捧げ物を予示しました。この生け贄の血を通して、人間はキリストの[犠牲の]血への信仰によって前[に歩み出す希望]を見ました。それは、世界の人々の罪のための贖いでした。

 

2.儀式の律法の目的

 もしも、アダムが神の律法に違反しなかったならば、その儀式の律法は決して定められなかったでしょう。宣言によって、最初にアダムに与えられた良い知らせという意味の福音は、その妻の子孫がその蛇の頭を砕くだろうということを彼に知らせました。そして、それは、ノア、アブラハム、そして、モーセに世代を継承して子孫に伝えられました。神の律法の知識と人類救済の計画は、キリスト自身によって、アダムとエバに与えられました。二人は、重要な教訓を注意深く心にしまっておき、口から出る言葉によって、後世の子孫、自分達の子ども達、子ども達の子ども達に伝えました。このように、神の律法の知識は保存されていました。

 人々は、そうした日々を千年近く生きてきました。天使達が、キリストから直接の指導を持って彼らを訪れました。犠牲の捧げ物を通して、神を礼拝することが確立され、神を畏れた人々は、主の前に自分達の罪を悟りました。そして、歓喜と聖なる信頼を持って、特別な明けの明星の訪れる未来を見詰めていました。それは、救い主イエスキリスト、私達の主に向かう信仰と、神に向かっての悔い改めを通して、罪に陥ったアダムの子らを天へと導くでしょう。このように、その福音は、全ての犠牲の中で教えられました。また、その信者達の働きは、やって来る救い主への彼らの信仰を継続して明らかにしました。イエスはユダヤ人達にこう言いました。「彼は私について書いたのだから、汝らがモーセの律法を信じていたならば、汝らは私を信じたことでしょう。しかし、汝らが彼の書いたものを信じていないならば、汝らはどうして私の言葉を信じるでしょうか」(ヨハネ5:46,47 KJV)。

 しかしながら、アダムにとって、彼の手本と指針[戒め]によって、彼の違反が人々にもたらした苦悩の流れを止めることは不可能でした。不信心が人々の心の中に徐々に広まりました。アダムの子ども達が、神を求めていると思われる人々の近くで実行した二つの異なったコースにおいて最初の手本を表しました。アベルは、特別な犠牲の捧げ物に象徴されたキリストを見ました。カインは犠牲を必要とするという考えに不信心でした。彼は、自分にとって長所がないと見える獣達の血、殺された特別な子羊によって象徴されたキリストを認めるのを拒みました。その福音は、カインと同じようにそのきょうだい達にも教えられました。しかし、犠牲の子羊の血にある、イエスキリストが人間の救済のためにつくった唯一の備えは、彼にとって、死から死への味がするものでした。

 私達の救い主は、その生と死によって、自分を指し示していた預言の全てを成就しました。彼は、全ての予型と前兆の影の実体でした。彼は道徳の律法を守り、そして、人間の代表者として、それ自身の要求に応えてそれを高めました。主に立ち返ったイスラエルの人々は、象徴的な犠牲による影の現実として、キリストを受け入れ、廃止されるために存在していたそれ[犠牲]の終了を識別しました。ベールとしてユダヤの制度を覆っていた不明瞭さは、モーセの顔の栄光を覆っていたベールのように、彼らのために存在していました。モーセの顔の栄光は、人間に益をもたらすために、この世界に来たキリストのものである光の反映でした。

 モーセが神と共にあの山に籠もっていた時、アダムが罪に陥ってからの時代と人類救済の目的が最も有効な作法で彼に啓示されました。その時に、彼は、イスラエルの子らの荒野の旅を指揮していたその特別な天使が、肉体となって啓示されるために存在していたということを知りました。神の愛する息子は、その父と一つでした。また、彼を信頼し信じる全ての人々を神と一つにするために存在していました。モーセは、その犠牲の捧げ物の真の意味を見て知りました。キリストは、また、モーセに、キリストを通した福音の栄光と福音の計画を教えました。モーセの顔つきが輝いていたのでその人々()はそれを見ることができなかったでしょう。

 モーセ自身は、自分の顔が栄光の光を反射していたことを意識していませんでした。また、モーセがその民に近づいた時、イスラエルの子らが彼から逃げ去った理由がわかりませんでした。主がモーセをその民に呼び掛けましたが、民は栄光に輝いたモーセの顔を見ようとしませんでした。モーセはベールで覆っていた自身の栄光のゆえに、その人々がモーセの顔を見ることができなかったということを知りました。

 モーセの顔にあった栄光は、イスラエルの子らが神の律法に違反していたので、彼らにひどく苦痛をもたらすものでした。これは、神の律法を汚した人々の感じ方を表すものです。光が差し込むことから逃れたいという望みは、律法の恐ろしい違反のゆえに存在しています。一方で、それは主の忠実への善・義・聖に見えます。神の律法を正しく認識した人々だけが、天の父の律法の違反によって必要が生じたキリストの贖いを正しく評価することが可能です。

 古い制度には救い主がいなかったという見解を好んでいる人々は、キリストを拒んだユダヤ人がしたように、自分達の理解を[霊的な]無知の闇で覆うベールを持っています。そのユダヤ人達は、キリストの予型としての犠牲の捧げ物として来るためのメシアへの信仰を悟っていました。また、約束されたメシアについての預言の全てが成就して、また、神性の神の子として神を示す働きをするイエスが現れた時、ユダヤ人達は彼を拒み、彼の真の品性の明らかな根拠を受け入れることも拒否しました。他方、キリスト教会は、ユダヤ人の救いの計画全体の創始者であるキリストを事実上組織的に否定したユダヤ人を嫌って、キリストにある最高の信仰を告白しています。


 

第31章 キリストと神の律法

 

 

 

 

 

1.ガラテヤ人への手紙の中の律法

  [私達をキリストに連れて行く校長先生/養育係schoolmaster]

 私は、ガラテヤ人への手紙の中の律法について尋ねられています。どの律法が私達をキリストに連れて行く校長先生/養育係なのですか。私の答えはこうです。十戒に属している儀式と道徳の規則です。

 アベルの死は、キリストを指し示す犠牲の捧げ物によって予示されたイエスキリストの血によって救われるための従順に関する訓練の場schoolによって、神の計画を受け入れることを拒んだカインの結果にありました。カインは、世界の人々のために流されるキリストの血を象徴する血を流すことを拒みました。この儀式全体は神によって備えられました。そして、キリストはその制度全体の基になりました。それは、ユダヤ人全体の救いの計画の基、キリストの考えとして、罪深い行為の主体者としての人間の校長先生/養育係としての働きの始まりでした。

 その聖所に繫がって奉仕した全ての人は、人類の味方としてのキリストの介在によっていつも教育される存在でした。その奉仕は、神の律法への愛を全ての人の心に創るようにデザインされていました。それは天の王国の律法です。その犠牲の捧げ物は、私達のための罪を担った罪のない存在、人間の罪を彼自身の上に負った犠牲・死んだ生け贄として、キリストによって現された神の愛の実物教訓になるように存在していました。

 救済の大いなるテーマの計画の中で、私達はキリストの働きを見ています。約束された聖霊の贈り物giftだけではなく、その性質とこの犠牲の特徴と介在は、神の律法の高度な考え方、神聖、高尚な心を私達の中に創るような教訓です。それは、行動の主体者としての全ての人間の主張を捉えています。禁止された実を食する小さな行為によってその律法を汚すことは、神の聖なる律法に不従順という結果を地上と人間にもたらしました。その介入の本質は、いつまでも、神の求めへの不従順に微小な行動でもすることを恐れる人を育てることでしょう。

 罪を占めるものの明確な理解の必要があります。私達は、従順から不従順への境界線を踏み越えるような接近をなくして避ける必要があります。

 神は、この世界の人々の救いのために自分の命を与えることによって、造物主と、神の子の偉大な働きを理解した、造られた者をメンバーとして持っているでしょう。「天の父が私達に授けた愛の方法を見上げなさい。私達は神の子ども達と呼ばれるでしょう。この世界の人々は、神を知らないので、私達を知りません」(1ヨハネ31 KJV)

 私達は、無限な思想の具現化、無私無欲の愛と慈悲をキリストの中に見ている時、キリストが引き寄せている所についていく習性に感謝している罪びとの心に気づかせられます。           『原稿』87.190073歳)

 

2.特別な道徳律法

 「その律法は、私達が信仰によって義とされるように、私達をキリストに連れて行く、私達の校長先生/養育係でした」(ガラテヤ324 KJV)。この御言葉の中で、聖霊を通して、その使徒は特に道徳律法について語っています。その律法は、私達に罪を明らかにして、キリストの必要を私達に感じさせ、私達の主イエスキリストへの信仰と神への悔い改めへの行動による平和と思いやりを求めて、彼のもとに避難するようにと理由を述べています。

 不本意ながら、この真理を受け入れることと思い描いた意見を放棄することは、(E.J.)ワゴナーと(A.T.)ジョーンズ兄弟達を通した主のメッセージに反対した、ミネアポリス[1888SDA全体総会]で明らかに現れて、基本的に反対意見が多勢を占めていました。その反対意見のたかまりによって、サタンは、神が彼らに与えようとしていた聖霊の特別な力を、多数決によって、私達の[側の]人々から締め出すことに成功しました。使徒達がペンテコステの日の後でそれを布告した時のように、この世界の人々に特別な真理を伝えてきた彼らの能力を持ち続けることを、その敵は妨害しました。私達自身、兄弟達は、この世界の人々から遠ざけられつつ、偉大な光/知識の度合いによって、その光/知識は、それ自身の栄光が反対されると同時に地上全体を照らして啓蒙するために存在しています。

 

訳者加筆多数決について。これは、1888年ミネソタ州ミネアポリスで開かれたSDA全体総会会議のことです。『エレン・G・ホワイト百科辞典』2013,p.334-「キャンライト」の項p.61によると、信仰による義と行いによる義に関して、当時の全体総会代表のG.I.バトラーは、総会前に9人の委員を任命して会議を開きました。多数決を取った結果、「行ないによる義」:「信仰による義」は54でした。律法思考にはG.I.バトラー、ユライヤ・スミスが、福音思考にはE.T.ワゴナー、A.T.ジョーンズなどがいました。この後、E.ホワイト(73)2年間、アメリカ横断伝道旅行をして「信仰による義」を伝えました。残念なことに、ワゴナーとジョーンズはSDAの信仰から離れていきました。

 

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 十戒の律法は、恵みの側面とか、禁止の側面が多いとか、見上げるために存在しているのではありません。それ自身の禁止は従順による幸の確かな保証です。キリストを受け入れた時、それ[十戒]は品性の清めとして私達の内で働いていて、永遠の世代を通じて私達に喜びをもたらすでしょう。従順なことは、一つの保護する壁です。違反の結果の悪から人々を守ることを求めて、不変の義の原則を人々に明らかにすることによって、私達はその中に神の善意を注視しています。

 私達は、人の罪のために罪びとを罰しようと構えている者として神を考えるために存在しているのではありません。罪びとは、自分自身で罰をもたらしています。その人自身の行動は、確かな結果をもたらす状況に引かれて始まっています。全ての[律法]違反の行動は、その罪びとに戻ってきていて、品性を変える人の中で働いていて、そして、彼に、再度の違反をもっとしやすくしています。罪を選ぶことによって、人々は神から自分自身を離れさせ、祝福の回路 [のスイッチ]を自ら切っています。そして、確かな結果は滅びと死です。

 その律法は神の思想の一つの表現です。私達がキリストによってそれを受け入れる時、それは、私達の思想になっています。それは、罪に導く誘惑以上に、私達の生まれつきの望みや傾向の能力を上へと高めています。「そなたの律法を愛する者には大いなる平和があり、彼らを逸らすものは何もないでしょう」(詩編119:165 KJV)――[これが]人々のつまずきの原因[になります]

 不義の中には平和が存在しません。悪人は、神と争いをしています。しかし、キリストによって神の律法の義を受け入れている人は、天との調和の中にいます。「恵みと真理は共に出会わせられて、義と平和が互いに口づけしました」(詩編85:10 KJV)。                『手紙』96.1896[69]


第32章 キリストと神の律法

 

 

 

 

1.神の律法の中のキリストの義[6]

[福音と儀式]

 パウロは、ユダヤ教の教師達の影響から湧き上がって来た最も難しい問題に立ち向かう必要がありました。彼らは、パウロに、コリントの教会で激しい論争が原因の多くの悩ましい問題を提起しました。彼らは、パウロが新たな回心者にそれらを強く求めていなかったので非難して、キリストの福音よりも儀式を高い位置において、神の律法の儀式の効力を提示し続けていました。

[死への奉仕]

 パウロは、自身のこれらの[考え方の]基盤に立って、彼らに立ち向かいました。彼はこう言っています。「もしも、二枚の石に刻まれて書かれた、死への奉仕が、栄光だったとすれば、イスラエルの子らは、モーセの顔つきにある栄光のために、彼をしっかりと見上げることができなかったでしょうが、そうではありません。その栄光は捨てられるために存在していました。[石に書かれた]その精神の奉仕はどれほど思ったよりも栄光ではなかったのでしょうか。もしも、その譴責の奉仕が栄光であるならば、栄光によって、はるかに、義を超えた奉仕をするでしょう」(2コリント3:7-9 KJV)。

 シナイの山から荘厳に重々しく語られた神の律法は、罪びとを激しく譴責する言葉です。それ[律法]は譴責するための律法の分野/役目です。しかし、それ[律法]には、贖うことや赦しの力がありません。それ[律法]は、生きることを用意しています。それ[律法]の指針に調和して歩む人々は従順という報酬を受け取るでしょう。しかし、それ[律法]は、その譴責の下に残留している人々に死と束縛をもたらしています。

[律法にあるキリストの義]

 神聖と栄光は律法に存在しています。モーセが、二枚の石の板を主の手から受け取って、神と共にいた神聖な山から戻ってきた時、彼の顔は栄光を反映していました。それを、その民は苦痛なしに見ることができなかったでしょう。モーセは、自分の顔をベールで隠さざるを得ませんでした。

 モーセの顔に輝いていたその栄光は、その律法にあるキリストの義の一つの反映でした。その律法それ自身は、栄光を持っていないでしょう。その中には、キリストだけが存在しています。それは、救う力がありません。それは、輝きのないもので、キリストにだけ義と真理が満ちて表されています。

 聖所での様々な奉仕の予型(象徴)と数々の影は、預言によって、キリストの啓示によって、世界の人々にもたらされるための恵みと赦しをはっきりしない見解で隠された状態で、古代イスラエル人達に与えられました。モーセには、キリストを指し示している数々の影と様々な予型の意味を隠されていました。彼は、予型(旧約の象徴)が本型(新約の実体)に出会って、キリストの死によって廃止されるように存在していたその終わりを見ていました。彼は、キリストを通してだけ、人間が道徳の律法を守ることができるということを見ていました。神の律法に違反することによって、人間はこの世界中の人々に罪をもたらしました。そして、罪と共に死が訪れました。キリストは、人間の罪のためになだめものとなりました。彼は、罪深い人間の立場で完全な品性を提供しました。彼は、不従順の呪いを自ら引き受けました。その犠牲と捧げ物は、彼が作るために存在していたその犠牲を指し示しました。殺された子羊は、この世界の人々の罪を取り除くために存在していた神の子羊を予示していました。

[道徳律法の栄光]

 モーセの顔に輝いていたもの、また、廃止されるように存在していたもの[犠牲と捧げ物]は、その対象、つまり、律法の中に啓示されたキリストを見ていました。石に刻まれて書かれた律法への奉仕は、死への一つの奉仕でした。キリストの存在なしでは、違反の罪は、赦しの希望がなく、呪いの下に残されていました。その奉仕はそれ自身に栄光はありませんでした。しかし、儀式の律法の影と予示によって啓示された救い主の約束は、道徳の律法を栄光のあるものにしました。

 パウロは、自分の[信仰の]兄弟達に、ユダヤ人全体の救いに意味を与え、罪を憐れむ救い主の大いなる栄光を見るように望んでいました。また、「キリストがこの世界に来て、人間の犠牲として死に、予型が本型に出会った」時を知るようにと、彼は彼らに望んでいました。

 キリストが、罪の捧げ物として十字架上で死んだ後で、その儀式の律法は効力を持たなくなったでしょう。また、それは道徳の律法と繫がっていました。そして、それは栄光でした。その[律法の]全体は、神性のしるしを帯びていて、神の聖と裁きと義を表していました。キリストが、自身の命を与え、信じる全ての人に清める霊/精神を与える[者として]啓示された時when Christ was revealed, giving His life-giving, sanctifying Spirit to all who believe、もしも、廃止されるためのその[儀式の]制度による奉仕が栄光だったならば、その栄光は実際にどれほどの大きさが必要でしょうかhow much more must the reality be glorious.

[神の威厳と栄光]

 十戒の律法の宣言は、神の威厳と栄光の素晴らしい表明の一つでした。この威力の現れに、その民はどれほど感動したでしょうか。その民は恐れました。彼らが「カミナリが鳴り、稲妻が光り、トランペットのような音と、山が煙る」のを見た時に、彼らは「移動しました。そして、離れて立ちました。彼らはモーセに、そなたが私達に語ってください。私達が死なないように」(出エジプト記20:18,19 KJV)と言いました。民はモーセに自分達の仲介者になるようにと望みました。彼らは、キリストが自分達に約束された仲介者だったこと、キリストの仲介が奪われたことを理解していませんでした。彼らは、確かに焼き尽くされたのでしょう。

 「モーセは、その民に語りました。神はあなた方を試すために来ているので、恐れる必要がありません。神の心配があなた方の顔の前にあるでしょう。汝らに罪はありません。そして、その民は離れて立ちました。モーセは神が存在していた暗雲の中に近づいて行きました」(出エジプト記20:20,21 KJV)。

 イエスキリストにある、信仰による義と罪の赦しは、人々が持っていた少しの概念の真理――罪悪感と罪、人々の失われた状態のゆえに、仲介者を通してだけ神に近づいています。大いなる評価によって、人々は神の知識と神に近づく唯一の方法を失いました。人々は、何が罪を構成するのか、何が義を構成するのかほとんど全ての感覚を失いました。予示された人々のための捧げ物、約束されたメシア、キリストを通した罪の赦しは、わずかに理解されただけでした。

[取り去られるベール]

 パウロは、こう断言しました。「私達はそのような希望をもって見ているので、私達はおおいに明確な弁論術を利用していて、自分の顔にベールを掛けたモーセのようにはしません。イスラエルの子らはそれ[儀式の律法]が廃止され終わったことを確かめず注意していませんでした。古い契約を読む時に取り除かれた同じようなベールが残っているので、彼らの知性は分別がなくなりました。そのベールはキリストによって取り去られています。しかし、今日まで、モーセの書が読まれる時、そのベールは彼らの心の上に存在しています。しかしながら、彼らが、主に立ち返るならば、そのベールは取り去られるでしょう」2コリント3:12-16 KJV)。

[[霊的な]無知の闇のベール]

 ユダヤ人達は、メシアとしてのキリストを受け入れることを拒みました。そして、彼らは自分達の儀式が意味のないものだということと、また、その犠牲と捧げ物が意味を失ったということを理解できていません。そのベールは、自分達の頑迷さによって覆われたままで、不信仰が彼らの知性の前にしっかりと存在しています。それは、彼らが、その律法の義、キリストに近づくならば剝がされるでしょう。

 また、世界のクリスチャンの多くが、目と心の前に一つのベールを持っています。彼らは、それが取り去られたその終わりを見ていません。彼らは、それが、キリストの死で廃止された儀式の律法だけだったことも見ていません。彼らは、道徳の律法は十字架に釘づけられた、と主張しています。重要な点は、彼らの理解を[霊的な]無知の闇に包んでいるベールです。多くの人々の心は、神と戦っている状態です。彼らは、神の律法に目的を持っていません。神の統治のルールの調和に至るような人だけが、キリストを何らかの味方/益にし得るでしょう。彼らは、救い主としてのキリストに語るでしょう。しかし、彼は、最後にその人々にこう言うでしょう。「私はあなた方を知りません。あなた方は、主の聖なる律法の違反のために、神への真の悔い改めを実践しませんでした。そして、神の律法を崇めることは私の任務だったので、あなた方は私への真の信仰を持つことができませんでした」。

 

2.キリストの品性の写しの一つ

 パウロは、私達の時代の牧師達がするような冒険として、道徳の律法と儀式の律法の両方を表しませんでした。そのように、神の律法に反感を持つ人は、それに烙印を押して公然と非難する方法に出るでしょう。このように、彼らは、神の威厳と栄光について、嫌って蔑みを注いでいます。

 道徳の律法は、決して、予示や影ではありませんでした。それは、人間が創造される前に存在していて、神の玉座が残っている限り、耐えるでしょう。その律法は神の統治の基盤なので、神は、人間を救うために神の律法の指針の一つでも、変更することも改造することもしなかったでしょう。それは、無限に、そして、永遠に、改造不可能、変更不可能です。人間が救われるために、また、その律法の栄誉が保たれるために、それは、罪の犠牲として自身を捧げる神のひとり子を必要としていました。罪のないことを知っていた彼は、私達のために罪[の人]となりました。彼は私達のためにカルバリーで死にました。彼の死は、人間に神の律法の不変性と素晴らしい神の愛を示しています。

 その山での説教の中で、キリストはこう言いました。「私が、その律法や預言者達を廃止するために来た、と考えてはいけません。私は廃止するために来たのではなく、成就するためです。確かに、私はあなた方に言います。天と地が過ぎ去るまで、全てが成就するまで、その律法から決して一点一画も取り去らないでしょう」(マタイ5:17 KJV)。

 キリストは、人間が贖い主の功績を通して受け入れられるために、また、神の律法を守ることができる所に置かれるために存在しているゆえに、特別な計画の完了を果たし、それ[律法]自身の罰による苦悩と、その律法の呪いを負いました。そして、主の犠牲によって栄光がその律法の上に注がれました。廃止されるために存在しているのではないその[律法の]栄光――神の義の標準、十戒が属する神の律法――は、廃止されたもの[礼典律法]のその終わりを見た全ての人々によって、はっきりと理解されました (Then the glory of that which is not to be done away God's law of ten commandments His standard of righteousness was plainly seen by all who saw to the end of that which was done away.[礼典律法]は訳者の挿入語)

 「私達はみな、ベールを取り除かれたopen顔で、ガラスの鏡の中に主の栄光を見ているように、主の聖霊によって、栄光から栄光へと同じかたちimageに変えられています」(2コリント3:18 KJV)。キリストは罪びとの擁護者です。主の福音を受け入れている人々は、ベールを取り除かれた顔で彼を見上げています。彼らは、その律法とキリストの任務との関連を見ています。そして、彼らは、救い主によって啓示された神の知恵と栄光を悟っています。その律法の中に啓示されたキリストの栄光は、彼の品性の写しの一つです。彼が[品性を]形成する効果は、人々が主のように変えられるまで、その人の魂に感じられています。人々は、完成/成熟に届くまで、神の意思と一致して一歩ずつ前進して、救い主のように、さらにもっと成長して、そして、神性の性質にあずかる者達として形成されています。

 その律法と福音は完全に調和して存在しています。それぞれは、互いを擁護しています。それ自身の威厳の全ての中で、その律法は、罪のなだめものとしてのキリストの必要を感じる罪びとの[動機の]理由となる、人間の良心と向き合っています。その福音はその律法の不変性と効力を認めています。「私は罪を知りませんでした。しかし、律法によって[罪を知りました]」(ローマ7:7)。罪の感覚は、その律法によって、罪びとに救い主が必要だという衝動を起こして、安息の場所、家homeを強く勧めました。その人の必要によって、人間は、カルバリーの十字架によって用意された力強い主張を表明するでしょう。それは全ての悔い改めた罪びとに与えられているので、彼はキリストの義を主張するでしょう。神は、このように宣言しています。「私[の所]に来る人を、私は追い返したりしない主義です」(ヨハネ6:37 KJV)。「私達が自分達の罪を告白するならば、彼は、全ての不義から私達を清めるような、また、私達の罪を許すような真実で正しい存在です」(1ヨハネ19 KJV)。


 

第33章 受肉――キリストの性質

 

 

 

 

 

1.「御言葉の調査研究」[7]

[教訓の書]

 全ての人間が、人と神との関係を理解する理性の能力を授けられたことは高度で重要なものに属しています。私達の学校において、贖いの働きが注意深く研究されていません。多くの学生達が人類の救済の計画の意味することについて現実的な概念を持っていません。神の言葉は私達の味方によって堅く約束されています。私達の弱い考え方に心を動かされた彼は、私達をこう招いています。「重荷を負って苦労している汝ら全ては、私の所に来てください。私は、あなた方に休息を与えましょう。あなた方は私のくびきを着けてください。私は心が優しく謙遜な者ですから、汝らは、あなた方の魂に休息を見つけるでしょう。私のくびきは負いやすいので、私の重荷は、光/軽やかです」(マタイ1128-30 KJV)。

 [キリストの学校の]学生のみなさん、あなた方は、キリストと自分を繋いで、完全な屈服と従順の時だけ安全です。キリストがその重荷を負うので、そのくびきは負いやすいです。あなた方が、あの十字架の重荷を負う時、それは、光/軽やかとなるでしょう。そして、その十字架は、永遠の命の堅い約束としてあなたのために存在しています(that cross is to you a pledge of eternal life)。それは、キリストの後を喜んでついて行く人々の特権です。「汝の親切は私を成長させました」(2サムエル記2236 KJV)。しかし、私達が天に向かって旅をしているのであるならば、自分達の教訓の書として、神の言葉を研究する必要があります。霊感の言葉によって、私達は日々の教訓を読む必要があります。

[知性]

 使徒パウロはこう言っています。「キリストイエスの中にあった、この知性があなた方の中にあるようにしましょう。キリストは、神の姿formで存在していましたが、神と等しくあることを失わないように考えて [8](thought it not robbery to be equal with Him.) [p.45参照]、へりくだって、奉仕者の姿を取って、人間のようになりました。そして、一人の人間としてのやり方で存在して見られました。彼は謙虚で、十字架の死でさえも、死ぬまで従順になりました。そういうわけで、神は彼をとても高貴にして、全ての名前を超えた所にある名前を与えました。イエスの名前に、全ての人は膝をつくでしょう」(フィリピ25-10 KJV)。

 人間の恥、キリストイエスは、人間の知性には不可解です。しかし、世界の人々の前において、彼の神性と彼の存在は、神の言葉を信じる人々によって決して疑われえない姿をしていました。使徒パウロは、私達の仲介者、神のひとり子について語っています。天使の全ての軍勢の指揮者、彼の栄光の状態の中に、神の姿がありました。彼は、人間性と神性を身に着けた時、奉仕者としての姿を自分の上にまといました。イザヤはこう叫んでいます。「私達のために一人の子どもが生まれています。私達のために一人の息子が与えられています。そして、その統治は彼の肩の上にのるでしょう。また、彼の名は、素晴らしいカウンセラー、威厳ある神、永遠の父、平和の王と呼ばれるでしょう。今から永遠に、正義と共に、裁きと共に、そして、その設立のため、その秩序のため、彼の王国に、ダビデの王座の上に、彼の統治と平和が増すと、そこには終わりがありません」(イザヤ96,7 KJV)。

[謙虚humility]

 人間になるという同意によって、キリストは、それが天の知者達の驚嘆である一つの卑下/謙虚を現しました。恥をかいたことのない者が一人の人間になるということへの同意行動は、キリストの高貴だった先在性の事実のゆえではありませんでした。私達は、キリストが自分の王衣を脱ぎ、王冠を取り外し、指揮権を脇に置き、そして、人間性と神性をまとったという事実について、私達の理解を開示する必要があります。それから、彼は、人類家族に神の息子娘となるために道徳的な力をもたらして、彼が存在していた所で人間に出会えるでしょう。人間の贖いのために、キリストは死ぬまで、十字架の死でさえ従順になりました。

[肉体の中にいた神]

 神のひとり子の人間性は、全てが私達のために存在しています。私達の魂をキリストに結び付け、キリストによって神に結び付けるのは、金の鎖です。これは私達の研究 [のテーマ]になるように存在しています。キリストは実際に一人の人間でした。彼は、一人の人間になって彼の卑下/謙虚についての証明をしました。また、彼は肉体の中にいた神でした。私達はこのテーマに近づいた時に、私達は、燃える柴でモーセにキリストが語った言葉によく注意をしたいものです。「汝が立っているその場所は聖なる地面なので、汝の足から汝の靴を脱いでください」(出エジプト記35 KJV)。私達は、悔い改めた心を持って、一人の学習者として謙虚にこの研究をする必要があります。そして、このキリストの受肉の研究は実りのある一分野です。これは、隠された真理のための深い層を掘る研究者に報いがあるでしょう。

 

2.私達のガイドは御言葉

 御言葉は、永遠の命に導く安全な小道での私達のガイドです。神は、書くために人々に霊感を与えました。それは、私達に現在の真理を表しているでしょう。それは心を惹き付けているでしょう。そして、それは、もしも、実行されたならば、高等教育を受けた人々の知性の間での層として道徳的な能力を得るための受け入れる人としての権利を与えるでしょう。神の言葉を自分達で研究する人々の知性は成長して拡大するでしょう。ほかのどのような研究以上にも、もっと理解と認識の能力を増す性質のものに属していて、そして、新たな心身の活動力と共にあらゆる才能を授けます。それは、真理の高貴な原則など、広い分野との触れ合いをもたらしています。それは、知恵と知識と理解を与える、天の全てとの親密な繋がりを私達にもたらしています。

 平凡な出版物が配られ、霊感が与えられていない人々の著書で養われて、その知性は成長を妨げられ、品位を落とされるようになっています。それは、永遠の真理の広い原則、深い関連にもたらされていません。無意識の理解は、それが似たものである事柄の認識へとそれ自身が適合しています。それらの事柄の考慮によって、理解は弱められ、その力は縮小されています。

 神は、全ての人間の理論の上に存在している科学の源として、御言葉が調査研究されるようにデザインしています。彼は、人間が真理の鉱脈を深く掘るようにと望んでいます。その人はそこに含まれている価値ある宝物を得るでしょう。しかし、あまりにしばしば、人間の理論と知恵は、聖書について科学の位置に置かれています。人々は、神の目的の仕立て直しの働きに繫がっています。彼らは、聖書の各巻の間を見分けるよう試みています。彼らの創案によって、彼らは、御言葉の証を一つの嘘としています。

 

3.人間が必要としている正義

 神は、人間の理性に頼るような福音でもてなしをしませんでした。その福音は、人間の霊的な食欲を満たすような、霊的な食物が表されています。全てのケースにおいて、それは人間が必要としているものです。私達の学校の学生達が多くの著者から学ぶ必要があると考えている人達は、自分から聖書の偉大なテーマ[の研究を]怠っています。教師達は、自分から全ての本の中の特別な本を取り上げる必要があり、そして、悔い改めた知性、謙遜に向けて、それ自身の神性を証明する力を持っている福音を御言葉から学ぶ必要があります。

 その福音は神の知恵であり神の力です。地上でのキリストの品性は神性を現しました。そして、彼が与えた福音は、教師達や子ども達まで、それらの全ての教育部門において、キリストの人間性の遺産として研究されるために存在しています。そして、若い人たちが自分達の信仰と愛と崇敬の対象として、唯一の生きている神と真理を見分けるでしょう。その言葉は、従われて尊敬されるために存在しています。キリストの生涯、彼の働き、彼の教え、彼の苦難、最終的な勝利などの記録を含んだその本は、私達の[身体的・精神的・霊的な]力の源となるために存在しています。私達は、より高度な生活(高等教育機関よりもはるかに高いレベルの)に合うことができるように、この世界で学校生活の特権を認められています。そこでは、神の指導の下、私達の学習は、終わることのない永遠の時代に亘って続くでしょう。


 

第34章 受肉――キリストの性質

 

 

 

 

 

1.「言葉が身体となった」[9] [受肉は神性の深遠な未知]

 「初めに言葉がありました。その言葉は神と共にありました。その言葉は神でした。同じもの[言葉]が神と共に始まりの中にありました。全ての物は彼 [言葉] によって造られました。言葉なしに何も造られませんでしたが、それら[全ての物][言葉によって]造られました。彼[言葉]の中に命がありました。そして、その命は人々の光や知識でした。そして、その光や知恵は闇や無知の中で輝いています。その闇や無知はそれ[光や知識]を理解しませんでした」「そして、その言葉は身体となり、私達の間に住みました(そして、私達は、父のひとり子としての栄光、恵みと真理に満ちた彼の栄光を見上げました)」(ヨハネ11-5,14 KJV)。

 この章は、キリストの働きの重要さと、その特徴/品性を細部に亘って描写しています。彼の目的を理解している一人の人として、ヨハネは、キリストの威厳や偉大さについて語り、彼のあらゆる能力を考えて書いています。彼は、太陽からの光として、高貴な真理について四つの神性な光線を当てています。彼は、人間性と神の間の唯一の仲介者としてキリストを現しています。

 人間の身体の中にいるキリストの受肉の教理は、未知mysteryの一つです。「その未知は何世代も時代から時代へと隠されてきました」(コロサイ1:26)。それは、神性の深遠な未知で、偉大なことです。「その言葉は身体となって、私達の間に住みました」(ヨハネ114 KJV)。キリストは、彼の天の[神性の]性質より下の劣った一つの性質、人間の性質を自分に取りました。彼は、「世界の人々をとても愛していたので、神は一人子を与えました」(ヨハネ316 KJV)のように、神の素晴らしい謙遜を示している者はいないでしょう。ヨハネは、光を与えられ教化されて表明したその考えを全ての人々が捉えることができるように、この素晴らしいテーマをそのように簡潔に書き表しています。

 キリストは、人間の性質を取ることを考えていませんでしたが、彼は確かにそれを取っていました。彼は、実際に人間の性質を所有していました。「[神の]子らは肉と血にあずかっている者達で、彼自身もまた同じように、同じ[肉と血の]部分に与りました」(ヘブライ2:14 KJV)。彼は、マリヤの息子でした。人間の家系によれば、ダビデの子孫に属する者でした。人間キリストイエスでさえ、彼は一人の人間として存在している、と宣言されていました。パウロはこのように書いています。「家を建てた人がその家以上に尊ばれるのだけれども、この人は、モーセ以上の栄光の価値ある人に数えられました」(ヘブライ33 KJV)。

 

2.キリストの先在性

 しかし、一方、神の言葉は、キリストが地上にいた時の彼の人間性について語っています。それはまた、彼の先在性について断定して語っています。その言葉は、彼の父と一つで団結して、永遠の神のひとり子、一人の神性の存在者として存在していました。永遠から、人々が彼を受け入れるならば、ユダヤ人達と異邦人達双方の、地の全ての国の民の中で、一人だけの約束の仲介者だった彼は、祝福されるために存在していました。「その言葉は神と共にありました。その言葉は神でした」(ヨハネ11 KJV)。人々や天使達が造られる前に、その言葉は神と共に存在していて、そして神でした。

 この世界は彼によって造られました。「言葉[]なしに何も造られませんでしたが、それら[全ての物][言葉によって]造られました」(ヨハネ13 KJV)。キリストが全てのものを造ったのであれば、彼は全てのものの[存在]以前に存在していました。その言葉は、疑いの中に残される人が一人もいないように、明白なものが存在するように語られています。キリストは、本質的に、また、最も高度な考えによっても神でした。彼は、神と共に永遠から存在していて、永遠に祝福された、全ての点において神でした。

 その父と一つの、また、一人の別個の人格、主イエスキリスト、神性の神の子は、永遠から存在していました。彼は天の栄光の最高の存在でした。彼は、天の知者達の指揮者でした。天使達の敬意を受ける崇拝は、彼の権利として彼によって受け入れられました。これは、神に属することを失わないThis was  no robbery of God.)ものでした[p.39参照]。主は宣言しています。「いにしえの働きの前に、主は、その方法の初めにおいて、私を所有していました」。「私は、地が存在した、その初めから、永遠から存在していました。まだ、[海の]深みもなかった時に、水のあふれ出る泉がなかった時に、私は連れてこられました。山々が据えられる前に、丘並みが[据えられる]前に、まだ、神がこの地を造っていなかった時に、野原やこの世界の塵の最初の部分も作っていなかった時に、私は連れてこられました。神が天を[造る]用意をした時に、私はそこにいました。神が[海の]深みに面して一つの半円形を据えた時」(箴言8:22-28)

 この世界の基礎が据えられる前に、キリストは父と一つだったという真理の中に光や知識と栄光があります。これは、栄光の源、神性に輝くそれをなしている、闇や無知の中に輝く光や知識です。この真理は、それ自身の中の無限の未知、ほかの未知と表現されていない他の真理を表しています。一方、取り組むことが不可能なものや理解不可能なものが、光や知識によって述べられています。

 「山々が [目の前に]もたらされる前に、そなたが、地とこの世界を形成する前から、永遠から永遠に、汝は神です」(詩編90:2 KJV)。「闇と無知の中に座っている人々は、偉大な光や知識を見ました。死の域と死の陰に置かれている人々は、光や知識が昇ってくるのを見ました」(マタイ416 KJV)。ここに、私達の世界の人々のために主が現している目的とキリストの先在性が、永遠の御座からの生きている光や知識の光線として表されています。「今汝ら自身は群れとなって集まっています。群れの住民や娘達よ。彼[]は、私達に向かって包囲網を置きました。彼らは、一本の棒を頰の上に置いてイスラエルを裁く者を罰するでしょう。しかし、汝ら、ベツレヘムのエフラタよ。ユダの間で数千の小さな存在ですが、汝らの内から、彼はイスラエルを治めるために存在している私に来るでしょう。彼の来るのは、永遠から、いにしえから存在していました」(ミカ書5:1,2 KJV)。

 パウロは、こう断言しています。「私達は、ユダヤ人にはつまずきの石、ギリシア人には愚かな者である、十字架につけられたキリストを教えています。しかし、呼び集められた者にとっては、ユダヤ人にもギリシア人にも、キリストは神の力であり、神の知恵です」(1コリント1:23,24 KJV)。

 

3.一つの未知 a mystery

 このように、身体の中に現れたであろう神は、確かに一つの神秘です。聖霊の助けなしに、私達は、このテーマを理解する希望を持つことができません。人間が学ぶ必要のある最も謙遜な教訓は、人間の知恵には何もありません。そして、神を見つけ出すために自分の力の努力による試みの愚かさ[を持っています]。人は最大の知的能力で努力しているでしょう。人は、世界の人々が高等教育と言っているものを受けているでしょう。また、人は、それでも、神の目に愚かとされているでしょう。古代の哲学者達は自分達の知恵を得意がっていました。しかし、それは、神の天秤によって計るとどれほどの重さ/価値があったでしょうか。ソロモンは多くのことを学びましたが、彼の知恵は愚かなものでした。その理由は、彼が「神性の似姿を求めて形成される品性の力により、罪を捨てて道徳的に自律して行動するための方法を」知らなかったためでした。ソロモンは、私達に、自分の調査研究、丹精込めた努力、厳格な探究の結果を私達に語りました。

 知恵によって、世界の人々は神を認識しませんでした。神性の品性に関するその人々による評価と、神の属性に関するその人々の不完全な知識は、彼らの知的な概念を拡張も発展もさせませんでした。その人々の知性は、神性の意思に適合するように高貴にはされませんでした。その人々は酷い偶像崇拝に陥って行きました。「自分では知恵ある者と言いながら、愚か者となり、神の不滅の栄光を、滅んでしまう人間や鳥、四つ足の動物、地を這うものに似せたかたちimageに変えました」(ローマ122,23 KJV)。これが、キリストから離れた知識と求めたものの全ての価値です。

 キリストはこう言いました。「私は、特別な道、特別な真理であり、特別な命です。私によらなければ、人は天の父に行けません」(ヨハネ146 KJV)。キリストは、全ての造られたもの達に命を与えるための力が備わっています。彼はこう言っています。「生きている天の父が私を遣わしました。私はその父によって生きています。私を食べる人は、私によって生きるでしょう」、「生き返らせるのは聖霊や精神です。身体は益になりません。私があなた方に語る言葉は、精神であり、それらは命です」(ヨハネ6:57,63 KJV)。キリストは、ここでは、自分の教えについて論じていませんが、彼の人格について、彼の品性の神性について[論じています]。もう一度彼はこう言っています。「確かに、たしかに、私はあなたがたに言っておきます。その時が来ています。そして、今がその時、死が神のひとり子の声を聞く時です。そして、それを聞いた人々は生きるでしょう。天の父は、自分の中に命を持っているように、その子も自分の中に命を持つようにし、そして、彼[神のひとり子]が人間の息子なので、裁きを遂行する権限を与えました」(ヨハネ5:25-27 KJV)。

 

4.キリスト誕生の意味

 神とキリストは、背信のだます力を通したアダムの堕罪とサタンの背信について、最初から知っていました。人類救済計画が、もう一つの試練を人々に与えるために、人類の贖いのために設計されました。キリストは、永遠から、私達の身代わりと保証になるということが定められていて、神が創造した時から仲介者の役割を任されていました。この世界が造られる前から、キリストの神性が、人間性の中に包み込まれることは、あらかじめ取り決められていたでしょう。キリストは、こう言いました。「そなたは、私のために一つの身体を用意しました」(ヘブライ105 KJV)。しかし、彼は時が満ちて完了するまで、人間の姿では来ませんでした。それが満ちてから、彼はベツレヘムの一人の赤子として、私達の世界に来ました。

 神の子どもたちへの偉大な贈り物として、ベツレヘムで生まれた赤子を迎えた時の、歓迎の行事と一致せずに、この世界に生まれた人は一人もいません。

神の天使達は、ベツレヘムの野原や丘の空で、彼を讃えて歌いました。彼らはこう歌いました。「いと高き所では神に栄光が、地には平和が、そして、良い事が人々に向かうでしょう」(ルカ214 KJV)。今日、人類家族はこの歌に覚えがあるでしょう。その時に始まった調べと、その時の感動として記憶に残ったその合唱の歌声は、時の終わりに高揚し、地の終わりに声高くこだまするでしょう。それは、神の栄光です。それは、地上の平和です。人々への良い事でしょう。義の太陽が彼の翼の中の癒しと共に昇るでしょう。その時、ベツレヘムの丘を出発したその歌声は、群衆の声によって繰り返して反響するでしょう。大水の音のような声がこう歌います。「アレルヤ、主なる神は全能の支配者」(黙示録196)。

 神が求めている全ての戒めへのキリストの従順によって、彼は人々のための贖いの働きを成し遂げました。これは、自分自身の[神性]をほかの所に出してではなく、自分の中に人間性を取り込むことによって[なされました]このように、キリストは自分自身の外側の存在として人間性を備えました。キリストの中に人間性をもたらすこと、神性との一体に、罪に陥った人類を連れて行くことが贖いの働きです。キリストは、自分がその父と一つであるように、人々が彼と一つになるという人間の性質をとりました。天の父がそのひとり子を愛しているように、人々は神性の性質にあずかる者となり、彼の中で完全な者となるでしょう

 神のひとり子から遣わされた聖霊は、キリストの神性と人間の性質、その完全さ、精神と魂と体、人間の働き手と結ばれています。この一体化は、ブドウの木とその枝との一体によって描かれています。有限な人間はキリストの成熟した状態と一つになっています。信仰を通して、人間の性質はキリストの性質と一致しています。私達はキリストの中で神と一つに造られています。


 

第35章 受肉――キリストの性質

 

 

 

 

 

1.「私達と同じくあらゆる点で誘惑された」[10] [人間の[救済]目的]

 人間が罪に陥った後で、サタンは、「人間は神の律法を守る能力がない、ということが証明された」と断言し、そして、この信念によって人間を全宇宙の前に連れて行くことを主張しました。サタンの言葉は真実であるように思われました。そして、キリストは、そのだます者の正体を暴くためにやって来ました。天の威厳ある者は、人間の[救済]目的に着手しました。そして、人間が誘惑に抵抗する必要がある時に、人間が手にすることのできる手段によって、サタンの誘惑に抵抗しました。これは、罪に陥った人間が神性の性質にあずかる者となれる唯一の方法でした。人間の性質を取ることによって、キリストは人間の試練と悲嘆と取り囲まれるあらゆる誘惑を理解するための準備を整えました。罪を知らなかった天使達は、独特の試練の中にいる人間に共感できないでしょう。キリストは人間の性質を取るために、へりくだり、そして、私達のように、あらゆる点で誘惑されました。彼は、誘惑される全ての人を助ける方法を知っているでしょう。

[身体の中に現された神]

 人間性を帯びることによって、キリストは全ての人間の立場を取りました。彼は、人間性の頭(かしら)でした。一人の神性の存在者また人間として、また、彼の人間の長い腕によって、彼は人間性を包み囲むでしょう。一方、彼の神性の腕/能力によって、彼は無限の玉座を捉えているでしょう。これは、天を見上げる、なんと素晴らしい見方でしょう。キリストは、罪の害毒や汚れを少しも知らないで、低下した状態の私達の性質を取りました。これは、有限な人間が理解できる以上に大いなる謙虚でした。神は、肉[]の中に現されました。彼は自分を低くしました。なんと、深く熱心に見つめて、熟考するためのテーマでしょう。無限に偉大な彼は天の威厳者でした。そして、また、彼は、自分の栄光と威厳の微塵の一つも失うことなく、低く、身を低くました。彼は、清貧のために、また、人々の間でひどい信用の失墜のために、身を低くしました。私達のために彼は貧しくなりました。私達は彼の清貧を通して豊かにされるでしょう。彼はこう言いました。「狐たちには穴があり、空を飛ぶ鳥たちには巣があります。しかし、人の子には頭を横にする所がありません」(マタイ820 KJV)。

[神性と人間性]

 キリストは、侮辱と嘲り、蔑みと冷やかしに従順でした。彼は、悪用され偽って述べられていた[けれども]、愛と善意と憐れみに満ちた主のメッセージを聞きました。彼が神の子としての自分の神性を明らかにしたので、彼は自分自身が悪の王を呼んだということを聞きました。彼の誕生は超自然なものでした。しかし、彼自身の国の民、[すなわち]霊的/精神的な事柄へ目が塞がっていた人々によって、それ[彼の誕生]は、染みと汚点としてみなされました。彼が味わわなかった私達の酷い苦悩の滴はありませんでした。彼が耐えなかった私達の呪いのひとかけらもありませんでした。彼は多くの息子達と娘達を神へと連れて行ったことでしょう。

 天の家を去って、永遠の滅びから罪びとを救うために、深い悲しみを知らせ、悲哀の人として、イエスがこの地上に存在したという事実は、満身の罪を私達に明らかにして、私達の虚栄心の恥をみな投げ捨て、私達の思い上がりをみな塵の中に消し去るでしょう。見上げましょう、主自身、罪深い人々の苦悩と悲しみ、試練と欠乏を知っています。罪の結果、魂が傷つき、苦悩を耐えたという神の教訓を、私達は心の安らぐ場homeとすることができませんか。

 神が、父と子とが繫がった彼を任命した時as God created him 、人間の代表として立つために人間性を取って、その人間とサタンとの特別な闘いの中で示すために、この地上にやって来たキリストは、全ての神性の求めに従うことができました。「主の戒めは苦しいものではありません」(1ヨハネ53 KJV)。彼の神から人を離れさせることは罪でした。そして、この分離を続けることは罪です。

 

2.エデンでのある預言

 かの敵がエデンで主張したその預言は、単に、命の君とサタンとの間に限定されるものではありませんでした。それは全宇宙のために存在していました。サタンとその天使達は、全人類の敵対感情を考えるように存在していました。神はこう言いました。「私は、汝とその女性の間に、汝の子孫と彼女の子孫の間に、敵対感情を置きます。それ[敵対感情]は汝の頭を傷つけ、汝は彼の踵を傷つけるでしょう」(創世記315 KJV)。

 そのヘビの子孫とその女性の子孫との間の敵対感情は、超自然的なものでした。キリストによってその敵対感情は、人の中に自然な感覚になりました。人間性と神性が結ばれた時のもう一つの感覚は超自然的でした。キリストがこの地の住民の一人となった時には、そのような著しい程度の敵対感情は決して発展していませんでした。キリストがいた時には、完全にひどい憎悪によって罪を嫌った人々はこの地の[人々の]前に存在していませんでした。彼[キリスト]は、それ[敵対感情]が聖なる天使達の分別をなくし、それ自身がだますのを見ました。彼[キリスト]の全ての勢力はそれに対抗するよう協力を求められました。

 染みがなく、罪の行動がなかったキリストの聖と清さは、罪とみだらな一つの世界の全ての罪への永続した一つの非難でした。彼の生涯の中の真理の光や知識は、サタンがこの世界で包み隠していた道徳的な無知の闇の真ん中で輝きました。キリストは、サタンの嘘と騙しの特徴、堕落した影響によって多くの人々の心が傷つけられたことを暴きました。サタンがそのような強烈な嫌悪によって扇動したということはこのことです。天の父を完全に代表した人がその世界の人々[の前]に立ちはだかって、神を偽って代表していたサタンを拒絶していたので、堕落した存在の彼の協力者達は、最高に強く戦争状態を主張することを決意しました。サタンは、自分が持っていた態度で神を非難しました。さて、彼が見たキリスト、思いやり深く恵み深い父、神が彼[]の中に真の品性を現したキリストは、どんな人の死をも望んではおらず、悔い改めて彼[]に来る人々に永遠の命を持てるようにしていました。

 強烈な世俗化は、サタンが最も成功した誘惑の一つでした。彼は、天の事柄のための余地がない世俗の魅力ある行事に、多くの人々の心と知性に保ち続けることを意図していました。彼は、この世界を愛する彼らの心を支配しています。地上の事柄は天の事柄を覆い隠し、人々の視界と理解から主を締め出しています。誤った神学理論と誤った神々はその真理の場所に大事に育てられています。人々は、この世界の金ピカに飾られた華麗さに魅了されています。人々は、この地上の事柄にとても惹きつけられています。大勢の人々が、世俗的に有利なものを手に入れるために何らかの罪に没頭していることでしょう。

 サタンがキリストに勝つために考え出したのは、この点においてでした。彼は、簡単に勝つためには、彼[キリスト]の人間性の中にあると考えました。「悪魔は、彼を高い山の頂上に連れて行って、自分に跪くならば、この世界の王国と栄光をみな、と彼に言っています。もしも、汝がひれ伏して私を拝するならば、これら全てを汝に与えよう」(マタイ48,9 KJV)。しかし、キリストは動かされませんでした。彼は、これらの誘惑の力を考えました。しかし、彼[キリスト]は私達の味方としてそれ[誘惑]に立ち向かい、そして、打ち勝ちました。また、彼は、人間が使うための適切な武器だけを利用しました。主の言葉は勧めとして力がある言葉です。すなわち、「それは書かれています」(マタイ410 KJV)です。

 非常に興味深いことに、神の律法に存在していた名誉の正当さが立証された時に、この闘いは、天の御使い達と罪に陥らなかった世界の人々によって見詰められていました。単に、この世界の人々のためにだけではなく、天に存在するすべての者達のために、この闘いは永遠に据え置かれるために存在していました。この闇の徒党は、人類の身代わり[として]の神性と人間性に勝つためのチャンスと見せかけるために見詰めていました。その背信者は「勝利」と叫んでいます。そして、この世界の人々とその住民達は永遠の彼の王国の者という状態になります。

 しかし、サタンは、その踵だけに届きました。彼は、頭には触れることはできませんでした。サタンは、自分が負かされたのを見ました。彼は、自分の真実の品性/特徴が、天の全ての者達の前ではっきりと明らかにされたのを見ました。天の存在者達と神が創造した世界の人々は、全体が神の側にいたでしょう。彼は、人々への影響についての自分の将来の見通しは、すべて切り捨てられるでしょう。キリストの人間性は、その闘いの据え置かれた疑問を永遠の世代に明らかにするでしょう。

 

3.キリストの人間の性質の無罪性

 キリストは人間が罪に陥った状態の性質を取っていることにおいて、少しもそれ[人間]自身の罪にあずかっていませんでした。彼は、人間が取り囲まれている弱さや欠点に束縛されていました。「‟彼は自分で私達の欠点を負い、そして私達の病を負った”と言った、預言者イザヤによって語られたことが全て実現されるでしょう」(マタイ817 KJV)。彼は私達の欠点についての考えに心を動かされ、私達がされるようにあらゆる点で誘惑されました。そしてまた、彼は罪を知りませんでした。彼は、「染みもなく欠点もない」(1ペテロ1:19)特別な子羊でした。サタンは特別に微小なものによってキリストを罪に誘惑したことでしょう。彼は救い主の頭を傷つけたでしょう。それがあった時、彼は主の踵に触れただけでした。キリストの頭が触れられた時に、人類の希望は消滅したでしょう。神性の怒りは、それがアダムにやって来たように、キリストにもやって来たことでしょう。キリストとその教会は希望が無くなったことでしょう。

 私達は、キリストの人間の性質に完全に罪のないことに関して、疑いを持つ必要がありません。私達の信仰は、贖いの犠牲への十分なまったき信仰、完全な信頼を置くイエスを見続ける、知的な信仰である必要があります。ここに、人間の魂は闇と無知に包まれることがないという本質的な要素があります。この聖なる身代わりは、最高に救うことが可能です。主は、神の全ての求めへの完全な従順、主の人間性の品性の中の完全な謙遜と、さ迷っている全人類に完全を表しました。神性の力は人間に置かれています。強い欲望によってこの世界にある滅びを避けて、人は神性の性質にあずかる者となるでしょう。これは、人間がキリストにある神の義が形成されうる信仰と悔い改めの理由です。


 

第36章 受肉――キリストの性質

 

 

 

 

 

1.「キリストの中に身分制がない」[11] [キリストの人間性と神性]

 天における最高の天使は、失われた魂のための身代金を払うための能力を持っていませんでした。ケルビムとセラピムは主に造られた時に創造者によって授けられた栄光を持つだけです。神への人間の和解は、罪に陥った世界の人々に神を表し、また、人間の味方として無限の神にもてなされるための彼を表して、そして、高貴な属性を備えていて、神と同等だった一人の仲介者によってだけ成し遂げられるでしょう。人間の身代わりと保証となる者は、神の大使として、彼が代表となるために存在していた人類家族と繋がりのある人間の性質をもっている必要があります。また、人間と神との間の一人の仲介者として神性の性質にあずかっている必要がある彼は、この世界の人々に神を現すために無限の神とつながりを持っている必要があります。

 これらの資格はキリストの中だけに見られました。人間性と彼の神性をまとって、彼は神の息子と人の息子と呼ばれるために地上にやって来ました。彼は、罪に陥った人類のために主の品性を現すための神の代表、そして、律法の要求に対して人間の味方としての主の義によって満たすような、人間のための保証人、神から遣わされた大使でした。

[仲裁者]

 この世界の贖い主は、自分に人々を惹き付ける力と、人々の恐れを鎮める力、深い悲しみを一掃する力、希望と勇気を授ける力、神の意思を信じるように彼らを可能にする力、神性の身代わりの功績を通して人々が受けるようになる力を備えていました。神の愛の対象として、私達が、天の法廷の父の前で、私達の味方として請い願う、一人の仲裁者、一人の擁護者、一人の仲介者を持っていることを、私達はいつまでも喜べるでしょう。

[天の法廷で彼の性質を保つため]

 私達は、神への信頼と信仰を働かせて、感動するように求めることのできるものをたくさん持っています。この世の様々な法廷で、国の王が自分に忠誠を尽くす人々に堅く誓約するような時、彼は、自分の約束の実行を埋め合わせるために、人質として自分の子どもを与えて、そして、天の父の忠実な約束を見上げるでしょう。そのわけは、主が天の会議の不変性を人々に保証した時に、主は、神の忠実という永遠の約束の一つ、天の法廷で彼の性質を[永遠に]保つために、人生の短い数年のためだけではなく、[永遠に]人間の性質を取るために地上に行くようにとひとり子を与えたからです。おお、神の愛と知恵の両方の深さと豊かなことよ。「天の父が私達に授けた愛の方法を見上げなさい。私達は神の子ども達と呼ばれるでしょう」(1ヨハネ31)

[身分制はなく一つ]

 キリストにある信仰を通して、私達は、神の相続人、神の家族の一員になります。そして、イエスキリストの相続人達として繫がります。キリストの中で私達は一つです。私達が、人の味方として律法の呪いを負う人間の性質の中にいる天の苦悩者を見て、カルバリーを視界に置く時、全ての民族の区別、宗派の違い、地位の特権、全てのカースト(身分制)のプライド(集団/群れ)は完全に消滅させられています。

 神の玉座から輝き出ている光/真理は、カルバリーの十字架の上に、人種と社会層の間の分離に永遠の終わりを告げています。全ての社会層の人々は、天の王の子ども達、一つの家族の構成員になります。世俗の力によってではなく、恥と苦悩の死と、謙虚、苦しみ、清貧の生涯をイエスに与えた神の愛によって、彼は多くの息子達と娘達に栄光をもたらすでしょう。

[霊的品性と道徳的品性]

 神の評価によって人を高い地位につけるのは、社会的立場ではなく、有限な知恵ではなく、資格でもなく、その人の資質でもありません。人々の才能や理性や知性は、神の永遠の王国を築くため、主の栄光のために働く神の贈り物です。天の[神の]目の価値に属するものは、霊的/精神的な品性と道徳的な品性です。それは、終わりのない永遠の時代に栄光の不死が造られて、死の墓を生き残るでしょう。人々によって高く栄誉を与えられた世俗の忠誠心は、入った埋葬所から決して出て来ないでしょう。かの敵の目的に奉仕してきた、富、名誉、人々の知恵は、やがて来るために存在しているその[新しい]世界に託する財産でも、名誉でも、遺産でもなく、それらの宝をもたらすことができないでしょう。キリストの恵みを正しく理解した人々、イエスの相続人として繫がり、神の相続人となった人々だけが、彼らの贖い主のかたちを身に付けて墓から立ち上がるでしょう。

 天の神の家族の構成員として数えられるための価値を見つけられた全ての人々は、神の息子娘として互いに認め合うでしょう。彼らはみな、人々の罪のために十字架につけられたイエスキリストと同様に、同じ源から自分達の赦しと力を受けているということに気づくでしょう。彼らは、主の名によって天の父を受け入れることを見つけるために、また、[贖いの犠牲の象徴である]主の血が品性[の象徴]の衣服を洗うために存在していたということを知っています。もしかしたら、彼らは汚れのない義の白い衣を着て、聖徒達の輝かしい集団の中にいることでしょう。

 

2.キリストの中で一つ

 神の子ども達がキリストの中で一つとして存在している時、イエスは、肌色、人種、立場、健康、生まれ、業績などの社会層の違い、主につく人からの人の分派、カースト(身分制)をどのように見るでしょうか。一致の秘密は、キリストの中の信者達の平等にみられます。全ての分派や不調和、違いの理由はキリストからの分離の中に見られています。キリストは、全ての人々が惹き付けられるような中心軸です。私達が中心に近づいて行くと、狭くなって、イエスのかたちと品性に成長して、私達は感覚や考えにおいて、共感において、愛において、一緒に歩むでしょう。そこでは、神と共に、人々の外見personsについての関心が存在しません(With God there is not respect of persons.)

 イエスは、世俗の華麗さについての無価値さを知っていました。そして、彼は、それらの展示品に注目していませんでした。彼の魂の威厳と、彼の品性の気高さ、彼の原則の高潔さによって、彼は、この世界の人々の中身のない流行をはるかに超えていました。預言者は「彼は人々から軽蔑され拒絶されました。悲しみの人で深い悲しみを知っていました」(イザヤ533)と言いました。彼は、地上の高潔な人々の間で、評価されました。人間関係の良好な家族は、主の支持を得たでしょう。主は、彼らの好意を受け入れるためにへりくだりましたが、人々の称賛を望みませんでした。また、全ての人間性の影響からも独立した立場を取りました。健康、立場、世俗の様々な地位、人間の偉大さの栄誉や、贅沢もなく装飾品も持たず身を低くして、世俗の豪華さを持たず、天の栄誉と名誉を捨て去った主にはほとんど何もなかったことが全てでした。

 身を低くし、気苦労によって苦しめられ、苦労の重荷を負わせられて、清貧で結ばれた人々は、イエスが、自分達の欠乏と悲しみに共感せず、また、自分達の状況の苦境を知らず、自分達の試練を知らなかった、という考えに彼らを導くような理由を、主の生涯と模範の中から見つけることができませんでした。また、身の低い謙虚な主の日常生活は、主の身の低い誕生とその状況と一致しています。無限な神のひとり息子、命と栄光の主は、身を低くして生きる人々に生活の謙虚さとして伝わりました。彼の臨在を自分から締め出そうと考える人はいないでしょう。彼は自分を全ての人々が近づきやすいようにしました。彼は、協力者・軽視する人・その他の人々によって、少しも気に入りの人を選びませんでした。保守主義が彼の仲間を遠ざける時に、特に、神の子だと告白する人々の間でそれが見られた時に、神の聖霊は悲しみ嘆いています。[訳者加筆。保守主義;現状維持を目的として、伝統・歴史・慣習・社会組織を固守する立場]

 キリストは、神性と一つになった時に完全な人間性が存在しうるという、一つの手本を世界の人々に与えるためにやって来ました。彼は、自分の憐れみと受難と愛を展示することによって、偉大さの新しい層を世界の人々に表しました。彼は、人々に神の愛の新たな認識を与えました。人間性の長として、彼は、人々に神性の統治の科学を教えました。それによって、彼は、正義と憐れみの一致についての義を明らかにしました。正義と憐れみの一致は、少しも罪との妥協を伴ったり、少しも正義の主張を怠ったりしませんでした。しかし、それが任せられた場所で、それぞれに与えられている神性の特質によって、憐れみは、それ自身の思いやりの品性の喪失やそれ自身の寛大さの破壊なしに、悔い改めない人間の罪深さに関して罰を行使することでしょう。そして、正義は、それ自身の高潔さを汚すことなしに、違反の罪を悔い改めることへの赦しを行使することでしょう

 

3.キリストは私達の大祭司

 キリストが、神から罪びとを分離させた罪の責任の架け橋として、人間性と神性の間に自分の十字架を創立し、神性の属性を帯びて、人間の性質を手に入れたので、全ての人々はそのようになるでしょう。

 「確かに、彼は、天使達の性質を自分に帯びたのではなく (共同訳では「天使達を助けた」)、アブラハムの子孫を自分に帯びました(共同訳では「アブラハムの子孫を助けた」)。そのために、あらゆる事柄において、兄弟達のようになることが、彼に必要なことでした。人々の罪のための和解/調停をするために、神へ適切な物を捧げることによって、彼は、憐れみ深い忠実な一人の大祭司となるでしょう。彼自身が誘惑と試練を受けて苦しんだので、彼は誘惑と試練を受けている人々を救い出すことができます」(ヘブライ216-18 KJV)

 「私達には、自分達の弱さを感じずもてなすことができない一人の大祭司はおらず、私達が[受けて]いるように、あらゆる点で誘惑と試練を受け、また、罪のなかった[一人の大祭司が]います」(ヘブライ415 KJV)

 「人々の間から選ばれた全ての大祭司は、神に適切な物を捧げるように任命されています。その一人の大祭司は罪のための犠牲と贈り物の両方を捧げるでしょう。彼は、特別な道を外れている人々と、無学な者に思いやりを持つことができます。それは、彼自身もまた、弱さに取り囲まれているからです。これらの理由によって、彼は人々のためと自分自身のために、罪のための捧げ物をする義務がありました。また、この栄誉を自分で受ける人はいませんが、アロンがそうであったように、彼は神に任命されて[います]。また、キリストは自分で一人の大祭司に任命されるという栄光を受けるのではなく、[人間性の]彼にこう言った[神性の]彼が[与えました]。‟汝は私の息子、私は、今日、汝の父親になりました。また、ほかの個所でこう言っています。汝は、メルキセデクに永遠に連なる一人の祭司です”。彼は[人間性の]身体に属していた日々に、死から救うことができた[神性の]彼に、強い叫びと涙をもって願いと祈りを捧げた時、それは、彼が神への畏敬を示したことによって聞かれました。彼は、神の一人息子でしたが、彼が苦しんだ事柄によって従順を学びました。そして、存在は完全になり、彼は、彼に従う全ての人々を永遠に救う権威者となりました」(ヘブライ51-9 KJV)。

 イエスは、全ての事柄において人々の手本として、主に従う者達のケースに、自分でキリストの視界から失われるようにする人がいないように、人間の努力が結びいた道徳的な力をもたらすためにやって来ました「彼らのために、私は自分を聖別しています。彼らもまた真理によって聖別されるでしょう」(ヨハネ1719)。イエスは、主の子らの前に特別な真理を表しています。彼らはそれを見上げるでしょう。また、それを見上げることによって、罪から生命の義と心の神聖化へと、また、主の恵みによって従順の違反から変えられた存在として、変えられるようになるでしょう。

 

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4.天における特別な層の人々

 贖われた人々の間のある人は、生涯の最後の時間にキリストを手に入れるでしょう。そして、天における指導がそれらの人々のために与えられるでしょう。彼らは、死んだ時に、救いの計画を完全には理解していませんでした。キリストは、贖われた人々を命の川の岸辺に導くでしょう。そして、彼らにこの地上にいた間に理解できなかったことを開示するでしょう。   『原稿』150


 

第37章 受肉――キリストの性質

 

 

 

 

 

1.「私があなた方を遣わしたように」[12]

 「私の天の父が私を遣わしたように、私もあなた方を遣わします」(ヨハネ2021)。私達は、真理がイエスの中にあったように、また、キリストと彼の弟子達がしたように、明白な証を伝えるために存在しています。聖霊の効果的な働きに信頼して、私達は、十字架につけられ復活し昇天した救い主の愛と善意と思いやりを証しするために存在しています。そして、神へと多くの人々の知性から立ち上る賛美、闇と無知が多くの人々の知性から一掃されることを通して、働き人達はこのようになるでしょう。ここに、神の全ての息子娘達によってなされるための偉大な働きがあります。イエスはこう言いました。「汝らが私を愛するならば、私の戒めを守っています。また、私は天の父に祈りましょう。彼は汝らにもう一人の慰め主を与えます。彼は、あなた方と一緒にいるでしょう」(ヨハネ1415,16 KJV)。彼の弟子達のための主の祈りの中で、彼は、自分の現在の臨在によって、これらの人々のために祈っただけではなく、「彼らの言葉を通して私を信じる人々のために」(ヨハネ17:20 KJV)祈ったと言いました。彼はもう一度言いました。「汝らは、私があなた方にどのように言ったかを聞きました。私は去っていきます。そして、再びあなた方の所へ戻ってきます。私の父は私よりも偉大なので、私は天の父の所へ行くと、私は言ったので、汝らが私を愛しているならば、汝らは喜ぶでしょう」(ヨハネ1428 KJV)。このように、私達は、キリストが自分を信じる人々のために祈ったことと、彼の協力者として彼らに成功を保証する豊かな約束をしたことを見ています。彼は言いました。「私が天の父の所に行くので、[主が行なった]これらの働き以上の偉大な働きを、彼は行なうでしょう」(ヨハネ1412 KJV)。

 キリストの言葉を行なう人々であり、信じている人々に属していることは、大いなる特権です。神聖な人生を生きることが私達に不可能だということは、私達の罪悪の和解としてのキリスト、また、罪を負う者としてのキリストについての知識の一つとして存在しています。この知識は、人間家族のための保護手段です。サタンは、この知識がないと、やがて、私達の力が奪われて混乱の中に投げ込まれるということを知っています。神への私達の信仰は去ってしまうでしょう。そして、私達は、かの敵のあらゆる手腕の餌食とされてしまうでしょう。彼は、人間を滅ぼすための巧妙な計画を作りました。私達の視界からイエスを遮るために、人間と神の間に死のとばりのような彼の不快な陰を投げかけることが彼の目的です。なので、彼は、私達が思いやりと愛の奉仕の働きを忘れるような原因となっているでしょう。また、私達の言葉から神の大いなる愛と力のさらなる知識を断ち切るでしょう。さらに、天からの光や知識の全ての注ぎを遮るでしょう。

 キリストだけが、神性Deity(神・創造者・絶対者・神格)を表すことが可能でした。世界の初めから天の父を表していた彼、また、見える神のかたちを表していた彼だけがこの働きを成し遂げるための十分な能力がありました。この世界の人々に神を啓示するために、描写することのできる言葉がありません。そのために、清い生活と、神の意思への降伏と完全に信頼した生き方と、また、天の最高の御使いのような謙遜な人生は、どうしても神自身が人間性を明示することにひるんだことでしょう。このことを行なうために、私達の主は彼の神性と人間性をまといました。彼は、人間性によって理解されるような人々と繫がるだけのために、ほとんど人間の才能によって働きました。人間性だけが人間性に伝わるでしょう。彼は、神が彼に用意した人間の体によって神の品性を生き抜きました。彼は、神の命を人間の肉[]の中で生き抜くことによってこの世界の人々を祝福しました。このように、彼は神性に人間性を結合させるための力を持っていたことを示しています。

2.キリストのための私達の任務

 キリストはこう言いました。「天の父のほかにその息子を知っている人はいません。息子が、救って、現そうとしている人のほかに、誰も天の父を知りません」(マタイ11:27 KJV)。彼[]は、誰にでも、そのひとり子を現すでしょう。神のひとり子の高貴な働きは、なんと、かすかに理解されただけでした。彼は、世界の人々の救済を自分の手に握っていました。12使徒に与えられた任務は、今の時代に主に従っている人々にも与えられています。「罪の悔い改めと赦しはすべての国の民の間でその名[イエス]によって伝えられるように、エルサレムで始まりました」(ルカ24:47 KJV)。私達の救い主は「天においても地においても……全ての権威」を持っています」(マタイ28:18 KJV)。そして、この権威は、私達にも約束されています。「汝らは、私の権威を受けるでしょう。聖霊があなた方にやって来た後で、汝らは、エルサレムとユダヤの全ての地、サマリヤ、地の最も遠い所で、私のために証をするでしょう」(使徒言行録:18)

 一つの教会は、貧しい人々や教育を受けていない人々で成り立っているでしょう。その人々が信じていて祈っているメンバーならば、その感化や影響は、時と共に永遠に感じられるでしょう。彼らは、神の言葉の約束を信頼して、簡潔な信仰によって進むならば、大いに良いことを達成するでしょう。彼らが自分達の光や知識の輝きをそのままにしておくならば、キリストは、彼らによって栄光を受け、神の王国についての関心は前進しています。彼らが、神への個々人の説明責任を感じているならば、働きをするための機会を探そうとして、世界の人々のための光として輝くでしょう。彼らは、魂の救いのための神の計画の良い結果を出す熱心で誠実な手本となるでしょう。貧しい人々や教育を受けられなかった人々がキリストの学校の生徒になることを選んで、それができるならば、彼は、その人々に真の知恵を教えるでしょう。柔和な人生、子どものような信頼、真の清め、真の宗教は、ほかの人々にその感化を効果的に及ぼすでしょう。高等教育を受けた人々は、神の[言葉]ではなく人々の書籍に頼っているようです。しばしば、彼らは、信仰による神の約束を手に入れることをせず、隠れた祈りによる神との熱心な格闘もせず、神の道の知識を求めないでしょう。天の慰めの香油を受けた人々は、会話によってほかの人々と繫がる機会を求めて、神が送ったイエスキリストと神についての知識を人々に明らかにするために、キリストのような精神で前進するでしょう。彼[キリスト]を知ることは永遠の命です。彼らは生きている書簡になり、人類のために世界の光[キリスト]を明らかにするでしょう。

 キリストは、「自分の働きを全ての人々に」(マルコ13:34 KJV)与えました。キリストは、全ての人々に正確に自分の働きをするように期待しています。地位の高い人も低い人も、貧しい人も豊かな人も、人はみな特別な大教師のために行なうための仕事があります。全ての人は活動に招かれています。しかし、あなたが、主のその声に従わないならば、また、あなたが、自分が苦しみにいる時にキリストに堅く信頼して働くように、託されたことをしないならば、さらに、あなたが、彼の手本について行かないならば、「不忠実な怠惰な奉仕者」が、あなたの名に反して数えられるでしょう。あなたに与えられた光や知識がほかの人々に伝えられない限り、また、あなたが自分の光や知識を輝かさない限り、それは、闇と無知に出て行くでしょう。あなたの魂は酷い危難に連れて行かれるでしょう。神は、真理を知っている全ての人々に語っています。「あなたの光と知識を輝かしなさい。人々はあなた方の良い行ないを見るでしょう。そして、天にいるあなた方の父の栄誉を称えるでしょう」(マタイ516 KJV)。ほかの人々にその真理の知識を伝えましょう。それは、世界の人々へ光を照らして教化する神の計画です。あなたが、自分の置かれた所に立っていないならば、また、あなたの光を輝かせないならば、あなたは、闇の中にすっぽりと包まれるようになるでしょう。神は、天の家族の全ての息子娘達に十分に備え付けられるように招いています。何かの期間に、行動のために用意された優先順位を歩むことができます。イエスの愛によってやさしく共感的になったその心は、主イエスの宝石箱のためにデザインされた貴い真珠を見つけるでしょう。


 

第38章 キリストが受けた誘惑

 

 

 

 

 

1.キリストが受けた誘惑[13]

 キリストが、サタンの誘惑に耐え抜くためにいた荒野の人里離れた場所は、アダムがエデンで誘惑された時にいたような好感の持てるような所ではありませんでした。神のひとり子は、人類がエデンから4千年間さ迷った後で、人間の性質を取って、道徳的に正しく清い[神性の]元の状態から出て身を低くしました。罪は、その悲惨なしるしを人類の各世代に現し続けていました。そして、人間の家族の至る所に、身体と知性と道徳の退化が広まりました。

 アダムは、エデンにいた誘惑者によって激しく攻められた時、罪に染まってはいませんでした。彼は、神の前に自分の完全な力(体力・知力・精神力)で立っていました。彼のあらゆる身体組織と存在している能力は均一に発達し、調和がバランスよく取れていました。キリストは、誘惑された荒れ野において、耐え抜くという、アダムが失敗したそのテストを負うために、彼の立場に立ちました。ここで、彼は罪びと達の味方として打ち勝ちました。4千年後、アダムは自分の背後に彼の家の光が戻ってきました。神の臨在から分離した人間家族、アダムがエデンで所有していた元の清さや知恵や知識から離れ去って、[それを]継承した世代は、すっかり逸れていました。キリストは、人間を助けるために地上に来た時に、存在していた人類の様々な欠点と罪を負いました。その人類の味方として、罪に陥った人間の弱さを自分で負って、彼は、人間が激しく攻め立てられる中で、あらゆる点でサタンの誘惑に抗して立つために存在していました。

 アダムは、自分の心が望むことができるあらゆる事柄に囲まれていました。あらゆる必要な物が提供されていました。そこには罪がありませんでした。エデンの栄光には衰退のしるしもありませんでした。神の使い達は、その清い二人に好きなように率直に会話しました。巧みな歌手たちは、二人の創造者を讃える歌で楽しませて、自律した二人の前でキャロルを歌いました。罪がなく幸福で、平和な獣たちは、アダムとエバの世界では従順で、二人の周りで遊びました。アダムは、創造者の働きに関して高潔な成人男子として完全でした。彼は、神のかたちとして存在していましたが、神の天使達よりも少し低い者でした。

 

2.第二のアダムとしてのキリスト

 対照的なのは第二のアダムです。彼は、独りでサタンと争うために陰鬱な荒れ野に入りました。罪に陥った人類は、キリストの地上降臨までの期間に、道徳価値の基準に低く沈み、身体的な力とサイズが小さくなりました。罪に陥った人々を高めるために、キリストは自分がいた所まで人間を引き上げる必要があります。彼は人間の性質を取り、人類の退化と欠点を負いました。彼は、罪を知りませんでしたが、私達のために罪となりました。彼は、人間の苦悩の最も深い所まで自分を低くしました。彼は、人間を引き上げるための資格を与えられるでしょう。そして、罪が人に押し込んだことによる退化から人を連れて行くでしょう。

 「苦難を通して彼らの完全な救いの長となるために、多くの息子達に栄光をもたらして、彼が全ての事柄に存在していることよって、彼が全ての事柄に存在しているので、それは、彼のためになりました」(ヘブライ210 KJV[ヘブライ5:92:17,18引用]

 「私達には、自分達の弱さを感じずもてなすことができない大祭司はおらず、私達が[受けて]いるように、あらゆる点で誘惑と試練を受け、また、罪のなかった[一人の大祭司が]います」(ヘブライ415 KJV)

 サタンは、瀕して以来、初めて、神の統治についての戦いをしました。エデンでアダムとエバを誘惑して、この世界の人々に罪をもたらした彼の成功は、敵対する相手に対して、大胆にもこの弓を弾きました。そして、彼は、キリストが人間の性質を取って現れる時に、天の御使い達に自慢げに言いました。彼は、自分よりも弱っているだろう。私は自分の力によって彼に勝てるだろう。彼は、エデンでアダムとエバの食欲にアピールした時に、二人がその御機嫌取りに抵抗しなかったということに有頂天になりました。[ノアの洪水前の]旧世界の住民達に、不純な感情と飽くことのない食欲をほしいままにさせて、彼は同じ方法によって勝ちました。食欲の楽しみを通して、彼はイスラエル人達を倒しました。彼[サタン]は「エジプトを出たほとんど全部の人々が荒野で死んだので、モーセとヨシュアと共にいた神の子は自分で、彼[自分:サタン]の力を阻止することができなかったし、カナンに彼[サタン]の選んだ気に入りの人々を導いた」と自慢して言いました。さらに、柔和な人、モーセは、神が当然の権利として主張した神の栄光を取るように誘惑されました。彼は、特別に神の好意を受けた人、ダビデとソロモンを、神の不興を招く食欲と感情をほしいままにさせることを通して誘いました。彼は、イエスキリストによる人間の救いという神の目的を挫折させることになると叫びました。

 荒野での誘惑において、キリストは40日の間、食事なしでした。モーセも、特別な場合に、このように長い間、食事なしでした。しかし、彼は空腹の苦痛を感じませんでした。彼は、神の子がそうだったように、卑劣な強敵によって誘惑されず悩まされませんでした。彼は、人間らしさを高められました。彼は、自分が包まれていた神の栄光によって特別に支えられていました。

 

3.人間にある恐ろしい罪の結果

 サタンは神の天使達をだますことと、貴いアダムを罪に陥れることにうまく成功しました。彼は、キリストを打ちのめして勝っただろうと彼の恥について考えました。彼は、自分がした誘惑の結果、4千年以上にわたって神の律法の違反が続いて罪の増加したことを有頂天になって喜んで眺めました。彼は、私達の最初の両親を落ちぶれさせるために働きました。そして、この世界に罪をもたらしました。また、全ての世代の群衆、国々の民、諸々の層の人を落ちぶれさせるために導きました。彼は、火と水と、地震と剣と、飢饉と悪疫で人々が破滅するように、人々の罪が神の怒りを引き起こすまで、自分の力で、都市と国家を支配しました。彼の巧妙で不屈の尽力で、彼は、[人間の]食欲を支配し、とても恐ろしい程度に感情を興奮させて強めてきました。彼は、人間の中の神のかたちをほとんど取り除いて、外観をほとんど損ないました。彼の知的・道徳的な威厳はたいそう破損された程度にありました。彼は、エデンで高貴にされたアダムの高貴な完全な像(かたち)と、品性のかすかな似姿を生み出しただけでした。

 キリストの最初の来臨の時に、サタンは、罪にくすんだ金(純粋)、自分の独自の高貴な清さが落ちぶれたものを人間にもたらしました。彼は、エデンの支配者になるように創造された人間を、その地の罪の呪いの下でうめく奴隷の一人に変容させていました。神がアダムに与えた栄誉の後光は、衣服のように彼を覆っていましたが、彼が戒めに違反した後で、離れ去りました。神の栄誉のその光は、不従順と罪を覆うことができないでしょう。健全な場所と祝福の満ちる所で、貧困や病やあらゆるタイプの苦しみが、アダムの子らのその一部として存在していました。

 サタンは、魅惑的な能力を通して、人々が神の存在と神性の啓示を信じないように、疑いと最後通告のための虚栄心の哲学を通して導きました。彼は道徳的な惨めさが世界の人々に広がっているのを見ているでしょう。そして、人々を神の律法の違反へと導き、多くの人々の人生の小道を暗くすることに成功した彼の莫大な勝利によって、人類は罪への神の報復の怒りに接しました。彼は多くの人々の滅びを手に入れるために娯楽の魅力の罪をまとっていました。

 しかし、人間をだます方法として最も彼が成功した図式は、人類の恩人として、また、人間の友人として、彼自身の真の品性と実際的な目的を秘密にしておくことでした。彼は、面白い作り話によって人々に気に入られようと褒めています。そこには、反対する敵はいません。反対して守る必要のある死の敵もいません。人格のある悪魔の存在はすべて架空です。一方、彼は、このように、自分の存在を隠しています。彼は、自分の支配の下に何千という多くの者達を集めています。彼は、キリストをだまそうとしたように、人々をだましています。彼 [キリスト]は人間性のために良い働きをするように天から遣わされた一人の天使です。多くの人々は罪のために目を塞がれているので、サタンの策略を見分けることができません。人々は、天からの使いだろうと彼[キリスト]を尊敬しています。一方、彼[サタン]は人々の永遠の滅びに[至るように]働いています。


 

第39章 キリストが受けた誘惑

 

 

 

 

 

1.キリストが受けた最初の誘惑[14] [石をパンに変えて]

 キリストは、サタンを滅ぼす者としてこの世界に入りました。そして、その贖い主は、とりことなった人々を自分の力によって[取り返して自分に]結び付けました。彼は、サタンの誘惑に打ち勝って、自分につく人々のための勝利の生涯によって一つの手本を残しました。キリストがその荒野の誘惑に入って間もなく、彼の顔の容貌は変わりました。その栄光と輝きは、彼の前に天が開いていた時に彼の顔の表情に明るく照らされていた神の玉座からの光を反射していました。そして、天の父の声は、彼に喜ばれている息子としてキリストに認識されました。世界中の人々の罪の重みは、彼の魂にのしかかっていました。彼の顔の表情は、言葉で言えない悲しみ、罪に陥った人が気づかなかった苦痛の深さを表していました。彼は、世界の人々に殺到する大変な苦悩の流れを感じました。彼は、世界の人々を支配した清くない感情と、ほしいままにした食欲の力とを理解しました。それは表現できない苦しみを人間にもたらしました。食欲をほしいままにすることは、増加してきて、自分自身の力では克服できなくて、人類の道徳的な力がたいそう弱くなるまで、アダムの違反以来の全ての世代にその効果が強まってきました。キリストは、人類の味方として、この点で最も手強いテストに立ち向かうことによって、食欲に勝利するために存在していました。彼は、独りで誘惑の小道を踏み進むために存在していました。そこには、彼のための助けは無く、慰めも励ましもないのが必然でした。彼は、闇の勢力と戦うために存在していました。

 人間として、彼の人間性の力によっては、サタンの誘惑の力に抵抗できないでしょう。イエスは、その働きに着手するために、自発的に行動しました。そして、人間のための重責を担い、味方になって食欲の力に勝ちました。彼は、人間の味方として、自己否定、根気強さ、空腹の苦痛時にも噛みつくような最高の原則への確信を示す必要がありました。彼は、死や空腹以上に強い食欲に勝って支配する力を示す必要があります。

 

2.そのテストの意味

 キリストが食欲の点で誘惑のテストを受けた時、アダムの目に映っていたあらゆるものに、神の愛と光が見えていたような、美しいエデンに立っていたのではありませんでした。彼は野の獣に囲まれた不毛の人里離れた荒れ野にいました。彼の周りを取り囲んでいたあらゆるものは嫌悪感を起こさせるものでした。またそれは人間の性質が縮み込むような所でした。それらに囲まれて、彼は4040夜断食しました。「それらの日々の間、彼は何も食べませんでした」(ルカ42 KJV)。彼は、長い断食の間を通して痩せ衰え、空腹を強烈に感じました。彼の顔貌は、確かに人々の子達よりもはるかに美しさを失っていました。

 キリストは、このように、アダムが耐えることにしくじった厳しいテストを負うために、手強い敵対者に勝つための闘いの生活に入りました。闘争を勝ち抜いて、彼はサタンの力を打ち負かすでしょう。そして、落ち込んだ罪の汚名から人類を贖うでしょう。

 全ての人々は、アダムが食欲の力を明け渡した時に失われました。人間性と神性の両方を連合していた贖う者は、アダムの立場に立って、6週間近くひどい断食に耐えました。この断食の長さの根拠は、人間家族の食欲の品位を落とす力と、罪深さの広がりの程度でした。

 キリストの人間性は、人間性の惨めさの深さの極みまで届き、そして、罪に陥った人間の必要と弱さとそれ自身に同一化しました。一方で、彼の神性の性質は、永遠性を捉えていました。人間の違反の重責を負う彼の働きは、神の律法を破り続けるための資格を人間に与えるために存在していませんでした。人間を律法の罪過者にしていた罪過に、キリストは自身を犠牲とすることによって、自分を代価として払いました。キリストの試練と捧げ物は、神の律法を破ることによる人間の大きな罪の感覚を人間に思い起こさせ、神を受け入れるための従順を通して、その律法への従順と悔い改めをもたらすために存在していました。彼は自分の義を人間に与えて、このように、神の道徳的な価値を育てるでしょう。そういうわけで、神聖な律法を守る人間の努力は受け入れられるでしょう。キリストの努力は、彼の人間の性質を通して、人間と神が和解するために、また、キリストの神性の性質を通して、神が人間と和解するために存在しています。

 キリストの長い断食が荒野で開始されて間もなく、サタンが誘惑しに近づきました。彼は、キリストの苦しい状態について彼が追体験するために、また、キリストに同情して憐れみの伝言を送り、神の玉座からの天使達の一人であると主張して、光で包み隠して、キリストの所にやって来ました。彼はキリストに、彼が予期していたその苦悩と自己否定を通って達成することを神は求めていなかったということ、彼がそのメッセージを彼に伝えるために天から遣わされて来たということ、神の意図は彼が耐える意思を持っていることを立証することだけだったということ、を信じさせようとしました。

 サタンは、キリストに、血で汚れた小道の中に彼の足を置くためだけで、その中を進むために存在していなかった、と語りました。アブラハムのように、主はその完全な従順を示すためにテストされていました。また、彼は、ナイフがイサクを殺すために振り上げられた時にアブラハムの手を止めたあの天使だった、また、彼は、今、彼の命を救うため来た、と言いました。それは、飢餓状態から死と空腹の苦痛を耐えている主にとって必要なことではありませんでした。彼[キリスト]は、救済の計画の働きの一部を負って神を助けるでしょう。

 神の子は、それら全ての巧妙な誘惑を退けました。そして、その精神において、また、その非常に些細なことにおいて、すべての特定のものを果たすという彼の目的に忠実でした。その計画は罪に陥った人類の贖いのために考案されていました。しかし、サタンは、キリストよりも優位に立つために、多種多様な罠を彼にかけるために用意していました。もしも、彼が、一つの誘惑に失敗したら、彼はほかのものを試すでしょう。彼は、キリストが一人の人間として自分を低くしていたので、自分はうまくいくだろうと考えていました。自分の特徴を実物以上に見せていた彼は、天の御使い達の一人として見分けがつけられなかったでしょう。彼は、不快な周囲の状況と彼の衰弱の現れのゆえに、キリストの神性を疑う振りをしてとぼけていました。

 キリストは、天の御使いと同等の容貌をしているのではなく、人間の性質を取っていたということを知っていました。サタンは、もしも、彼が確かに神の子だったならば、自分の高貴な品性の証拠を与えるだろう、と言いました。彼は、食欲の誘惑によってキリストに近づきました。彼はこの点でアダムに勝っていました。そして、彼は、その子孫たちの叫びがたいそう大きくなって、主が地上からノアの大洪水によって人々を滅ぼしてしまったほどに、食欲の放蕩が罪悪によって神を非難するよう彼らを導いていたことを通して、自分の伝来の子孫達を支配していました。

 サタンの直接的な誘惑の下で、イスラエルの子らは、食欲を理性で支配することに苦しんでいました。そして、彼らは、放蕩を通して、人々に対する神の怒りを気づかされるほどの悲惨な罪を犯すよう導かれていました。そして、彼らは手に負えない状況を感じていました。彼は、同じ誘惑によってキリストにうまく勝てるかもしれない、と考えました。彼は、高貴だった天使達の一人がこの世界の人々の中に追放された、そして、キリストの容貌は天の王として存在していたのではなく罪に陥った天使だった、そして、これは彼の衰弱と苦悩の表れを示唆していた、とキリストに語りました。

 

3.キリストは自分のために奇跡を使わなかった

 それから、彼は、力による強さと光をまとって、自分に惹きつけるような容貌でキリストの注意を喚起しました。彼は、天の玉座からの直接のメッセンジャーだと主張し、また、神のひとり子として存在している根拠をキリストに命ずる権利を持っていたと主張しました。サタンは、もしも、彼が、主のバプテスマの時の神の息子に天から来たその言葉[を聞いたとしても]、明らかな不信心者でしょう。彼は、キリストに勝とう、そして、可能ならば、自分自身の王国を作り、生活の保証をしよう、と決心しました。キリストへの彼の最初の誘惑は、食欲に関するものでした。彼は、この点で、世界中のほとんど全体の人々を支配していました。そして、彼の誘惑は、キリストの周りと環境に関連していて、それは、食欲のほとんどを征服する誘惑となっていました。

 キリストは、自分自身の責任において奇跡の働きができたことでしょう。しかし、ここでは、人類の救済の計画と調和して、これを行なわなかったでしょう。キリストの生涯の中の多くの奇跡は、苦しんでいる人間の益のための、主の奇跡を働く力を示しています。思いやりのある奇跡によって、彼は、すぐに5千人の人々に5つのパンと2匹の小さな魚を与えました。そうして、彼は奇跡を働く力を持っていて、自分自身の空腹も充足しました。サタンは、キリストのバプテスマの時に天から語られた言葉を疑うように彼を導くことができたと得意がっていました。そして、もしも彼が、神の息子であることを疑うよう、また、彼の父によって語られた言葉の真実性を疑うように誘惑するならば、彼は大きな勝利を得るでしょう。

 彼は、苦難の現実にいて、食物もなく、仲間もいず、荒れ野に独りでいるキリストを見つけました。彼の周りは、酷いもの、悲しさと嫌悪感が漂っていました。サタンは、神が自分の息子キリストをこのような苦悩の現実と欠乏の状態に放置しておかないだろう、と示唆しました。彼は、人間の足が踏み入ったことがない砂漠のような荒れ地で、極端な苦悩の状態の中に連れて行かれるように主を許した彼の父へのキリストへの確信をかき乱そうと思いました。サタンは、極端な空腹と落胆した体力と気力のもとでは、自分自身の味方/益として、彼は自分の奇跡の力を働かすだろう、そして、彼の天の父の手を自分から放してしまうだろう、また、キリストの知性の中に拠点を見つけて、彼の父の愛に疑いを植え付けようと思いました。これは、確かに、キリストへの一つの誘惑でした。しかし、彼は、それを一時的にではなく気に入りました。主は、言葉にできない苦痛のために膝をついて倒れているように見えていましたが、彼の天の父の愛を一時も疑いませんでした。サタンの誘惑は、巧妙に考案されたものでしたが、神の愛する息子の高潔さは揺り動かされませんでした。主にとどまっている彼の父への確信は揺り動かされないでしょう。

 

4.キリストは誘惑と関わらなかった

 イエスは、自分が行動するためにいたその時に、どんな方法によってでも、自分の敵に自分が神の息子だという弁明をしませんでした。サタンは、侮辱して嘲る方法によって、自らの能力と栄誉と対比して、キリストの外観の貧弱さの表れを指摘しました。彼は、天の法廷で王と認知されていた、天使達の最も高貴な指揮者、キリストを天使達の一人の哀れな代表だったと嘲りました。彼の現在の容貌は、人と神に見捨てられたということを表していました。彼は、キリストが確かに神の息子だったならば、天の王者、神と等しい能力を持っていた彼が、彼の足元の石をパンに変えて、空腹から生きる奇跡を働くことによって、神は彼に根拠を与えるだろう、と言いました。サタンは、もしも、キリストがこのことをするならば、彼は、すぐに、彼の優位性の主張を明け渡すだろう、そして、キリストと彼自身の間の論争は、そこで永遠に終わるだろう、と約束しました。

 キリストは、サタンのなじりにののしるような関心を現しませんでした。彼は、自分の能力の証明を与えるような刺激を彼に与えませんでした。彼は、仕返しなしに、侮辱なしにおとなしく[苦悩を]負いました。彼のバプテスマの時に天から語られた言葉は、彼に、人間の身代わりと保証人として、人類の救済の計画を実行していた歩みを是認する根拠を与える非常に貴いものでした。諸天が開けて降りて来た天のハトは、有限な人間を無限の存在に[受け入れた]こと、天と地を結ぶキリストの尽力を神が受け入れたこと、サタンの支配から人間を救出するために、彼の父が地上の神の息子と天の力で繫がっていたことの保証でした。

 彼の父から受けたこれらのしるしは、神の息子にとって、反逆者の長との恐ろしい闘いと激しい苦悩をたどった時に、言葉で表現できない貴重なものでした。荒野での神のテストを耐え抜いている間に、また、彼の奉仕の働き全体を通して、彼[キリスト]は、世界の人々の救い主としての存在に関して、また、サタン自身の能力に打ち勝つためにすることが何もありませんでした。サタンは、自分が天から締め出されたこと、神に対する反逆に徹したこと、下位の者として異議申し立てをしたこと、そして、自分に当然払われる栄誉を自分に不本意ながら、神がイエスに帰したことなど、自分が高められる持ち場に関して十分な根拠を持っていました(Satan had sufficient evidence of His exalted station His unwillingness to ascribe to Jesus the honor due to Him, and manifest submission as a subordinate, rioened into rebellion against God, and shut him out of heaven.)

 苦悩から自分を取り戻すため、また、自分自身の益のために自分の神性の力を働かせることは、キリストの任務のどんな一部でもありませんでした。このように、彼は自分がそれを担う時に自発的に引き受けました。彼は、人間の性質を取るためにへりくだりました。そして、彼は、人間家族の苦悩と病と不便さを耐え忍ぶために存在していました。彼は、自分の責任によって奇跡を披露するために存在していたのではありません。彼は、ほかの人々を救うためにやって来ました。彼の任務の目的は、苦しめられ重荷を負わせられた人々に、祝福や希望、そして命をもたらすために存在していました。彼は、人間性の苦悩の悲惨さと重荷を担うために存在していました。

 キリストは空腹の激しい苦痛を味わっていましたが、誘惑に抵抗していました。彼は、[出エジプト後に]荒野でイスラエルの人々の食物が[マナに]限定されて、食肉を求めて叫んでいた時、言うことを聞かない彼らに繰り返して言うために、彼がモーセに与えたと同じ「人はパンだけで生きているのではないでしょう。神の口から出たものに由来する全ての言葉によって生きているでしょう」(マタイ44 KJV)の御言葉によってサタンを撃退しました。この宣言の言葉によって、また、キリストの手本によって、彼は、人間に、現世における空腹は自分にとって降りかかりうる大きな苦難ではなかったということを示しました。サタンは、「私達の最初の両親に、神が彼らに禁じた命の木の実[15]を食することは、二人にとても良いことをもたらし、また、神が二人に宣言したその真理に正反対で、二人を死から守るでしょう」と、当てのない希望を持たせました。「しかし、善と悪の知識の木に関して、汝はそれに属する物を食べないでしょう。その日、汝は食べたので、汝は確かに死ぬでしょう」(創世記217 KJV)。もしも、アダムが従順であったならば、彼は、欲望、悲惨、死をまったく知らなかったでしょう。

 ノアの大洪水前に生きていた人々が、神の言葉に従順であったならば、その人々は[命を]保たれたでしょう。そして、[神は]その大洪水の水によって滅ぼさなかったでしょう。もしも、古代のイスラエル人達が、神の言葉に従順であったならば、彼らに特別な祝福を授けたでしょう。しかし、彼らは、感情と食欲をわがままにさせた結果を考えました。その人々は、神の言葉に従順にしなかったでしょう。誤解してわがままにした食欲はその人々を多くの嘆かわしい罪の中に導きました。もしも、彼らが、最初の状態で神の求めを守っていたならば、また、彼らの身体の求めを第二にして、彼らのために提供された食物を選んで、神に従属していたならば、彼らのうちの一人も、荒れ野に投げ出されなかったでしょう。その人々は、弱い人が一人もおらず、彼らの全ての部族、健全な民として、聖なるカナンの地に置かれたでしょう。

 世界の人々の救い主は、人類のための罪となりました。人間の身代わりになっても、キリストは神の息子としての彼の力を現しませんでした。彼は、人間の息子達の間に自分自身を位置づけました。彼は、天の父への完全な信頼と信仰に関する手本を残して、最も厳しい試みの状況の下で、人間の味方/益として、一人の人間として、誘惑と試練を負うために存在していました。キリストは、「天の父は、そうすることが自分の喜びとなる時に、自分に食物を与える」ことを知っていました。この厳しい試練の中で、空腹が限度以上に強いられた時、彼はすぐに自分の神性の力を行使せず、与えられていた試練の一部を減らそうともしなかったでしょう。

 罪びとは、真面目な役を演じる場所などに連れて行かれた時、その人の敵たちに打ち勝って自分を守るためや、また、辛い苦悩や苦痛から自分を救うために、自分自身の益となるような驚異的な実例を働かせる力をもっていないでしょう(Fallen man, when brought into straightened places, could not have the power to work miracles on his own behalf, to save himself from pain or anguish, or to give himself victory over his enemies.)。人々の神の愛と力への確信と信仰をテストすること、試みの立場にしばしば人類を連れて行って品性を発達させること、人類に一つの機会を与えて立証しテストすることは、神の目的でした。キリストの生涯は完全な原型でした。彼は、ずっと、彼の模範と指針(戒め)によって、神が自分の頼り甲斐だったこと、神の中に自分の信仰と確固とした信頼があるべきことを人間に教えていました。

 キリストは、サタンが初めから嘘つきだったこと、だます者の尊大さの提案に耳を傾けることは強力な自己支配を求められていたこと、自分の大胆な推測をあくまでも咎めないこと、を知っていました。サタンは、自分との争闘に繫がるように、神の息子が怒ることを予期していました。彼は、神の子の精神の極端な苦悩と衰弱によって、自分は彼よりも優位を得ただろう、と期待していました。彼は、神の子に勝って反逆を拡大させること、そして、自分達の最大の力を使うために自分の助力者や堕落天使達を呼ぶこと、優位を主張すること、キリストの言葉を曲解することを意図していました。

 世界の人々の救い主は、サタンがもはやその場所に存在する価値がなかったので、天から強制退去させられた相手と闘いませんでした。神の息子に反逆し、天使達の最高の支配者に反逆して、神の天使達に影響を及ぼし、天使達が愛した指揮者、そして、自分のために共感と協力を求めた彼[サタン]は、誰でもだます能力がありました。4千年間、彼は、神の統治に対して戦い続けてきました。そして、誘惑やだましのための力や技術を失いました。

5.キリストを通した勝利

 罪に落ちた人間が自分の力(体力・知力・精神力)でサタンには勝てないので、人間を助けるために、キリストは神性の力と自分の人間性の力を結び付けて、天の王家の法廷からやって来ました。キリストは、エデンにいたきわめて優秀なアダムがサタンの誘惑に抵抗できて、彼に打ち勝つかもしれないと考えていましたChrist knew that Adam in Eden, with his superior advantages, might have withstood the temptations of Stan, and conquered him.。また、彼は、「人間が罪に落ちて以来、神の愛と光から離れて、エデンの外で、人間自身の力によってサタンの誘惑に抵抗することは不可能だった」ということを考えていました。人間に希望をもたらすために、また、完全な滅びから人を救うために、彼[キリスト]は、人間が存在している所の人に届くように、彼の神性の力を堕落した人間性と結び付けて、人間の性質を取って自分を低くしました。彼は自分達の力では得ることが不可能なアダムの堕落した息子娘達のために、その力を得ました。人々は、キリストの名によって、サタンの誘惑に勝てるでしょう。

 人間性を帯びてそれを強めた神の息子は、罪びと達の身代わりとして立つことによって、人間を自分の近くに引き寄せています。彼は、自分を人々の欠点や苦悩と同一視しています。彼は、誘惑されている人間と同じように、あらゆる点で誘惑されました。彼は、誘惑されるだろう人々への支援の仕方を知っているでしょう。キリストは罪びとの味方/益として勝利しました。

 ヤコブは、夜の幻で、神の玉座に届いている梯子によって天が地と繫がっているのを見ました。彼は、この輝く梯子を天から降りたり天に昇ったりしている輝く天の衣を着た神の天使達を見ました。この梯子の基底部は、地上についていました。一方、その頂上は最も高い天に届いていて、主ヤハウェ(hwhy)の玉座に届いていました。神の玉座からの輝きは、この梯子の上から照らしていました。そして、その地の上を言葉で表現できない光[真理]が反射していました。

 この梯子は、天と地の間のコミュニケーションを開いたキリストを象徴していました。身を低くしたことによって、キリストは、堕落した人間のための同情と共感によって、人間の非常に深い苦悩にまで降りて来ました。それは、地の上に立っている梯子の下のそばに立っているヤコブを象徴していました。一方、天に届いている梯子の頂上はキリストの神性の力を象徴しています。彼は無限を捉えています。そして、このように、天と地を繋ぎ、有限な人間を無限の神に繋いでいます。キリストを通して、そのコミュニケーションは、神と人間の間に開かれました。天使達は、救済の相続人たちに奉仕の働きをするために、堕落した人間に愛のメッセージを携えて天から地へと通ることができるでしょう。天のメッセンジャー達が人々に奉仕の働きをするのは、キリストを通してだけです。

 エデンのアダムとエバは、いちばん気に入りの環境に置かれていました。神と天使達との親交をもつことは、二人の特権でした。二人は、罪の宣告のない存在でした。神の光と天使達は、二人と共に二人の周りに存在していました。二人の存在の創始者は、二人の教師でした。しかし、二人は巧妙な敵の様々な誘惑と圧力を感じていました。4千年間、サタンは、神の統治に反対した働きをしてきました。そして、彼は、決定的な行動から経験と力を獲得しました。罪に落ちた人々はエデンのアダムの優秀性を持っていませんでした。人々は、4千年の間、神から離れ去っていました。サタンの誘惑に抵抗するための力を理解するための知恵は、ついに、サタンが地上に勝利の広がりを見たというほどに、段々と少なくなりました。食欲と何かをしたいという感情、この世界への愛とおこがましい罪は、悪の大きな枝々から伸びる、全ての悪事と暴力の野生種、滅びの進展でした。


 

第40章 キリストが受けた誘惑

 

 

 

 

 

1.キリストが受けた第二の誘惑[16][高い塔から飛び降りる]

 サタンは、食欲の点でキリストに勝つという自分の意図がしくじってしまいました。その荒野の場所で、キリストは、彼自身を味方にして食欲の力に勝利するように、彼の名によって将来の全ての時代の人々にそれを可能にして、食欲の点で人類の味方/益として一つの勝利を達成しました。サタンは、世界の人々の贖い主に勝利を得るために、あらゆる手段を試すまで自分の尽力をやめようとは考えていませんでした。彼は、自分と共に全ての人々が、自分かキリストのどちらかがその競争の勝利者となれる論戦の中にいた、ということを知っていました。そして、キリストを恐れたので、自分の優秀な力で、彼をエルサレムに連れて行って、神殿の尖塔の上に置きました。そして、誘惑によって彼を悩まし続けました。

 彼は、再度、もしも、確かにあなたが神の息子であるならば、あなたがいる目もくらむような高い所から自分で飛び降りて根拠を与えるようにと、キリストに命じました。彼は、キリストに、その神殿から自分で飛び降りて、天の父の保護への信頼を示すよう主張しました。食欲の点におけるサタンの最初の誘惑によって、神の好意が存在していない根拠として、キリストの空腹とその状況を示して、神の息子としてのキリストへの保護と神の愛について疑うよう巧妙に試みていました。彼は、この点で失敗していました。次に、彼は、キリストに推測で主張して、天の父に示した完全な信頼とその信仰を優先させるように試みました。「もしも、汝が神の息子であるならば、自分で飛び降りてごらんなさい。このように書かれているので、汝に関して天使達に命令を与えるでしょう。少しも、汝の足が石に打ち付けられないように、彼らは手によって汝を支えるでしょう」(マタイ46 KJV)。イエスは、即座に応えました。「汝は、汝の神、主を誘惑しないでしょう」(マタイ47 KJV)。

 

2.憶測の罪

 推測の罪は、神への確信と完全な信仰の美徳のそばに接しています。サタンは、イエスが推測によって信頼の境界線を越えたと主張して、自分がキリストの人間性に優位を取れているとして、勝手に得意になっていました。この点で、多くの魂達は挫折しています。サタンは、お世辞でキリストをだまそうとしていました。彼は、試練の最も強い状況の下で、神がキリストの父だったという確信と彼の信仰において、彼はあの荒野では正しかったということを認めました。彼は、その神殿から自分で飛び降りることによって、彼が神の息子だったというもう一つの確たる信仰の根拠と、神に全的に依存しているというもう一つの証明をキリストに強く迫りました。彼は、キリストに、もしも、あなたが確かに神の息子ならば天使たちが手で彼を受け止めるために存在しているので恐れることは何もない、と語りかけました。サタンは、自分が御言葉を引用してその利用に基づいて自分が理解して御言葉の根拠を示しました。

 世界の人々の贖い主は、自身の高潔さによって動揺せず、自分の父が約束した配慮に完全な信仰を持っていたことを示しました。彼は不要な試練に彼の父への愛と信仰を持ち出さなかったでしょう。彼は、敵の手中にいましたが、極端な危険と困難な立場に置かれていました。しかし、彼は、サタンのほのめかしにあって、神の摂理を試みる推測によって、神を誘惑しなかったでしょう。サタンは、この特別な時に、私達の救い主に適用することによって彼の意図を成し遂げようと思って、その場面に相応しいと思える御言葉を持って来ました。

 キリストは、その神殿から自分で飛び降りるように神が彼に求めていたならば、神は確かに彼を支えるだろうということを知っていました。しかし、このような、求められていないそれをすることと、父の配慮と愛の保護を試すことは、サタンによってそうすることをあえてするよう求められたので、信仰における彼の力を示すことにはならないでしょう。サタンは、もしかしたら、キリストは人間の性質の弱さを示して、彼の天の父の配慮の保護を自分で主張して証明しようとしてその神殿から自分で飛び降りて、彼の父によって求められていないことをするように説得されるかもしれないと冷静に考えていました。

 キリストは、この第二の誘惑にも勝利者として振舞いました。彼は、強敵との厳しい闘いの間、自分の父に完全な確信と信頼を現しました。私達の贖い主は、ここで勝利を得て、危難と試練の中で、彼の唯一の安全は神へのゆるぎない確信と確固とした信頼にあるということを人に示し、人間としての一つの完全な型を残しました。彼は、危機から彼を救うために神の力を表すことが彼の天の父にとって必要になるかもしれないという危難の中に自分を置くことによって、自分の父の思いやりを推測することを拒否しました。これは、自分自身の責任において、神の意思を強いることでしょう。そして、彼は、神への堅固な信頼と信仰の完全な手本を彼につく人々のために残しました。

 キリストを誘惑するというサタンの目的は、彼を「あえて推測する」よう導くために、また、主につく人々のための一つの完全な型を彼が作ることができない人間の弱さを示すために存在していました。サタンは、キリストが自分の誘惑のテストに耐えられずしくじるだろう、また、そこには、人類のための贖いは存在しないだろう、そして、彼らを支配する自分の力が完成するだろう、と考えました。

 

3.キリスト、私達の希望と手本

 誘惑を受けた荒野でのキリストの酷い苦しみと屈辱は、人類のために存在していました。アダムによって、全ての人々が違反の罪を通して失われました。キリストを通すことだけが、人間が神の好意を取り戻す唯一の希望でした。人間は、神の律法の違反によって、神からの一つの隔てのようなもので自分から離れてしまいました。彼は、自分の悲惨な罪に釣り合わせず、神の前に自分を謙虚にしませんでした。神のひとり子は、その違反者を悩ます罪を充分に理解していたことでしょう。また、彼の罪のない品性によって、彼だけが、彼の父が喜ばない酷い感覚の苦しみによって、人間を受け入れるための一つの贖いをつくるでしょう。世界の人々の罪のための神のひとり子の苦痛と悲しみは、反則の罪と同じ大きさに、神性の高貴さと清らかさを釣り合わせていました。

 キリストは、全ての事柄において私達の手本でした。私達の味方/益として、食欲の誘惑に勝つための荒野での彼の断食と、長い試練を受けた彼の屈辱を私達が見る時に、私達が誘惑を受けている時に、この教訓を私達自身のための決勝点homeとして捉えるために存在しています。もしも、その食欲の力が人類家族のうえにとても強いものならば、また、神の子がこうむったそのようなテスト、食欲の放縦がとてもひどいものならば、私達が理性の支配下に食欲を置く必要性を感じるということはどれほど大切なことでしょう。私達の救い主は、6週間近く断食しました。彼は、食欲の点において、人間のために勝利を得ました。クリスチャン達は、光を与えられ教化された良心によって、また、心と知性の気力を弱める影響を持つそれらの食欲の放蕩を放棄した人々の型としての人々の前のキリストに、どのように告白できるでしょうか。道徳的な力を弱め、健康を害する自己満足の習慣が一つの痛ましい事実であるということは、クリスチャン世界に広く共有されている今の時代の隷属の鎖を抱えているということです。

 信心深さを告白している多くの人々は、キリストの荒野での苦痛と断食の長い期間の理由を調べていません。彼の苦悩は、人類の激しい感情と食欲の放蕩の結果、主の酷い感覚以後、空腹の苦痛を耐えることにそんなに多く存在しませんでした(His angish was not so much from enduring the pagans of hunger as from His sense of the fearful result of the indulgence of appetite and passion upon the race.)。彼は、食欲が人間の偶像になるだろう、また、神を忘れるように人を導くだろう、さらに、人間の救済の方法の中にじかに立ちはだかっているだろう、ということを知っていました。



41章 キリストが受けた誘惑

 

 

 

 

 

1.キリストが受けた第三の誘惑 [17] [権力と栄光を与える]

 もしも、彼が課せられたそのテストを忍耐して負ったとすると、神は彼に忍耐する力を与えて、征服しようとする者から彼を助け出して、誘惑されるように彼を苦しませなかったということになりますがそうではありません。私達の救い主は、天の父に対する完全な信頼を示しました(Our Savior showed perfect confidence in His heavenly Father, that He would not suffer Him to be tempted avove what He should give Him strength to endure, and would bring Him off conqueror if He patiently bore the test to which He was subjected.)。キリストは、自分自身の意思で、危険の中に自分を置いたのではありませんでした。神は、この力が自分の息子に多く降りかかるよう、その時の間中、サタンを容認しました。イエスは、そのほかに方法が存在しなかったならば、また、彼が、この極端な試練の場所で、自分の高貴さを保っていたならば、彼を助けるために一人の神の天使が送られるだろうということを知っていました。彼は、人間性を取っていました。そして、人類の代表でした。

 サタンは、自分の第二の誘惑によってキリストに優ったものが何もなかったということを見て知っていました。「そして、悪魔は彼を高い山の上に連れて行き、一瞬のうちに世界中の全ての王国を彼に示しました。そして、悪魔は彼に言いました。私はこの全ての権力と栄光を汝に与えましょう。それは、私に渡されています。私が与えたい人には誰にでもそれを与えます。汝が私を拝するならば、その全ては、汝のものとなるでしょう」(ルカ45-7 KJV)。

 以前の二つの大きな誘惑において、サタンは、自分の真の目的や自分の個性を明かしませんでした。彼は、天の法廷からの高尚なメッセンジャーであると主張しました。しかし、彼は今、自分の偽装を振り捨てています。立体的な映像によって、彼は、キリストの前に最も惹きつける光景によって、世界中の全ての王国を表しました。一方で、彼は、自分がこの世界の王だと主張しました。

 

2.心を奪う最大の誘惑

 最後のこの誘惑は、三つの内で最大に心を奪うものでした。サタンは、キリストの生涯が悲嘆や困難や闘いに違いないということを知っていました。そして、彼は、高貴さを放棄するようにキリストへの誘惑物の事柄で優位を取れるだろうと考えました。サタンは、この最後の誘惑に持ち込むために自分の全ての力を注ぎました。この最後の尽力は、勝利者になれるかもしれないというような、彼の運命を決定するように存在していました。彼は、自分がこの空間を支配する王である、また、自分の統治領だとして、この世界の人々に宣言しました。彼は、イエスを険しく高い山の頂上に運んで行き、そして、立体映像によって、彼の前に世界中の全ての王国を表しました。それは、とても長い間、彼の統治の下にあり、それらを大いなる贈り物として彼に差出しました。彼は、キリストに、自分の分け前を危険も苦労もなしに、世界の王国という財産を手に入れることができると語りました。サタンは、「自分の王位と統治権を明け渡す。そして、キリストが神の気に入りの一人として正当な支配者となるだろう」と約束しています。その日にキリストの前に表された世界の王国を彼に支配させる返礼として彼が求めているものは、キリストがサタンを上位の者として、臣従の敬意を払うことでしょう。

 イエスの視線が一瞬、彼の前に現れた栄光に注がれましたが、しかし、彼は、壮観な入り口を見ることを拒否して戻りました。彼は、誘惑者の戯れによって、不動の高潔さを危険にさらしませんでした。サタンが、悪事の臣従の誓いに誘った時、キリストの神性の怒りが湧き起こりました。彼は、もはや、サタンの冒瀆的な推測を許容することができなくなりました。さもなければ、神の臨在にとどまることを彼に許してしまうことになるでしょう。ここで、キリストは、自分の神性の権威を行使しました。「汝は、引き下がりなさい。サタン、それはこう書かれています。汝は、汝の神だけを拝するでしょう。そして、神だけに仕えるでしょう」(マタイ4:10 KJV)。あたかも、彼がこの世界とその中に存在している全てのものを造ったかのように、サタンは、自己誇示prideと尊大によって、その中に住む全ての人々が敬意を払っていて、全ての栄光と富の所有者、この世界の正当で永久の支配者であると宣言しました。彼はキリストにこう言いました。「私はこの権力とそれらの栄光を全て汝に与えましょう。それは、私に渡されています。私が与えたい人には誰にでもそれを与えます」(ルカ46 KJV)。もしも、キリストが彼を拝するならば、彼の主張全体は、直ちにキリストを支配するように、キリストとの特殊な駆け引きになるように尽力していました。

 創造者へのこの侮辱は、神の息子を非難し追い出すための憤りへと移りました。サタンは、キリストが、天から退い出して征服し、堕落した反逆者の長だった自分に気づかなかったことと、自分の最初の誘惑で真の個性や目的をしっかりと隠していたことを得意がっていました。[しかし]、キリストからの「引き下がりなさい」という退去の言葉は、彼の全てのだましの技術が神の息子には不成功だったことと、誘惑の最初から知られていたことの証拠です。サタンは、イエスが人間の贖いのために死ぬ必要があるならば、彼の力は一つの期間の後で終わって当然で、そして、彼はやがて殺されるということを知っていました。そういうわけで、神の息子によって開始されたその偉大な働きの完成を、可能ならば、妨害することは、彼が研究した計画でした。人間の贖いの計画が失敗するならば、彼はその時に主張した王国を持ち続けるでしょう。そして、もしも、彼が成功したならば、天の神に反逆して統治するようになって、彼は自分で得意になったことでしょう。

 イエスが天を去って、自分の力と栄光を捨てた時、サタンは有頂天になりました。彼は、神の息子は自分の配下に置かれたと考えました。その誘惑は、エデンでの清らかな両親にいとも簡単になされました。神の息子でさえも彼の悪魔的な狡猾さと力で倒そうとして、それによって、彼の命と王国を守ろうとしました。もしも、彼が、アダムとエバを彼の誘惑に落とし込んだように、キリストの父の意思から離すように、イエスを誘惑することができるならば、その時、彼の目的は達成されるでしょう。

 一つの期間の後で、また、主自身の命を与えることによって、サタンの所有からイエスが買い戻す時が来るように存在していました。天と地の全ての者達は主に従順な者となるでしょう。イエスは忠実に尽くす者でした。彼は、地上の王国の正当な支配者になるために、永遠の所有財産として主の手に与えられた人々を連れて、自分の父によって任された道で、不名誉な死、自分の苦難の生涯を選びました。また、決して、イエスや栄光の中の聖徒達を悩ますことなく、サタンは、死によって滅ぼされるために、主の手に与えられるでしょう。

 

3.誘惑と決定的な抵抗

 イエスは、この悪賢い敵対者に言いました。「汝は、引き下がりなさい。サタン、それはこう書かれています。汝は、汝の神だけを拝するでしょう。そして、神だけに仕えるでしょう」(マタイ4:10 KJV)。サタンは、キリストに彼が神の息子である根拠を示すように求めました。そして、彼が求めた確実な証拠をこの実例の中に持っていました。キリストの命令の神性[の言葉によって]、彼は服従を強いられました。彼は拒まれ沈黙させられました。彼は、強制的な退去に耐えることを可能にする力を持っていませんでした。彼は、世界の贖い主から去るための、また、あくまでとどまるための一つの言葉もなく屈服させられました。

 サタンの憎しみに満ちた存在は退けられました。その論争は終わりました。多大な苦難を伴った荒野でのキリストの勝利は、アダムの失敗[を贖う]ほど完全でした。一つの時期のために、彼は、強い敵対者の存在とその天使の軍団から束縛されない態度を取っていました。

 サタンがその誘惑をやめた後で、彼は、少しの間、イエスから離れていました。その敵は征服されました。しかし、その争闘は長く続いて、とても悩ましいものでした。そして、それが終わった後で、キリストはとても疲労して気が遠くなりそうでした。彼は、死んだように[伏して]地面を感じました。天の法廷で彼の前に跪いていた御使い達、心を痛め、深刻な心で見つめていて、また、驚嘆と関心を持って見守っていて、彼らが愛した指揮者、サタンとの恐ろしい論争に耐えた彼を目撃した御使い達は、すぐに行って主に仕えました。彼らは、主が死んだ人のように横たわっているので、主に食べ物を用意して、彼に力を与えました。天使達は、世界の贖い主が人間の贖いを達成するための言葉で言い表せない苦悩を通り過ぎたことを知った時に、驚嘆と畏敬の念に満たされました。天の法廷で神と同等だった彼は、6週間近くの断食で衰弱して彼らの前にいました。孤独で一人、彼は、天から追放された反逆者の長によって執拗に追跡されました。彼は、かつて人間が負うようにもたらされた以上の厳しいテストに近いものに耐えました。闇の勢力との戦いは、困難な状況と彼の弱さによって、キリストの人間の性質にとって、深刻な試練で長期にわたりました。その御使い達は、天の父から、人間の味方/益としてキリストがまったき勝利を得て、全天は十分に勝ったという保証、慰めと愛のメッセージをその息子に持って来ました。

 人類のための贖いの代償は、やがて、贖われた者達が神の玉座のそばで贖い主と共に立つ時まで、決して十分に理解されることができないでしょう。人々が、永遠の報酬と、また、不死の命の価値を正しく認識する能力を持つ時に、人々は、「一つの大きな声が言いました。殺された子羊は、祝福と、栄光と、栄誉と、力と、知恵と、富と、権力を受けるにふさわしい存在です」(黙示録512)という、不死の勝利と勝ちの歌を高らかに歌うでしょう。ヨハネはこう言っています。「そして、全ての造られたもの達、天と地と、地の下と海の中にいるもの達、また、それらの中にいる全ての者達が言う声を聞きました。玉座に着いている彼と、子羊とに、祝福と栄誉、栄光と権力が永遠にありますように」(黙示録513 KJV)。

 サタンは、最大の努力と強力な誘惑において失敗しまたが、自分の尽力で成功できそうで、いつかできるかもしれないという願望の全部を捨ててはいませんでした。彼は、キリストに反対して妙案と力を試す機会を持てる時に、彼の[地上での]奉仕の働きの期間の方を眺めていました。サタンは、選ばれた神の民、ユダヤ人達の理解力を盲目にする計画を持っていました。彼らは世界の人々の贖い主、キリストを識別しないでしょう。彼はその民の心を神の息子に対する敵意や嫉妬や憎しみで満たそうと考えました。そういうわけで、彼らはキリストを受け入れないので、可能なかぎり、地上での彼の生涯を苦渋に満ちたものにするでしょう。


 

42章 キリスト、創造者・生命の与え主

 

 

 

 

 

1.神の啓示 [18]

 「[霊的な]無知の闇から特別な光が出るよう命じた神は、イエスキリストの顔/名誉によって神の栄光の知識の光を与えるために、私達の心の中を照らしました」(1コリント46 KJV)。

 罪に陥る前には、私達の最初の両親の知性には、神の品性の明確な指針/戒めを不明瞭にする疑いの雲がありませんでした。その二人は、神の意思に完全に順応していました。一つの被服として、美しい光、神の光が二人の周りを取り巻いていました。主は、聖なる二人[の所]を訪問し、そして、その手の作品[自然界]を通して二人を指導しました。自然界は二人の教訓の教科書bookでした。エデンの園の中での神の存在は、二人の周りの自然界の様々なものによって表されていました。その園のあらゆる木々は二人に語りました。神の見えない事柄は明瞭にみられ、主なる神Godheadと主の永遠の力でさえも、造られたもの達によって理解されて存在していました。

 また、神がこのような自然界の中で認められうるということも事実ですが、このことは、アダムの堕罪後、神の完全な知識が、アダムとその後の世代に、自然界の中に明らかにされた、という主張に好意的ではありません(But while it is true that God could thus be discerned in nature, this does not favor the assertion that after the Fall a perfect knowledge of God was revealed in the natural world to Adom and his posterity.)。自然の本性は、人間の純真さの中に母なる自然の教訓を伝えているでしょう。しかし、違反の罪が自然界に一つの害をもたらし、自然界を創造した神と自然界の間に介在しました。アダムとエバが自分達の創造者に不従順ではなく、二人が完全に清廉潔白な人生の小道を歩んでいたならば、二人は神を理解し悟ったことでしょう。しかし、二人があの誘惑者の声に耳を傾け、神に反逆して罪を犯した時に、天の純真な衣の光は二人から去りました。そして、純真な衣との別れによって、二人は、神についての無知の黒い衣を引き寄せました。それまで二人を取り巻いていた綺麗で完全な光は、二人が近づいた全てのものを照らしていました。しかし、その天の光が奪われてから、アダムの後の世代の人々は、主が創造した作品[人間]の中に、神の品性を引き写すことができなくなりました。

 今日、私達が目にしている自然界の様々な物事は、エデンの美と栄光の概念をかすかに私達に伝えているだけです。また、自然的な世界は間違うことのない声によって、神の栄光を宣言しています。二人は罪の害のそばにいた時に、自然界の物事に傷をつけました。まだ、その多くは美しさが残っています。全能の方の力と善意の偉大さ、思いやりと愛が、この地球を創造しました。また、それ[地球]は害を受けた状態でも、巧みな達人芸術者についての真理を説いています。この自然界の教訓の教科書bookは、芳しい花々の美と多様性と、繊細な色彩によって、私達に開かれています。神は、その愛を表すのに間違うことのない言葉を私達に与えています。アダムが罪の違反をした後で、神は、すべての草木の芽吹きと花のつぼみの開くのを止めたことでしょう。また、主は、その[罪の] 感覚にとても不快感を持って、花たちの香りを取り去ったことでしょう。地上では、野バラやアザミ、イバラや有毒な雑草による呪いによって、枯れることや荒廃が始まりました。私達は、激しく非難する神の律法を読むことができます。しかし、花たちの繊細な色や香りによって、神がまだ私達を愛していることを学ぶことができるでしょう。神の思いやりは、この地上から全部が立ち去ってはいません。

 自然界は、人類のための霊的/精神的な教訓に満たされています。花たちは、新たな命に湧き出るためにだけ死にます。このことによって、私達は、よみがえり/復活の教訓を教えられています。神が愛しているすべてのもの達は、エデンにあった以上に、また花を咲かせるでしょう。しかし、自然界は素晴らしい神の愛と偉大な教訓を教えることができません。それゆえ、罪に陥った後、自然界は人間の唯一の教師ではなくなりました。世界の人々は、永遠の霊的な夜、闇と無知の中にとどまっていることはできないので、自然界の神は、イエスキリストによって私達と向き合いました。神の息子が、その父を明らかにするためにこの世界にやって来ました。彼は、「この世界にやって来た、全ての人々を照らす真の光」(ヨハネ19 KJV)でした。私達は「イエスキリストの顔/名誉にある神の栄光の知識の光」(2コリント46 KJV)を見上げるために存在しています。

 神のひとり息子の人格personの中で、天の神は、私達の人間の性質にまで身を低くして謙遜になりました。トマスの質問について、イエスは言いました。「私は特別な道であり、特別な真理であり、特別な命です。私によらなければ、天の父に誰も行く人はいません。もしも、汝が私を知っていたならば、汝は私の父をも知っていたでしょう。これから父を知るならば、汝は父を見ました。ピリポはイエスに言いました。主よ、私達にその父を示してください。それで私達は満足します。イエスは彼に言いました。ピリポよ、私はこんなに長くあなたと一緒にいたのに、まだ私がわからなかったのですか。私を見た人は、天の父を見たのです。汝らは、どうして、私達に天の父を示してくださいというのですか。汝は、私が父の中におり、父が私の中にいることを信じないのですか。私があなたに話している言葉は、自分から話しているのではありません。私の中に内在している天の父が語っています。その父がこの働きを行なっています。私が父の中にいて、そして、父が私の中にいることを信じてください。もしくは、働きそのものを理由にして、私を信じてください」(ヨハネ146-11 KJV)。

 人間が学ばなければならない最も難しく屈辱的な教訓は、正しく自然界を読むためのその人自身の努力の明らかな失敗と、人間の知恵に頼ることによる非効率なやり方にあります。罪は、人間の[霊的]視界を不明瞭にし、人間自身についても、人間が神の上にそれ[知恵]を置くことなしに自然界を解釈できなくしてしまいました。人間は、その[知恵]によって、神や神に送られたイエスキリストを認めることができません。人間は、かつて自然界を拝するための祭壇を高く立てたアテネ人と同じ位置にいます。[ローマ神話の]マルスの丘の中央に立ったパウロは、アテネの人々の前で、彼らの偶像崇拝と対照的に、生きている神の偉大さを紹介しました。

 彼は言いました。「そなたたち、アテネの皆さん。私は、汝らがあまりに迷信を信じていると理解しています。あなた方が信仰しているものを見上げて、私がそばを通った時に、私は、「知られていない神に」と書かれた祭壇を一つ見つけました。そこで、汝らが知らずに拝んでいる神をあなた方に教えてあげましょう。その人は、神がこの世界とその中のあらゆるものを造った天と地の主であると見ているのですから、神は人々の手によって作られた神殿に住んでいるのではありません。また、神が全ての物と息と命を与えている、とその人は見ているのですから、人々の手によって崇拝されないだけではなく、神は何物をも必要としていません。地の表の全てに住まわせるために、一人の血統から人々のあらゆる部族を作りました。そして、人々の居住地の境界を指定する前に時代を定めました。人々が主を求めるように、人々が偶然にも神の後ろを感じて神を発見することができるとすると、神は私達全ての人々から遠くない存在なのですが……。それは、私達が神の中に生きていて、動いていて、私達が存在しているからです。みなさんの詩人たちも「私達は神の子孫である」と言っていた通りです。そのように、私達は神の子孫なのですから、私達は、人間の考案や芸術・技術によって、神Godheadを金や銀や石のように考えてはいけません」(使徒言行録17:22-29 KJV)。

 

2.自然界は神ではない

 神に関する真の知識を持っている人は、自然界の中で続く神の働きの認識を拒否せず、あるいは見渡す時に、自然界の運行や内容の法則の分別をなくすことはしないでしょう。自然界は神ではないばかりか、それはこれまでも神ではありませんでした。自然界の声は神を証ししていますが、しかし、それ[自然界]は神ではありません。神が創造した作品として、それ[自然界]は神の力の一つの証を簡潔に生み出して伝えています。神性は、自然界の創始者です。自然的な世界は、それ自身の中に力はありませんが、それは神が供給しているものです。ここに、神の息子、キリストの一つの人格、天の父、神の一つの人格があります。「神は、過去、様々な時に異なった方法で、預言者達によって先祖達に語りました。次に語る最後の日々に彼の息子によって私達に語り、彼を全ての事柄の相続人として任命しました。彼[神の息子]はまたこの世界を造ったことによって、自分の栄光の輝きとして存在しています。彼[]の人格のかたちimageの表現、神の言葉の力によって全ての事柄を支えています。彼が私達の罪を取り除いて清めることを終えた時、天の高い所にいる権威者の右の座に着きました」(ヘブライ1:1-3 KJV)。

 詩編記者はこう言っています。「天の全ての者達は神の栄光を宣言しています。天界は神の手の業(わざ)を示しています。一日の寿命は一日の寿命の言葉を語り、知的な暗闇は知的な暗闇の知識を示しています。そこには、語る者も言葉もなく、そこでは、人々の声は聞かれません」(詩編19:1-3 KJV)。ある人は、この自然的な世界のこれらの事柄の基は神であると考えるでしょう。それらは神ではありません。諸天の中のこれらの不思議の全ては、それらが指定された働きをしているだけです。それらは神の働き手達です。神は、全ての事柄の創造者であると同時に最高管理者です。神性の存在者は、自らが創造したその事柄を支えることによって結ばれています。山々とそれらの位置のバランスを保っている手は、太陽の周りの不思議な運行の中で、この諸世界をガイドしています。

 私達が、神の言葉によって言及されているもので、見つけることができないような自然界の運行は一つもありません。御言葉は「昇るように自分の太陽を造り」(マタイ5:45 KJV)、降るように雨を造ったと宣言しています。「主は、山々に草を生えさせ」「主は、羊の毛のように雪を降らせ、灰のように白い霜を降ろし、一口サイズの氷をたたきつけます。……主は特別な言葉を送り、それらを溶かします。主が、その風を引き起こすと水が流れ出します」(詩編147:8,16-18)。「主は雨のためにカミナリを轟かせ、倉から風を送り出します」(詩編135:7)。

 これらの聖なる権限のある言葉は、自然界の独立した法則について、何も言及していません。神は、自分の計画を遂行するための所有物と材料を備えました。主は、植物たちが繁茂できるように代理の働き手たち [と共に]働いています。主は、露と雨と日光を送っています。新緑の若葉は萌え出て、地上一面にカーペットのように広げています。庭の生け垣用の低木と実のなる樹はつぼみを付け、花を咲かせて実を結ぶでしょう。草木の葉はそれ自身がそのようにしなければならないがゆえに[芽吹いて]現れ、また、一つの法則がそれ自身で働くようにタネのために動作を定められているとは考えられません。神は、自分が設けた諸々の法則を持っています。しかし、それら[諸々の法則]は、主が尽力している成果を通した奉仕者にすぎないものです。全ての小さなタネが地上に出現して、植物の生涯に向かって生長しているのは、直接の神の代理の働き手によっています。あらゆる草木の葉やあらゆる花のつぼみは、神の力によって生長しています。

 人間の身体組織は、神の管理の下にあります。しかし、それは時計のようなものでありません。それは操作によって定められていて、それ自身、止まって当然です。心臓は脈を打っています。その脈は正確に脈を打っています。呼吸作用は正確に呼気を送り出しています。しかし、全ての存在者は、神の管理の下にいます。「汝らは、神の家政管理者です。また、汝らは神によって人格を形成されている者です」(1コリント39 KJV。神の中で、私達は生きて活動して、自分達の存在を持っています。一人一人の心臓の脈と呼吸は、「私は存在している」という偉大で永遠に存在している神に属する霊感、アダムの鼻孔に息を入れた主の霊感/励起です。

 古代の哲学者たちは、自分達の優れた知識で自分達を誇りました。私達は、霊感を与えられた使徒が理解した内容を読みましょう。彼はこう言いました。「自分では知恵ある者と言いながら、愚か者となり、神の不滅の栄光を、滅んでしまう人間や鳥、四つ足の動物、地を這うものに似せたかたちに変えました。……その人々は、神の真理を偽りに変え、そして、[天地の]創造者ではない生き物に礼拝して仕えました」(ローマ122-25 KJV)。それらの人間の知恵によって、世界の人々は神を知ることができないでいます。それらの賢い人々は、主が創造した作品から神の不完全な知識を集めていて、また、人々の愚かさによって、人々は、自然界の神よりも自然界の法則と自然界を賛美しています。神を悟らない人々は、神がキリストによって神自身に属する[自然界]を造ったというその啓示を受け入れず、自然界の中の主の知識の不完全なものだけを得るでしょう。そして、この[不完全な]知識は、人間の全存在を神の意思へと画一化をもたらして、また、与えられたもの以上にはるかに離れて、神に関する概念を高揚させて、人々を偶像崇拝者達にするでしょう。賢い者になると自分で表明する人々は、愚か者となるでしょう。

 御言葉が「神の人格のかたちの表れ」(へブル13 KJV)であると宣言している神を代表する者[キリスト]を捨てて、神の知識を得ることができると考えている人々は、その人々は賢い者になり得る前に、自分の評価によって愚かになるような必要があるでしょう。自然界だけから神の完全な知識を得ることは不可能です。この不完全さの中で、それは神を表すことはできません。それはそれ自身の道徳的な完全さによって、神の品性を表すこともできません。しかし、キリストはこの世界に一人の人格を備えた救い主としてやって来ました。彼は、一人の人格を備えた神を現しました。一人の人格を備えた救い主として、彼は高き所に昇り、そして、彼は、天に昇った時のように、一人の人格を備えた救い主としてまたやって来るでしょう。彼は、天の父の人格のかたちの現れです。「彼の中に、父と子と聖霊の神Godheadの全てがぎっしりと宿っています」(コロサイ29 KJV)。


 

43章 キリスト、創造者・生命の与え主

 

 

 

 

 

1.キリスト、生命の与え主 [19]

 「初めに言葉がありました。その言葉は神と共にありました。その言葉は神でした。同じもの[言葉]が神と共に始まりの中にありました。全ての物は彼 [言葉] によって造られました。言葉なしに何も造られませんでしたが、それら[全ての物][言葉によって]造られました。彼[言葉]の中に命がありました。そして、その命は人々の光や知識でした。そして、その光や知識は闇や無知の中で輝いています。その闇や無知はそれ[光や知識]を理解しませんでした」(ヨハネ11-5 KJV)。この世界の人々は、ナザレにいる謙遜なその男の人[イエス]の中に神性を見ることがありませんでした。無限の神のひとり息子は、この世界の人々の中にいました。そして、人々は、彼[イエス]の真の品性を知りませんでした。

 「彼の中に命がありました。そして、その命は人々の光/知識でした」(ヨハネ14 KJV)。ここで明細に記されているものは、身体の命ではありません。また、不死の命は、神の占有物です。神と共に存在していて、また、神であった御言葉は、この命を持っていました。身体的な命は、一人ひとりが個人的に受けているなにがしかの物です。それは、永遠や不死ではありません。なぜなら、命の与え主、神が、それを貸し出しているためです。人間は自分の命を支配していません。しかし、キリストの命は貸し出されたものではありませんでした。この命をキリストから借り出しできる人は一人もいません。彼は「私は自分からそれを捨てます」(ヨハネ1018 KJV)と言いました。彼の中に、分断されたものではなく、貸し出されたものではない独自の命がありました。この命は、人間の中に生まれつき存在していないものでした。人は、キリストを通してだけそれを所有することができます。人はそれを得ることができません。もしも、自分の個人的な救い主として、人がキリストを信じるならば、それは、無料の贈り物として人に与えられています。「これは永遠の命です。人々は、そなたが遣わしたイエスキリストと唯一の真の神、そなたを知ることでしょう」(ヨハネ17:3 KJV)。これは、世界の人々のために開かれている命の泉です。

 テモテに励ましを与えたパウロはこう言っています。「汝は、神に属する人として、それらの事柄[金銭を愛することなど]を避けて、そして、義と神性と信仰と愛、忍耐と謙遜を追い求めてください。信仰の戦いを立派に闘い抜いて、永遠の命を手に入れてください。汝が何かの目的で呼び出された所で、多くの証人達の前で良い証をしました。ポンテオ ピラトの前で立派な証をしたイエスキリストの前と、あらゆる事柄で勇気づける神の視点から、私は汝に励ましを与えます。そなたは、私達の主イエスキリストの出現まで、非難されることなく汚点をつけることなく、その戒めを守り続けていきます。すると、神の日々に、祝福された唯一の主権者、王の王、主の主が[それらを]示すでしょう。人間が誰も見たことがなく見ることもできず、近づくことができない光の中に内住している主は、唯一、不死を持っています。栄誉と永遠の権力が主にあるように」(1テモテ6:11-16 KJV)。

 パウロは再度こう書いています。「キリストイエスは、罪びと達を救うためにこの世界にやって来たということは受け入れる価値のあることで、信仰深い言葉です。私はその罪びとの頭です。そのような理由にも拘らず、私は、イエスキリストにある永遠の命をこれらから信じる人々の模範として、キリストが初めに示したまったき寛容という思いやりを受けました。永遠の王、不死、目に見えない、唯一の賢明な神に、栄誉と栄光が永遠にありますように」(1テモテ1:15-17 KJV)。

 

 

2.キリストによってもたらされた不死

 キリストは「特別な福音を通した光によって不死と命をもたらしました」(2テモテ1:10)。彼から離れて、独立した霊的/精神的な命を持つことができる人はいません。罪びとは不死ではありません。神は「罪びとの魂は死ぬでしょう」(エゼキエル18:4)と言いました。これ[この聖句]は、表されているすべての人々[の死]を意味しています。それ[この死]は、全ての人々にありふれたものである死以上に達しています。それ[この死]は、第二の死を意味しています。人々は「あなたは動物人間を造ったに過ぎないのではありませんか」と言って後ずさりしています。これ[この言葉]は品位を下げるために存在している思想です。しかし、何が神の視界の中で人間を高めていますか。それは、人のお金の蓄財ですか。いいえ、神は、金と銀は私のもの、と宣言しています。もしも、人が委託された宝物を乱用しているならば、神は、人が集めることができる以上にすぐに散らすことができます。人は知的な輝きを持っているでしょう。その人は生まれつきの才能という財産が豊富にあるでしょう。しかし、それらは、その人の造り主、神によってその人に与えられているものです。人間が一瞬にして野にいる獣にまで品位を落としたネブカドネザルのようになるように、神は、[人間の]理性の贈り物を取り去ることができます。まるで、人間が自分の知恵と能力を神と無関係に得られたかのような活動をしているので、このように、神は行動しています。

 人間は、残念ながら、死を免れない存在です。また、一方、人は、賢明すぎてイエスを受け入れることができないと感じています。人間は残念ながら死を免れないままに残るでしょう。人々は知的な世界の中で素晴らしい事柄をしました。しかし、誰がこのことをする力を人々に与えましたか。ホスト役の主なる神[です](The Lord God of hosts.)。洪水前の世界の人々の例にならって、自分自身の栄光と自分自身の力のゆえの勝利を彼らの心の能力に描いた人々は、滅びるでしょう。人類に長く存続して来た想像力は残念ながら悪で、それは引き続いています。人々は悪を賢く行なうために存在していて、この地上の住人はそれゆえに滅ぼされました。無限の知者である方と自分で繫がった人々は、神が与えた自分達の能力と才能によって素晴らしいことを成し遂げました。しかし、神から離れた人々は、今日、多くの人々がしているようにサタンの導きについて行くことを選んでいます。また、主は、人々の自慢した言葉と共にこの地上から人々を一掃しました。

 人間性/博愛は、それ[博愛]がなされたゆえに、世界中の人々によって高められるでしょう。しかし、人間は、自分を高めるように正しく使用したならば、自分が委ねられた才能の悪用と誤用に基づいて、神の視界の中で直ちに自分を低くすることができます。主は長く忍耐していて、誰かを滅ぼす意図がない一方で、主は、手段がないだけでしょう。みんなで神の言葉に注意を払いましょう。「なぜ、汝は、私への犠牲や私への捧げ物を足蹴にして不快感を表すのですか。なぜ、汝は私よりも息子達を重んじて、私の民イスラエルの人々の全ての捧げ物のうちの最上のものを取って自分を肥やそうとするのですか。それゆえ、イスラエルの神、主はこう言っています。汝らの家と汝らの父の家は、永遠に私の前に歩むでしょう、と私は確かに言いました。しかし、それは私から離れている、と主は言っています。私を尊敬する人々を私は尊敬し、私を軽蔑する人々は軽々しく評価されるでしょう」(1サムエル2:29-30 KJV)。

 神は、彼に従順な人々を尊敬しています。ダビデはこう言いました。「主は、私の義に応じて報いを与え、私の手の清さに応じて報いを与えました。私は主の道を守り続け、神から離れず悪いことをしませんでした。主の評価がいつも私の前にあって、私から主の掟を捨てませんでした」(詩編1820-22 KJV)。

 

3.永遠の命を得る方法

 キリストを信じている人だけが、永遠の命を得ることが可能です。キリストの肉と血を摂り続けることによってだけ、私達は、神性な性質にあずかる者であるという保証を持つことができます。私達が正直であるならば、私達が信じていることは問題ではないと言って、このテーマについて、無関心でいられる人はいないでしょう。あなたは、誰かと自分を喜ばすために、どのような真理の命のタネも安全と共に明け渡すことはできませんYou cannot with safety surrender any seed of vital truth in order to please yourself or anybody else.。十字架を避けようとしないでください。私達が義の太陽から光を受けていないならば、私達は、全ての光の源との繋がりを持っていません。そして、この命と光が私達の中にとどまっていないならば、私達は決して救われることができないでしょう。

 人間の創造という目的がサタンによって挫折させられないように、神はあらゆる対策を立てていました。アダムとエバが自分達の不従順によって、この世界に死をもたらした後に、一つの多大な犠牲が人類のために準備されました。二人が独自に所有していた以上に、高い価値が二人の上に置かれました。世界の人々のための罪を贖うものとして、神のひとり息子、キリストを与えることによって、神は天の全てを与えました。

 キリストの承諾は、人間に価値を与えています。彼の犠牲は、自分達の個人的な救い主として、キリストを受け入れる人々に光[知識]と命をもたらしています。イエスキリストを通した神の愛は、天の父の神の律法の生命力をもたらし、主の体[教会]の全てのメンバーの心の中に流布して注がれています。このように、神は人と共に住むでしょう。そして、人間は神と共に住むでしょう。パウロはこう宣言しました。「私はキリストと共に十字架につけられました。それにもかかわらず私は生きています。また、私が生きているのではなく、私の中にキリストが生きています。現在、私の肉の中に生きているこの命は、私のために自身を与えて私を愛した神のひとり息子の信仰によって生きている[]です」(ガラテヤ220 KJV)。

 信仰を通して、人間がキリストと一つになっているならば、その人は、永遠の命を得ることができています。神は、その息子を愛しているように、キリストを通して贖われた人々を愛しています。何という思想でしょうか。神が自分の息子を愛しているように、罪びとを愛することができるのですか。できますとも。キリストはそれについて言っていました。神はキリストが言っているそのことを意味していました。神は、私達が神に自分達の信頼を置いて、また、生きた信仰によって神の約束を捉えるならば、私達が選別しているものをすべて尊ぶでしょう。神に従順な全ての人々は、キリストがその父に捧げた祈りの中に包容されています。「私は、人々にそなたの名を知らせました。これからもそれを知らせましょう。そなたが私を愛した愛がその人々の中にあるように、また、私もその人々の中にいるでしょう」(ヨハネ1726 KJV)。人間性を理解するためにはあまりにも難しく素晴らしい真理[です]

 キリストは、こう言いました。「私は特別な命のパンです。私の所に来る人は決して飢えることがないでしょう。私を信じている人は決して渇くこともないでしょう」(ヨハネ635 KJV)。「また、これは、私を遣わした神の意思です。神を信じ、その息子を見る全ての人々は永遠の命を持っているでしょう。そして、私は終わりの日にその人をよみがえらせるでしょう」(ヨハネ640)。「確かに、確かに、私はあなた方に言います。私を信じる人は永遠の命を持っています」(ヨハネ647 KJV)。「汝らが、人[となった神]の子の肉を食べ、その血を飲むのでなければ、汝らはその中に命を持っていません。私の肉を食べて血を飲む人は、永遠の命を持っています。そして、私は終わりの日にその人をよみがえらせるでしょう。私の肉は確かに食物です。また、私の血は確かに飲み物です。私の肉を食べ私の血を飲む人は、私の中に住んでおり、また、私もその人の中に住んでいます。生きている天の父が私を遣わしたので、私は天の父によって生きているように、私を食べている人は私によって生きているでしょう。私は、天から降って来たそのパンです。あなた方の父祖達が食べたマナではありません。そして、彼らは死んでいます。このパンを食べる人は永遠に生きるでしょう」(ヨハネ6:53-58)。「活気づけるのは聖霊/聖なる精神です。肉は何の役にも立ちません。私があなた方に語った言葉は精神/霊です。そして、それらは命です」(ヨハネ6:63)。


 

44章 キリスト、創造者・生命の与え主

 

 

 

 

 

1.よみがえった救い主 [20]

 「私はよみがえっている者であり、命です」(ヨハネ1125)。「私は自分の命を再び得るためにそれを捨てます」(ヨハネ1017)と言った主は、自分の中に存在していた命を持って墓の中から出てきました。人間性は死にましたが、神性は死にませんでした。彼の中の神性によって、キリストは死の束縛を打ち破る力を所有していました。彼は、自分の中に、自分の意思でよみがえらせるような命を持っている、と宣言しました。

 全ての生きている人間は、神の意思と力によって造られました。人々は、神のひとり息子の命の受取人です。どれほど能力や才能があったとしても、人々の潜在能力がどれほど大きくても、人々は、全ての命の源から命を補充されています。彼は、命の源泉、命の湧き水です。光と命の中に住んでいて、ただ一人、不死を持っている彼だけが、このように言えるでしょう。「私はそれ(自分の命)を捨てる力を持っていて、また、私は再びそれを得る力があります」(ヨハネ1018 KJV)。

 キリストの言葉、「私はよみがえった者、また、命です」ヨハネ1125 KJV)は、ローマ軍の護衛兵によってはっきりと聞き取られました。サタンの全ての軍勢がそれらを聞きました。そして、私達はそれを聞く時に理解しています。キリストは、多くの人々の贖いの身代わりとして自分の命を与えるためにやって来ました。良い羊飼いとして、彼はその羊達のために自分の命を捨てました。その罰を負うことによって神の律法守ることは、神の義でした。これは、正義と善、聖が宣言され、神の律法が守られ得る唯一の方法でした。神性の威厳と栄誉と権威が守られ、罪深さに優るものが現れることは、罪が犯されることに対する唯一の[防御の]方法でした。

 神の律法による統治は、神のひとり息子の死によって、拡大され、ほめたたえられるための存在していました。キリストは、この世界の諸々の罪の責任を負うために生まれました。私達の十分な能力は、神の息子の死と受肉の中にのみ見つけ出されます。彼は、神性によって支えられたので耐え忍ぶことができたのでしょう。彼は、一つの罪や不忠実の傷もなかったので、耐え抜いたのでしょう。キリストは、このように、処罰に関する正義を生み出すことによって、人間の味方/益として勝利しました。彼は、人々に永遠の命を確保しました。また、彼は、律法を高貴にして、尊敬されうるものにしました。

 キリストは、不死を与えるための権利を備えていました。人間性を捨てたその命を、彼は、再び得て、そして、人間に与えました。彼はこう言っています。「私が来たのは、人々が命を持てるように、また、人々がとても多くそれを持てるためです」(ヨハネ1010 KJV)。「私の肉を食べ、私の血を飲む人は誰でも、永遠の命を持っています。そして、私は、最後の日にその人をよみがえらせるでしょう」(ヨハネ6:54 KJV)。「私が与える水を飲む人は誰でも、決して渇くことがないでしょう。しかし、私が与えるその水は、その人の中で、永遠の命へとなるよい水が湧き上がるでしょう」(ヨハネ414 KJV)。

 一つの体験を得て、主を信じて、キリストと一つになっている全ての人々は、永遠の命に至る命が存在しています。「生きている天の父が私を遣わしました。私はその父によって生きています。私を食べる人は、私によって生きるでしょう」(ヨハネ6:57 KJV)。「人は、私の中に住んでいて、私もその人の中に住んでいます」(ヨハネ6:56 KJV)。「私は、最後の日にその人をよみがえらせるでしょう」(ヨハネ6:54 KJV)。「私が生きているので、汝らも生きるでしょう」私は、最後の日にその人をよみがえらせるでしょう」(ヨハネ13:19 KJV)。

 [神性の]キリストは、人間性と一つになりました。その人間性は、彼の命と精神において一つになりました。神の言葉への従順のこの連合の長所によって、彼の命は人々の命になっています。彼は罪を悔いる人にこう言っています。「私はよみがえった人であり、そして、その命です」(ヨハネ11:25 KJV)。死は、眠り、暗い夜、沈黙という眠りとして、キリストによって肯定的にされました。彼は、それについて、それはほんの一瞬のことだったと語っています。彼は、こう言っています。「誰でも、私を信じて生きている人は、死ぬことがないでしょう」(ヨハネ11:26 KJV)。「もしも、私の言っていることを守っているならば、その人は決して死を味わうことがないでしょう」(ヨハネ8:52 KJV)。「その人は、決して死を見ないでしょう」(ヨハネ8:51 KJV)。そして、信じている人にとって、死はほんの小さな事です。彼にとって、死は単なる眠りです。「イエスにあって眠っている人々をも、神はイエスと一緒に導き出すでしょう」(1テサロニケ414)。

 その女性達が、救い主のよみがえりの証としてそれらのメッセージを知らされていた間に、イエスは、彼に追随する多くの人々に自分自身を現す準備をしていて、もう一つのシーンが展開していました。ローマ軍の護衛兵達は、贖いの愛の歌を歌う天使達の歌を聞きながら、キリストの誕生の勝利の歌を力強く歌う天使達を眺めることができました。そして、今、彼らが見上げることを許されたその不思議なシーンで、彼らは、気が遠くなって死んだ人のようになりました。天の一隊が彼らの視界から消えた時、彼らは、自分の足で立って、そして、健脚をよろめかせながら、すぐに、駐屯地の門に向かって進んで、それらのことを報告したことでしょう。盲人や酔った人々のようによろめきながら、彼らの顔は死人のように青ざめて、彼らは、目撃した不思議なシーンに遭遇したそれらのことを話しました。メッセンジャー達は、展開していた注目すべき事件を彼らが可能な限り最善を尽くして断言して、それらをすぐに祭司長達と支配者達に直ぐに知らせることを優先しました。

 兵士達は、まず初めにピラトに知らせました。ところがそれを聞いた、祭司達と支配者達は、それらの存在を示すようにと、彼らに言葉を送りました。キリストが証拠を示した大勢の人々のよみがえりと、キリストのよみがえりの証を伝えた時、緊張して堅くなったそれらの兵士達は困った表情をしました。兵士達は、埋葬所で自分達が見たことを祭司長達に話しました。彼らは、何かを考えたり話したりする時間がなく、真実を伝えるだけでした。しかし、その支配者達は、この報告を喜びませんでした。彼らは、多くの市民がキリストに関する試練を与えられたことを知りました。彼らは、超自然的な暗黒、非常に強い地震が、結果を引き起こす原因なしには起こらないし、それが既に起こった不思議な事件だということを理解しました。彼らは、人々をだますための計画をすぐに立てました。その兵士達は、うその報告をするように賄賂を受け取りました。


 

45章 キリスト、創造者・生命を与える主

 

 

 

 

 

1.最初の実 [21]

 キリストが十字架上にいる間に「それは終った」(ヨハネ1930 KJV)と叫んだ時に、強い地震がありました。それから、ホスト役の主を讃えて、全ての悪に反対して自分達の証を生み出して伝え、忠実で信仰深かった多くの人々の墓が壊れて開かれました。命の与え主が埋葬所から出てきた時に、「私はよみがえった者であり、命です」(ヨハネ1125)と宣言して、それらの聖徒達を墓から呼び出しました。生きている時、彼らは、真理のためにひるまず自分達の証を伝えました。今、彼らは死から自分達をよみがえらせた主を証しするようになるために存在していました。キリストは、こう言いました。これらの人々はもはやサタンのとりこではありません。私は彼らを贖いました。私は、二度と悲しい体験をせず、死を見ることがないように、私のいる所に私と一緒にいるために、私の力の最初の実として、彼らをその墓から買い取りました。

 主の奉仕の働きの間に、イエスは死んだ人を命によみがえらせました。彼は、ナインの寡婦の息子、ヤイロの娘、ラザロをよみがえらせました。しかし、それらの人々は不死を着せられたのではありませんでした。その人々がよみがえった後で、その人々は、死ぬという問題があり続けました。しかし、キリストのよみがえりの時にその墓から出てきた人々は、永遠の命によみがえらされました。その人々は、墓と死に勝利した主のトロフィーとして主と昇天した主のとりこの群衆でした。

 主のよみがえり/復活の後、キリストは、自分の追随者たちの誰を救うかについて、自ら示しませんでした。しかし、自分のよみがえりについて証は、望んでいませんでした。キリストと共によみがえり、「多くの人々に現れた」(マタイ2753)これらの人々は、キリストは死からよみがえって、私達は主と共によみがえらされました、と断言しています。その人々は、その市街の中で御言葉が成就したことの証を生み出して伝えました。「汝ら、死んだ人々は生きるでしょう。私の死んだ体と共に、人々はよみがえるでしょう。塵に内在している汝らは目覚めて歌います。汝らひとしずくは、草の葉の滴のようです。そして、この地は死を追い払うでしょう」(イザヤ2919 KJV)。それらの聖徒達は、ローマ軍の護衛兵がうわさを広めるために雇われた嘘、「キリストの弟子達が夕方近くにやって来て彼を盗んで行った」という嘘を否定しています。この証は、沈黙させられることがないでしょう。

 [訳者加筆。対型:新約聖書に示された事件や人物の象徴。本型:旧約聖書に示された事件や人物のこと。例:アダム;本型、第二のアダム・イエス;対型]

 キリストは、眠っている人々のからの最初の実fruitsでした。揺り動かす穀物の束の対型である命の君が最初の実になるということは、神の栄光のために存在していました。「神は予知していた人々のために、神の息子のかたちに形成しようとしてあらかじめ定めていました。彼は、多くの兄弟達の間で最初に生まれた者となるでしょう」(ローマ829 KJV)。死からの復活のこのシーンは、ユダヤ人達によって、本型として祝われました。畑で穀物の最初の穂が熟した時、それらは注意深く収穫されました。その人々がエルサレムに上った時に、それらは、感謝の捧げ物として、主に捧げられました。その人々は、収穫の主としての神に感謝して、神の前でその熟した穀物を揺り動かしました。この祭りの後で、収穫の鎌が小麦に入れられて、収穫されました。

 そのように、よみがえらされたそれらの人々は、自分達の個人的な救い主として、キリストを信じている全ての人々のよみがえりの約束として、全人類に捧げられるために存在しています。全ての国の支配者の上に、命名された全ての人の名の上に、この世界の人々の中だけではなく、天の法廷の中だけではなく、世界中の人々の上に、主の花嫁として、死からよみがえったキリストの同一の力が、主の教会をよみがえらせて、キリストの栄光を讃えるでしょう。眠っている聖徒達のこの勝利は、よみがえり/復活の朝における栄誉に満ちたものとなるでしょう。サタンの勝利は、終わるでしょう。一方、キリストは栄光と尊敬のうちに勝利するでしょう。命を与える主は、特別な墓から出てくる全ての人々に不死の冠を授けるでしょう。

 

2.キリストの昇天

 地上におけるキリストの働きは終わりました。彼にとって、彼の天の家に戻るその時がやって来ました。「そして、イエスは彼ら[弟子達を] ベタニヤの近くまで連れて行きました。そして、彼は両手を上げて彼らを祝福しました。祝福しているうちに、時間が過ぎて、彼は彼らから離れて行き、そして、天に引き上げられました」(ルカ24:50,51 KJV)。

 キリストが弟子達を祝福する行動を取っている間に昇天した時に、天使達の一つの集まりが、雲のように主の周りを取り囲みました。キリストは、主のとりこ達の群衆を共に連れています。

 彼は墓と死の征服者であるという一つの根拠として、[死んで]眠っていた人々の最初の実として天の父に自分で連れて行くでしょう。神の都の正門で、無数の天使達の仲間が主の来るのを待っています。雲のような集まりが近づいた時、エスコートしていた天使達はその門にいる仲間達に勝利の調べによって、あいさつの言葉を送ります。

 

汝ら、門達よ。あなた方の頭を上げてください。

汝ら、永遠の扉達よ。あなた方は上げてください。

栄光の王がやがてやって来ます。

栄光の王とは誰ですか。[待っていた天使達が尋ねます]

強い主です。力強い主です。

戦いに力強い主です。

汝ら、門達よ。あなた方の頭を上げてください。

汝ら、永遠の扉達よ。さらに、それらを上げてください。

栄光の王がやがてやって来ます。

 

 再び、待っていた天使達が尋ねます。「栄光の王とは誰ですか」。エスコートしている天使達が、美しい調べ[の声]によって応答します。「ホスト役の主、彼は栄光の王です」(詩編24:7-10 KJV)。その時、神の都の正門は大きく開かれていて、そして、天使のような群衆が中に入って行きます。

 そこには、玉座があって、約束の虹がその周りを取り巻いています。そこには、セラピムとケルビムが存在しています。天使達は主の周りを囲んでいます。しかし、キリストは彼らを後ろに下がるように合図しています。彼は自分の父の臨在の中に入っています。彼は、切り札が音を立てる時(When the trump shall sound.)、やがて彼らの墓から出てくる死のとりこの人々を代表して、彼と一緒によみがえったこれらの人々――揺り動かす穀物の束――自分自身のこの対型による自分の勝利を指し示しています。彼はその父に近づいて行きます。悔い改めている罪びとの一人にさえ、天に喜びがあるならば、また、その父が、その一人にさえも歌うのを喜んでいるならば、この場面を想像してください。キリストはこう言っています。父よ、終わりました。私は汝の意思を行ないました。我が神よ。私は贖いの働きを完了しました。汝の正義が全うされているならば、「汝が、私に与えた人々が、私のいる所に一緒にいるようにと、私は望みます」(ヨハネ1724 KJV)。そして、神の声が聞こえました。正義は全うされました。サタンは打ち負かされました。「慈しみと真理は共に出会い、義と平和は互いにキスしました」(詩編8510 KJV)。その父の両腕が息子を抱きしめます。そして、主の声が聞こえます。「神の天使達はみな神を拝しましょう」(へブライ1:6 KJV)。


 

46章 キリスト、私達の罪を負う神性

 

 

 

 

 

1.罪を負う神性 [22]

 不従順によって、アダムは罪に陥りました。神の律法は破られました。神性の統治は尊敬されなくなり、そして、正義は、違反の罰が与えられることを求めました。

 永遠の死から人類を救うために、神の息子は不従順の刑罰を負うことを自発的に引き受けました。天の君の恥は唯一、その不敬を取り除くことができて、正義が全うされ、人間が喪失していたそれ[正義]が回復されるでしょう。そこにはそれ以外の方法はありませんでした。そのために、この地上に来る一人の天使は、アダムがつまずいて罪に陥った根源を通り抜けることに満足しなかったでしょう。これ[その根源]は、罪の一つの染みも取り除かなかったし、あるいは、試験期間の一時も人間にもたらさなかったでしょう (could notor brought to man one hour of probation.)

 神と同等、父の「栄光、神の神格の像(かたち)imageの現れ」の輝きとしてのキリストは、人間性と神性をまとっていて、そして、罪びと達のために苦難を受けて死ぬためにこの地上にやって来ました。神のひとり息子は、自ら身を低くして、十字架の死でさえも、死に従順になりました。罪の呪いを自分の体に負うことによって、彼は、全ての人が届くところに不死と幸福を置きました。

 天の全ての者達の尊敬を受けていた方Oneは、全ての人々が神の戒めに従順な人生の小道を歩むように、提供されていた神性の助けを通して、罪に陥っていない世界の住民達と罪に陥った天使達に証をし、人間性の長として人間の性質をもって立つためにこの世界にやって来ました。神の息子は、彼の愛を求めなかった人々のためにも死にました。私達のために、彼は、サタンが彼に反逆をもたらすことが可能な全てを耐え忍びました。

 人間が理解するにはあまりにも素晴らしすぎるほどに、素晴らしいことは、聖所を象徴する全ての奉仕の中の過去の全ての犠牲の中の影となった、私達の味方/益としての救い主の犠牲です。主の犠牲が私達の永遠の福祉(最良の状態)well-beingの確保のために必要でした。私達の心は感動して優しくなりました。神の聖なる律法を高貴にするよう一致させ、神の正義の求めに合致する方法として、彼は、自ら、私達の十分な救いを達成することを堅く約束しました。

 天の律法に従順になり、人々の贖いとして救世主を引き受け――たとえ、最も罪深く品位を落としたとしても――全ての人を清める効き目のある一つの犠牲を捧げた天の父のひとり息子以上に聖なる人はいません。また、神の好意によって、人間を回復した人はいないでしょう。

  No one less holy than the Only Begotten of the Father, could have offered a sacrifice that would be efficacious to cleans all---even the most sinful and degraded---who accept the Savior as their atonement and become obedient to Haven's law. Nothing less could have reinstated man in God's favor.)

 かの敵の手からとりこを取り戻すために、キリストはどんな権利を持っていましたか。持っていたその権利は、天の王国が支配されているものによる正義の原則に合致させる一つの犠牲を作りました。彼は、人々の救い主として彼を受け入れる全ての人々を救うために、また、彼の権利への不動の忠誠により、ずるい敵を征服するために、失われた人類を救う者としてこの地上に来ました。カルバリーの十字架上で、彼は、人類の贖いの代価としての犠牲を払いました。このように、永遠の王国、神の栄誉市民として忠誠を呼び掛ける全ての主張を犠牲にして、そして、彼は、だます者が神の統治に反逆して組み立てた一つの嘘――人間が罪に陥った原因となった――によって、捕えられているとりこ達を取り返す権利を得ました。

 私達の身代金は、私達の救い主によって払われました。サタンによって奴隷にされる必要のある人は一人もいません。キリストは、私達の全てにおいて力強い助け主として私達の前に立っています。「人々の罪のための和解を成し遂げるために、彼は、神に関連する事柄に忠実な大祭司、慈悲深い者になって、全ての事柄において兄弟達のようになることが、彼にとって相応しい事でした。彼は試練を受けて苦しんだので、試練を受けている人々を助けることができます」(ヘブライ2:17,18 KJV)。

 「彼は、自分の所に来たのに、自分の民は彼を受け入れませんでした。しかし、彼を受け入れ、彼の名を信じた多くの人々に、彼は神の息子達になる力を与えました。……そして、言葉は肉体となって、私達の間に住みました。……恵みと真理に満ちて、……そして、私達は、彼の満ちているものから多くの恵みを受けました」(ヨハネ1:16,17 KJV)。

 神の家族に繫がっているこれらの人々は、主の霊/精神His Spiritによって[人格を]形成されています。自分を極端に愛し、自分をわがままにすることは、自己を否定し、神を最高に愛するように変えられています。生得権として聖化を相続している人はいないだけではなく、神に忠実になって工夫できるどんな方法によっても相続できる人はいないでしょう。キリストはこう言いました。「私がいなければ、あなた方は[神性に関して]何もすることができません」(ヨハネ15:5 KJV)。人間の義は「汚れた布切れのよう」です。しかし、全ての事柄が神と共に存在することが可能です。贖い主の力によって、弱くて間違う人間が、悪を乗り切って、勝利者になることができます。


 

47章 キリスト、私達の罪を負う神性

 

 

 

 

 

1.イエスの中に存在している真理 [23]

 罪びと達のためにそのひとり子を与えた時、神は、人間にほかに類似したものがない愛を現しました。私達は「神は愛です」(1ヨハネ48)と言っている御言葉に完全な信仰を持っています。また、多くの人々は恥ずかしいことにこの言葉を曲解してきました。そして、その意味を間違って解釈しているので、危険な間違いに陥っています。神の聖なる律法は、私達が神性の思いを測り知れる唯一の標準です。私達が、自分達の標準として神の律法を受け入れないならば、私達は自分自身の標準を主張しています。神は、私達に、神の愛の貴い約束を与えました。しかし、私達は、不正に片目をつむって、罪悪感を打ち消すように主に仕向けて、それが主ヤハウェ(hwhy)の優しさに帰するものと考えるように存在しているのではありません。

 創造主は、その造られたもの達を愛しています。しかし、義よりも多く罪を、真理よりも多く間違いを愛している人間は、私達の世界に苦悩をもたらした違反の罪を続けていて、真理の神が、好意をもって見ることができません。真理と義への道は、一つの十字架を必然的に含んでいます。多くの人々は、神の求めを誤解していて、自分達の良心を悩ませないように、また、自分達の用向き関係で、自分達に面倒にならないように、自分達で何らかの意味を作り出しています。しかし、真理は、仲保者による清めだけに存在しています。

 イエスに現された神の愛は、神の品性の真の概念へと、私達を導いているでしょう。私達の罪のために刺されたキリストを見上げた時、私達は、彼の好意に黙っていることも、神の律法を破ることもできないことを見るでしょう。私達は、罪びととして、キリストの功績を手に入れ、罪をやめる必要があると考えましょう。その時に、私達は、神を近くに引き寄せています(we are drawing nigh to God.)。私達が、神の愛についての正しい見方を持つとすぐに、私達はそれ[]を乱用する傾向を持たなくなるでしょう。

 キリストの十字架は、神の律法の不変性を証していて、神は私達の罪のために死ぬよう自分の息子を与えたこと、神は私達をとても愛したことを証ししています。しかし、キリストは、律法を廃棄するために来たのではなく、それを成就するために来ました。神の道徳的標準の一点も一画も、罪に陥った人間の状態に合わせて変えることはできないでしょう。イエスは、彼自身の義が罪びとの悔い改めに帰したものとして死にました。そして、律法を守ることを人間に可能にしました。

 神の愛は果てしなく無限です。そして、また、罪びとは、神の息子の死と、不名誉と叱責と恥を巻き込んだ贖いの計画を通した救いを忘れられないでしょう。この事実は、彼の死は神の律法への従順の終わりとして、聖化を主張する多くの人々によって、優れたアイデアを知性の推論から取り除くでしょう。私達は、キリストの学校で、贖いの偉大な計画を日々に学ぶために存在しています。私達は、学びをやめる時に、キリストの学校の生徒達であることをやめるでしょう。しかし、私達が、神性の教師のもとの学生達であるならば、私達の理解は開かれ始めるでしょう。そして、私達は、神の律法から素晴らしい事柄を学ぶ必要があります。

 私達は、主の前を注意深く歩みましょう。私達は、どれほど何回も、自分でたてた誓いを破り、自分の最善の解決策を損なったか、また、どれほど何回も、偉大な光に相対して、神から離れて自分のアイドル/偶像を求めたかを考えましょう。力強い神の手のもとで自分を謙虚にすることは、私達にとても相応しいことです。

 

 

2.クリスチャン経験によって成熟する

 私達が考えて当然なこと以上に、自分自身のことについてもっと深く考えることは、私達にとって自然なことです。私達が現実に存在しているように自分自身を知ることは私達にとって辛いことですが、私達は、神が私達を見ている時に、自分自身を自分に明らかに示すように神に祈る必要があります。しかし、私達は、自分自身を明らかに示すようにと単純に求めた時の祈ることをやめてはいけないでしょう。私達は、イエスが罪を許す救い主として、私達に明らかに示されるようにと祈る必要があります。私達が、イエスが存在しているように彼を見る時に、熱心な祈りは、私心から抜け出せるように、私達の心を目覚めさせるでしょう。私達はキリストの豊かさに満たされるでしょう。それが私達の体験に存在する時、私達は、ほかの人に良いことをして、そして、信心深さに達して、私達が到達した手段をみな利用するでしょう。私達は、神を畏れることによって完全な聖化と、そして、その身体と精神の全ての汚れから自分の魂を洗い清める必要があります。

 聖なる神の愛は、私達の試練と[1844年からキリストの至聖所での]調査期間という時の間の私達の味方として、全世界の人々を奮起させることができる驚くべき素晴らしい原則です。しかし、私達の調査期間の時期の後で、私達が神の律法の違反者として発見されるならば、愛の神は、正義達成のための復讐の働き人 [によって]見いだされるでしょう。神は、罪と妥協をしていません。その不従順は罰せられるでしょう。神の怒りは、律法の違反者の位置にいて、カルバリーの十字架の上にかかっているキリストのように、神の愛する息子の上に降りかかりました。神の愛は、今も、悔い改めてキリストに行こうとする、取るに足らない罪びと、最も低い人々を抱きしめるために届いています。それ[神の愛]は、罪びとを従順で忠実な神の子どもに形成するために届いています。しかし、その人が罪の中にい続けるならば、その魂が救われることは不可能です。

 罪は、神の律法の違反です。神性の寛容の限界という、違反者がその拘束力を逃れる時に、今も救うための強い力である腕/権力は、罰することにも強いでしょう。その人は自分の行動を非難されないようにせず、真理であるものを見つけようとせず、御言葉を調べようとしない人、命を求めることを拒む人は、サタンのだましと、知性の盲目の闇/無知に取り残されるでしょう。悔い改めて従順な人は神の愛によって守られている度合いに応じた結果を、[その反対の]悔い改めておらず不従順な人は心が堅く自分自身の怠慢という結果を残すでしょう。なぜなら、その人々は、自分達が救われることのできる真理の愛を受け入れなかったからです。

 キリストを信じていると告白している多くの人々がいます。しかし、その人々は、全く、成熟したクリスチャンになっていません。その人々は、人間が罪に陥っている、人間の能力が弱くなっている、人間は達成すべき道徳に合致していないことなどを認めています。しかし、その人々は、キリストが全ての重荷、全ての苦難、全ての自己否定を担った、と言って、それを彼に負わせようとしています。その人々は、自分達のためにすることは何もなく、ただ、信じることをすればいい、と言っています。しかし、キリストはこう言いました。「誰かが、私の後についてくるならば、その人には自分を否定してもらいましょう。そして、自分の十字架を負って、そして、私についてきてください」(マタイ16:24 KJV)。イエスは神の戒めを守りました。ファリサイ派の人々は、彼が、安息日に、僅かしか[動かない]男の人を全面的に健康にしたので、4番目の戒めを破ったと主張しました。しかし、イエスは、非難するファリサイ派の人々に向かって尋ねました。「安息日に良いことをするのと悪いことをするのでは、また、命を救うこととそれを殺すことと、どちらが律法に適っていますか。そして、彼らをみな見まわして、その男の人に言いました。汝の手を前に伸ばしなさい。すると、彼はそのようにしました。彼の手は、ほかの人の手のように健康が回復されました。彼らは頭にきてしまいました。そして、自分達がイエスにすることができるかもしれないことを互いに話し合いました」(ルカ6:9-11 KJV)。

 この奇跡は、パリサイ派の人々が、イエスは神の息子だったということを確信させるのではなく、彼らに激しい怒りを満たしました。なぜなら、多くの人々がその奇跡を通して神の栄光を目撃したからです。イエスは、自分の思いやりのある働きは安息日の律法 [の精神] に適っていた、と主張しました。パリサイ派の人々は、それは律法に適っていない、と主張しました。私達はどちらを信じたらいいのでしょうか。キリストは言いました。「私は自分の父の戒めを守りました。そして、父の愛に留まっています」(ヨハネ15:10 KJV)。キリストの歩む道について行き、そして、その戒めを守ることは私達にとって、確かに安全です。神は、私達に、畏れ身震いして自分自身の救いを達成するように、イエスと共同して常に行動しうるように、様々な能力を与えました。なぜなら、希望を持つように、神が喜ぶ良いことをするように、私達の中で働いているのは神だからです。

 

3.止まらないで、前進

 私達は、決して、満足した状態で休むために存在しているのではなく、「私は救われています」と言って、前進を止めるために存在しているのでもありません。この考え方が好意的に受け入れられる時、高きに到達することと前進を後押しする熱心な努力と祈りと用心深さの動機は、存在することを止めます。清められた舌/口は、キリストがやがて来るまでにそれらの言葉を発することは見られなくなるでしょう。そして、私達は、神の都の中に門を通って入ります。それから、最高の礼儀作法によって、永遠の救出のために、子羊と神の栄光を称えるでしょう。人間が弱さに満たされている限り、自分の魂を自分自身で救うことができないので、人は「私は救われています」と、公然と、決して言うべきではありません。

 人は勝利の獲得と、戦いのための格闘をしているので、勝利を宣言することができるのは鎧兜をつけている人ではありません。終わりまで耐え忍び、やがて救われるのは人です。主は言っています。「誰でも後退するならば、私の魂は彼を喜ばないでしょう」(ヘブライ10:38)。私達が勝利から勝利へと前進しないならば、その魂は永遠の滅びへと後退しているでしょう。私達は、品性を測ることに呼応して人間の標準ではないものを掲げる必要があります。私達は、人間が現世のもとで完全と呼んでいるものを充分に見てきました。神の聖なる律法は、私達が主の道を守っているか、そうでないかを決定することができる唯一の事柄です。私達が不従順な者であるならば、私達の品性は神の統治の道徳的ルールとの調和の外にあります。そして、それは「私は救われています」という嘘を言っています。救われていない人は、地と天における統治の基礎である、神の律法の違反者の一人です。

 神の律法はもはや人類家族を縛っていない、と講壇で、自分達の宗教の教師達の言葉をこだまさせて、かの敵の層の人々に繫がって無知な人々が、神の言葉による根拠を受け入れるならば、自分達の間違いを発見するための光/知識を持てるでしょう。イエスは、日中には雲の柱、夜には火の柱で包まれたその天使です。そして、明けの明星が共に歌い、神の子達が喜びの声をあげた時、また、地の基が置かれた時に与えられた神の律法を、ヘブライ人達は教える必要がある、という特別な指導をイエスは与えました。

 同じ律法がシナイの山から神自身の声によって厳粛に宣言されました。彼はこう言いました。「そして、私がこの日、汝らに命じたそれらの言葉は、そち達の心の中にあるでしょう。また、汝らはその子ども達にそれらの知識を教えるでしょう。また、汝がそちの家に座っている時に、また、汝が道を歩いている時、また、汝が起き上がる時に、それらについて語るでしょう。また、汝は、そちの手にしるしとしてそれらを結ぶでしょう。そして、それらは、目の間の飾りバンドとしてあるでしょう」(申命記6:6-8 KJV)。神の律法が読み上げられた時、神の律法の違反者がどれほど待ち遠しく思うようになっても、彼らはそれが語ったことに葛藤が起きました。

 神の言葉は、嘘と言い伝えによって、成果を何も作り出せませんでした。サタンは、世界の人々に神の律法に関する自分の異説版を表しました。そして、それは、明白な「主はこのように言っています」という言葉の前で受け入れられました。神の律法をめぐって天で始まったこの闘いは、サタンの天からの追放以来、この地上でも続けられました。

 私達は、ほかの人々に主を知らせるために、また、自分達の救い主を認識するために、常に自分達の大きな必要を学ぶことが不可欠です。私達は、私達を引き上げるために降ろされている特別な長い鎖によってのみ、自分達の罪の深さを学ぶことが可能です。私達は、罪が私達にもたらす恐ろしい身の破滅を理解するような課題に知的な力を向ける必要があります。また、私達に神の好意が回復されるように、神性の計画を理解するよう求める必要があります。その神が愛する息子は、私達が思い上がった心をいつも謙虚にするように、私達が彼の名によって勝者となるために力を持てるように、私達のために、私達の闘いを闘うために、私達の世界にやって来る必要があるでしょう。私達がカルバリーの丘の十字架を見ているならば、あらゆる自慢は、私達の口で死ぬでしょう。そして、私達は叫ぶでしょう。「私の贖いのために支払われたそのような高価な値に属するほどに、そのような偉大な犠牲に属する価値がありません。清くありません」。

 無知とうぬぼれは密接な関連を持って進んで行きます。神の律法は私達の品行を調整するために与えられて、それは、それ自身の原則の影響を広めています。そこでは、律法の有罪判決を逃れる罪はなく、不義の働きもありません。偉大な成文法の書は真理です。また、唯一の真理です。なぜなら、それは、サタンのだましの歴史と、彼に追随する者達の滅びを的確に間違いなく輪郭を描写しているからです。サタンは、神の成文法と裁き以上に、良い法lawsを表すことができると主張しましたが、天から追放されました。彼は地上でも同じような企てをしました。彼は、打ちのめされ、天から追い出されたので、神に復讐しようとして、堕落して以来ずっとこの世界の人々をだますため、人々を滅びに導くために全力を尽くしてきました。神が存在しているべき所で、彼が自分に課した努力と方策はほとんどやり抜き続けました。彼は、自分の罠の中に世界中の人々をとりこにして手に入れました。そして、神の大勢の人々()でさえも、彼の方策に無知です。そして、彼は魂達の滅びの働きを求めていて、人々は彼に多くの機会を与えました。人々は、イエスを掲げるための燃えるような熱意を現していません。そして、滅びていく群衆に布告しました(Thy do not manifest a burning zeal to lift up Jesus, and proclaim to the perishing multitudes,)。「世界中の人々の罪を取り除く、神の子羊を見上げなさい」(ヨハネ1:29)。

 神の統治の律法の多くを説明された時に、それを詳しく説明されない人々は、それがイエスの中にある真理として詳しく知らされていません。キリストは、その律法の原則を遠くの人々に届くように明らかにしました。彼は全ての指針を詳しく説明しました。そして、自分の手本によって全ての求めを示して見せました。彼は、それがその律法の中に存在しているように、その真理を知っていて、それがイエスの中に存在しているようにその真理を知っていました。そして、キリストの中の信仰を通して、人が、神の戒めに従順を表すならば、その人の命は神の中のキリストに隠されています。

 神の律法を主張する知識は、そこに人間に提供された救い主がいなかったならば、その魂の希望の最後の閃光でしょう。しかし、その真理は、それがイエスの中に存在しているように、それは、命から命へ至る一つの味わい/名声です。サタンが、人間に神の聖なる律法を破るための自由が存在しているかもしれないと信じさせようと試みている時に、神の愛する息子は、その自由は人間に存在するのではない、また、自分自身の義を人間に与えることができるかもしれない、として死にましたGod's dear Son died that He might impute unto man His own righteousness, and not that he might be at liberty to break God's law, as Satan tries to make men believe.)。キリストの中の信仰を通して、人間は悪に抵抗するための道徳的な力の潜在能力が存在しているでしょう。

 

4.生涯の働きとしての聖化

 聖化の働きは一生涯の働きです。それは、継続されていく必要があります。しかし、その真理の何かの部分において、その光が拒まれたり疎かにされたりすると、この働きは心の中に入って行くことができません。聖化された魂は、無知の中に置き去りにされることを納得しないで、光/知識の中を歩み、より大きな光/知識を求めるように希望を抱くでしょう。鉱夫が金や銀を掘り出すように、キリストに追随する人は隠れた宝を探すように真理を求めるでしょう。そして、常に知識を増して [小さい]光を大きい光の方に寄せるでしょうand will press from light to a greater light.。その人は、真理の知識と恵みのうちに成長を続けるでしょう。利己心は克服される必要があります。品性の全ての欠点は、神の大きな鏡/手本で識別される必要があります。私達は、神の品性の標準で有罪宣告されるかどうかを見つけるでしょう。

 もしも、私達が有罪宣告されるならば、そこには、あなたにとって追跡の道があるだけです。あなたは、神の律法の違反のゆえに、唯一、罪から清めることができる私達の主イエスキリストに向けた信仰を持って、神に向かって悔い改める必要があります。私達が天を手に入れようとするならば、神の聖なる求めに従順になる必要があります。これらの法にかなった努力をしている人々は、無益な努力とはならないでしょう。イエスの中に真理があるように、唯一、それを信じる時、そして、あなたは、闇の勢力と戦うために力づけられるでしょう。旧式[の方法]で取り組む人々は滅びる冠を得るために全力で努力しています。私達は、色があせない冠を勝ち取るために努力しないのですか。

 サタンの全ての技術と方策は、私達の滅びを成し遂げるために利用されるでしょう。もしも、あなたが気楽さを愛する人と座っていて、「私は救われています」という言葉を口にしていて、神の戒めを考えないならば、あなたは永遠に失われるでしょう。イエスの中に真理があって、気楽さを愛し何もしない人々には、それは恐ろしいものです。イエスの中には真理があって、それは、従順への落ち着きのある喜びに満ちています。それは聖霊に属する喜びです。それから、知性と心を開くために確信してください。あなたは、神の玉座から輝き出るあらゆる光の筋を見ることができるでしょう。

 無関心や呑気、娯楽を愛するための時間がありません。キリストは力と大いなる栄光のうちにやって来ます。あなたは準備ができていますか。あなたは自分の罪をやめていますか。あなたは、キリストの祈りに応えて、真理を通して聖化されるようになっていますか。彼は自分の弟子達について祈りました。「そなたの真理を通して彼らを清めてください。そなたの言葉は真理です」(ヨハネ17:17 KJV)。

 親達は、神の意思を行なうための愛を彼らに教えて、主の助言と養育の中でその子ども達を育てる必要があります。若い人の敬神pietyを有利にして過大評価することは、私達には不可能です。若い人が受けたその感銘は、永遠 [の世界に向かって]耐え抜く多くの人々のために存在しています。魂の銘板に最も簡潔に刻銘された神の戒めと成文法は若い人の中に存在しています。[しかし]、子ども達の指導は大幅に疎かにされました。キリストの義は、それが存在していたようには、彼らに表されませんでした。

 永遠[の生命]に品性を完全に合致できるように、[1844年からキリストの至聖所での]調査期間という時が私達に与えられています。神の意思を証明する品性を発達できるように、子ども達が教育と訓練のために親達の両手の中にいるという思想は、なんと厳粛なことでしょう。さもないと、サタンとその天使達の品性は、彼ら[親達]が選んでいるように、もてあそぶことが可能です。イエスは、雲の柱・火の柱から語りました。神の戒めに関して子ども達を知的に指導するよう神の民に指示しました。誰が、この指導に従いますか。神の意思を証明するように自分の子ども達を育てようとしている人は誰ですか。神に属している、子ども達の賜物と才能の全てについて、また、主への奉仕に全的な献身をするようにその思想を知性に持ち続けている人は誰ですか。ハンナは、サムエルを主に[預けることを]決めました。そして、彼[サムエル]の幼い時から若い時に、神は自分自身を彼に明示しました。私達はもっと自分の子ども達や若い人々のために精を出して取り組む必要があります。なぜなら、神は、間違いと迷信の闇と無知の中にいる人々のために、外国にいる人々のために、やがて、その真理の教えと、主の名によって偉大なことをするように、彼ら彼女らを受け入れるからです。あなたが自分の子ども達に、自分本位でしたいようにさせておいて、わがままにさせるならば、また、あなたが子ども達にドレスを愛するように奨励するならば、また、虚栄心とプライド (うぬぼれが混じった自尊心)を成長発達させるならば、あなたは、子ども達の贖いのための無限の代価を払ったイエスが、やがて、失望するような働きをしているでしょう。彼は、愛情が二つのことに分かれていない状態で、子ども達が自分に奉仕するように期待しています。

 親御さん方、あなた方がイエスのためにする大きな働きがあります。彼は、あなた方のためにあらゆることを行ないました。あなた方のガイド(案内)、ヘルパー(助け手)として、彼を選んでください。神はみなさんに、彼が与えて当然の――神のひとり息子、最大の贈り物を与えずに留め置きません。子ども達と若い人達は、やって来るイエスを妨げられる必要がありません。サタンは、子ども達を自分に針金のようなもので縛り付けようとしていますが、みなさん方は、確固とした個人的な努力を通してだけ、子ども達をイエスに連れて行って成功を成し遂げることができるに違いありません。子ども達と若い人達は、この教会の希望[の星]なので、もっと熱心に精を出した取り組みlaborを受ける必要があります。ヨセフとダニエルとその仲間達、サムエルとダビデ、ヨハネとテモテらは、「主を畏れることは知恵の始まりである」(箴言910)という事実の証の模範として輝いています。

 私達は、もっと、確固とした努力をして熱心になる必要があります。私達が主イエスを持っているならば、彼はカウンセラー・ヘルパーとして私達に留まるでしょう。カルバリーの神の息子から輝き出ている光は、さ迷っている人々をみな、心の安らぐ場所にhomeに導きうるでしょう。そこには、特別な品性を形成し、その心を清めるための主の力があります。真のクリスチャンはみな、イエスの素晴らしい愛を彼らの前に表して、子ども達と若い人達のために働きましょう。やがて、特別な呼び物[再臨]attractionsが覆い隠され、世界中のだまされている人々から力が奪われる時、その人々は、不従順な人生の小道によっては、有利な立場[救い]を得られないことを見て知るでしょう。

 

(訳者加筆。この「attraction呼び物」は、『キリストへの道』9章にある「私達は、やがて来る世界のまだ見ていない現実とキリストの呼び物attraction [再臨]に、彼らが居合わせるように努めるでしょう」(髙谷訳)と同じ意味です。そこには、「呼び物」の前に「キリストの」があるので、それは「再臨」を意味しています。E.ホワイトは『キリストへの道』を一般の人々に向けて書いたので、「再臨」などの言葉の使用を避けていました)


 

48章 キリスト、私達の罪を負う神性

 

 

 

 

 

1.神性の標準 [24]

 神の戒めは、理解されるもので、遠くに伝えられています。いくつかの言葉は、人間の全体の義務として徐々に開かれています。「汝らは、汝の神、主を、心を尽くして、汝らの魂の全てで、汝らの知性の全てで、そして、汝らの全ての力で愛するでしょう。……汝らは、自分自身のように、汝の隣人を愛するでしょう」(マルコ1230,31 KJV)。それらの、高さと深さ、広さと長さの言葉の中に、神の律法が理解されています。パウロは、「愛は、律法の目的を果たすものです」(ローマ1310)と言っています。その定義づけだけによって、私達は、聖書の中から「罪は神の律法の違反です」(1ヨハネ3:4)を見つけ出しています。神の言葉は宣言しています。「全ての人は罪を犯したので、神の栄光に達することができません」(ローマ323)。「善を為す者はいません。ええ、ひとりもいません」(ローマ312)。多くの人々は、その心の状態に関わることをだまされています。その人々は、生まれつきの心が全てのことについてだまされていて、酷く悪くなっていることに気づいていません。その人々は、自分自身の義で自分を覆い隠し、品性について自分自身の人間の標準に届くことで満足しています。しかし、なんと不運にも、その人々は、神性の標準に届くことをしないように、しくじっています。そして、自分自身について、その人々は神の求めに向き合うことができていません。

 私達は、自分自身で自分自身を測ることができるでしょう。私達は、自分達自身の間で自分達を比べることができるでしょう。私達は、この人やあの人と同じようなことをすることができると言うことができるでしょう。しかし、その評価が求めている質問の答えは、私達が天の高い求めに合っているでしょうか。私達は神性の標準に届いているでしょうか。私達の心は、天の神と調和しているでしょうか。

 人類家族はみな、神の律法に違反しました。そして、人は、何かの良いことをする力なく、神の敵なので、その律法の違反者として、人間はどうしようもなく滅んでいます。「身体的な知性は神に敵対しています。それは、神の律法に従わない、確かに従うことができません」(ローマ87)。道徳的な鏡――神の聖なる律法――の中をのぞいてください。人は、その律法の正当な罰のもとに望みのない宿命と悪い状態の自分を確信させられて、そして、ひとりの罪びと、自分を見ています。しかし、人は、罪が突き刺した望みのない苦悩の状態で放置されていませんでした。神と等しかった彼がカルバリーで彼の命を捧げたということは、滅びから違反した罪びとを救うために存在していました。「神はこの世界の人々をとても愛したので、神はそのひとり子を与えました。彼を信じている人は誰も滅びることなく、永遠の命を持っているでしょう」(ヨハネ3:16 KJV)。

 

2.私達の贖いの犠牲

 イエスは、天の権威者、天使達の最愛の指揮者、主の喜びをなす歓喜でした。彼は「父の胸の中で」(ヨハネ118)神と一つでした。また、彼は、みじめで罪の中に失われた人間だった間、神と同等だという希望を持てない任務だと考えました。彼は、自分の玉座から、歩いて降りました。彼は、威厳のある王位と王冠を取り去り、そして、自分の神性に人間性をまといました。彼は、十字架の死に至るまで、自分自身の身を低くしました。人間は彼の玉座のうえで彼と共に座に着くように高められる可能性があります。彼によって、私達は、完全な捧げ物、限りない犠牲、威厳ある救い主を持っています。救い主は、彼によって神に行く全ての人々を最高に救うことができます。彼は、愛によって、天の父を明らかに示して、人間を神に和解させ、人間を創造した神のかたちに似せて人間を新たに再創造するために来ています。

 イエスは、私達の贖いの犠牲です。私達は、自分自身のための贖いをつくることができません。しかし、信仰によって、私達は、すでにつくられたその贖いを受け入れることが可能です。「キリストは、その正しい者が正しくない者のために、罪びと達のために一度、犠牲を捧げたので、彼は私達を神のもとに連れて行くことができるでしょう」(1ペテロ318 KJV)。「汝らは、賄賂の効くものによって贖われたのではありません。……、そうではなく、染みもなく傷もない子羊、キリストの貴い血によって[贖われ]ました」(1ペテロ318,19 KJV)。私達の贖い主が私達の到達範囲内に位置づけた贖いは、言葉では言い表せない苦悩と無限の犠牲を通したものでした。彼は、この世界の人々には知られず尊敬されませんでしたが、彼の不思議な謙虚さと恥を通して、天の法廷で不朽の歓喜と永遠の栄誉を受けるように人間を高めることができるでしょう。彼の地上生活での30年の間、彼の心は想像もできないほどの苦悶に縛られていました。飼い葉桶からカルバリーまでの道は、悲しみと悲嘆の影によって覆われていました。彼は、人間の言葉では表現できないような心に触れて、辛抱強く、深い悲しみを熟知した、悲しみの人でした。彼は、真理を語ったことでしょう。「見てください。私の悲しみと同じように、どんな悲しみがあるかを見てください」(哀歌1:12)。完全な憎しみによって、罪を憎んでください。彼はまた、世界中の罪びと達から、彼の魂を呼び集めました。罪のない潔白な彼は、罪の責任の罰を負いました。無垢な彼は、また、律法の違反者の身代わりとして自分自身を捧げています。全ての罪びとの罪責は、世界の贖い主の神性の魂のうえに重圧となりました。彼は人間の身代わりになったので、アダムの全ての息子娘の悪い行動、悪い言葉、悪い考えは、主自身に天罰を呼びました。罪の責任は彼には存在しなかったことによって、また、人々の律法違反によって、彼の精神は、引き裂かれ、傷つけられました。そして、罪を知らない彼が、私達のために罪となり、それによって、私達は、彼によって神の義がつくられるでしょう。

 自発的に、私達の神聖な身代わりは、正義の剣に自分の魂を差し出しました。それによって、私達は滅びないで永遠の命を持てるでしょう。キリストは言いました。「私は再び自分の命を受ける力を持っているので、それを捨てます。誰も私からそれを取る人はいません。しかし、私はそれを自分で捨てます。私はそれを捨てる力があり、また、私はそれを再び得る力を持っています」(ヨハネ10:17,18 KJV)。地上の人間や天の使い達は、罪のための刑罰を払うことができませんでした。イエスは、反抗的な人間を救うことができる唯一の人でした。彼の中の神性と人間性は結合させられ、そして、これは、カルバリーの十字架上の供え物に美点を与えるものでした。十字架において、憐れみと真理は共に出合い、義と平和は互いにキスしました。

 罪びとが、カルバリーで死んでいく救い主を見ている時、また、苦しんでいるのは神性であることに気づく時、その人は、なぜこの偉大な犠牲がつくられたのかを尋ねています。その十字架は、違反がなされた神の律法を指し示しています。キリストの死は、神の律法の不変性と義へ反論の余地のない論拠の一つです。キリストについての預言で、イザヤは「彼は、神の律法を拡大して見せて、そして、それを尊敬できるものにするでしょう」(イザヤ4221 KJV)と言っています。その律法は悪をなす者を許す力持っていません。その務めはその人の欠如を指し示すことです。その人は、自分の義、自分の確信、自分の身代わりになる御方の自分の必要と、救いのための大いなる力を持つ御方を必要としていることに気づくことでしょう。イエスは、律法の違反者の罪を自分が負ったので、その罪びとの必要に立ち向かっています。「彼は、私達の違反の罪のために傷つけられました。彼は、私達の罪責のために打傷を負いました。私達の平穏のための体罰が彼にありました。彼のムチ後の傷によって、私達は癒されています」(イザヤ53:5 KJV)。その主は、罪びとを切り捨てて、完全に滅ぼすこともできたことでしょう。しかし、最も負担の大きい計画が選択されました。彼の大いなる愛によって、世界の人々の罪を負うために神のひとり息子を与えて、彼は希望を失っている人々のために希望を提供しています。神は、一つの豊かな贈り物によって、天の全てを注ぎだして以来、キリストの継承者に繫がって神の継承者になる[ために]、救いの杯を差し出しても、助けを必要としない人間 [にその杯]を与えずにいるでしょう。

 

3.神の愛の啓示

 キリストは、自分に全ての人々の心を引き寄せるために、また、世界の人々に神の愛を現すためにやって来ました。キリストは、「そして、私は、この地から引き上げられるならば、全ての人々を私に引き寄せるでしょう」(ヨハネ12:32)と言いました。救済が前進する第一段階は、キリストの愛への引き寄せに応答することにあります。神は、人々の悪口namesに反して寛容を文字で書いて、彼がそれを許すことが可能な悔い改めを請い、順次、人々にメッセージを送っています。そこでは、悔い改めは存在していないのでしょうか。彼のアピールは顧みられないのでしょうか。彼の思いやりの申し出は軽視され、そして、主の愛は完全に拒否されるのでしょうか。おお、その時、人間は、永遠の命を得ることができる仲保者を自分から切り捨てるでしょう。なぜなら、神は悔悟した人だけを赦すからです。彼の愛の現れによって、彼の霊の請いによって、彼は人々に悔い改めを懇願しています。なぜなら、悔い改めは神の贈り物で、彼は初めに悔悟者をつくって赦しているからです。そのやすらかな喜びは、神の律法の違反のために、罪びとの贖い者、擁護者としてのキリストを通して、神への真剣な悔い改めを通して人間にやって来ます。それ[安らかな喜び]は、人々が神の平安と赦しの喜びを理解できることと、キリストが自分の愛のあらわしを通して引き寄せていることでしょう。人々が彼の引き寄せに応答するならば、彼の恵みに人々が心を開くならば、彼は一歩一歩、彼自身の満ちた知識へと人々を導くでしょう。そして、これが永遠の命/人生です。

 キリストは、イスラエルに悔い改めと罪の赦免を与えて、罪びとに神の愛と正義を明らかにするために来ました。罪びとが、罪の刑罰を受けている、罪の違反の捧げ物、十字架上のイエスを見上げる時、また、罪を犯した人間のための神の愛、十字架の死の恐ろしい現れ、悪に対する神の嫌悪感を注視する時、人は、善と正義と聖である律法の違反のゆえに、神に向かって悔い改めに導かれています。神性の救い主が、その人の人生の中心に置かれている特別な人、擁護者、保証人、身代わりとなったので、彼はキリストの中の信仰を実践しています。その悔い改めている罪びとに、神は自分の思いやりと真理を示して、そして、自分の赦しと愛をその人に授けることができます。

 しかし、サタンは、それを妨害できる何かの手段によって、罪のとりこから逃すことを一人の魂にも許さないでしょう。全天は、一つの豊かな贈り物――「神が自分の息子を与えた時、天の中から選び抜いた贈り物を与えました。そして、天の宝物は私達の指揮者になっています」――を注ぎだしました。また、悔い改めている魂に、かの敵は、違反者を許す意思がなく厳格で冷酷な神を表そうとしているでしょう。別々の時に、複数の手紙が、自分達の罪をめぐって絶望していた人々から私の所に届きました。ある人やほかの人はこう書きました。「私には全く助けがないことを恐れていますI fear I am past all help.。私のために何かの希望はありませんか」。これらのかわいそうな魂達のメッセージにはこう送りました。「神に希望を抱いてください。天の父は十分なパンと蓄えを持っています。立ち上がって、あなたの父の所に行きましょう。彼は、遠くに離れていても、あなたに向き合うでしょう。彼は、あなたに愛と感動を与えるでしょう」。

 あなたの罪の考えを持ってあなたを苦しませようと、かの敵が洪水のようにやって来る時に、こう言いましょう。「私は罪びとであることを知っています。もしも、私がそうでなかったならば、私は救い主の所に行くことができないでしょう。主は‟私は義人を招くために来たのではありません。罪びと達を悔い改めにみちびくためにきました”」(マルコ217)と言っているからです。私は、キリストの所に行く資格を与えられた罪びとの一人です。私は、罪深く汚れていますが、彼は、死と恥に耐えました。そして、私に属している呪いを取り除きました。私は来ました。私は信じました。私は、彼の確かな約束を主張します。‟彼を信じる人は誰でも滅びないで、永遠の命を持つでしょう」(ヨハネ3:16)。

 そのような魂の悔悟を行なった一人の嘆願者は、見捨てられたでしょうか。いいえ、決して見捨てられませんでした。キリストの苦しみと死によって、彼の人間への無限の愛が証明されました。彼によって神に来る全ての人々を最大限に救うことができることを、彼は望んでいます。

 神に来て幼子のように、彼の足元で懇願するように自分自身を表現する時、彼はいつも私達の近くにいるので、私達は上にいる彼を地に連れてくる必要もなく、イエスを下に連れてこようとして天にのぼる必要がありません。彼はこう言っています。「見上げなさい。私は戸のそばに立って、ノックしています。誰かが私の声を聞いて、戸を開けるならば、私は、彼の[家の]中に入って、夕食を共にするでしょう。そして、その人は私と共にいるでしょう」(黙示録320)。私達が彼と共にいることを望むならば、キリストは、魂の宮の所有をとても望んでいます。彼は、心の戸をノックして待っているように表現されています。その時、彼はなぜ中に入れないのでしょうか。それは、罪への愛がその心の戸を閉じてしまったからです。私達が罪を放棄することと、私達の罪責を認識することに同意すると間もなく、その障壁は救い主とその魂との間から取り除かれます。


 

49章 キリスト、私達の罪を負う神性

 

 

 

 

 

1.明け渡しと信仰の表明[25]

 罪の悔い改めの時に、神の好意を得るための行ないをしようと考えて、また、私達の罪滅ぼしをするために自分に難行苦行を課して、[M.]ルター[1483-1546]が行なったように、私達は修道院の独居坊に行く必要はありません。その質問はこのように問いかけられています。「私は、自分の魂の罪のために自分の体の実、違反という罪のために私の初子を与えましょうか。主は汝に示しました。人よ、何が良い事ですか。主が汝に求めているものは何ですか。それは、正しいことを行なうこと、思いやりを持って愛すること、そして、汝の神と共に謙虚に歩むことです」(ミカ6:7,8 KJV)。詩編記者はこう言っています。「ああ神よ、砕かれて後悔した心を、汝は蔑んだりしないでしょう」(詩編51:17 KJV)。ヨハネはこのように書いています。「私達が自分達の罪を告白するならば、彼は、私達の罪を赦すことに、正しく忠実です」(1ヨハネ19)。私達が罪の赦免を持っていないという唯一の理由は、私達の違反の罪によって痛手を負った彼を認識していなかったということです。私達には、自分達の罪によって彼を刺し通したという欠陥があって、確かに、憐れみを必要としています。魂の深奥から注ぎ出されるその告白は、主が、後悔した魂の存在として救うその砕かれた心の人の近くにいるので、果てしない聖への心の道を発見することでしょう。

 その罪の告白を思い違いしている人々の間違いは、その人々の威厳を損なっていて、彼らに同行する人々の間の感化力も減っているでしょう。その人々の失敗を見ているにもかかわらず、この間違った考えに執着して、多くの人々はそれら[罪の告白]にしくじっています。しかしそれらの間違いによってある程度の時間を過ごしている人々は、ほかの人々に、自分自身のとても辛い思いをする生き方をしていて、そして、ほかの人々の生き方に影を投げかけています。あなたの罪を告白することは、あなたの威厳を損なわないでしょう。この間違った威厳を捨て去りましょう。特別な岩に打ち付け砕かれましょう。そうすると、キリストは、天の威厳と真理をあなたに与えるでしょう。プライド(自慢の混じった自尊心)ではなく、高すぎる自己評価でも、自己の義でもなく、自分の罪の告白から、主の約束を主張できるような[聖書の]誰かの言葉を守りましょう。「自分の罪を隠す人は、成長しないでしょう。しかし、それらを告白して縁を断つ人は、思いやりを持つでしょう」(箴言28:13 KJV)。あなた方のきょうだいに自分の落ち度を告白せずに怠っていると、神から戻ってこないことが続くでしょう。「あなた方の落ち度をお互いに告白し合い、そして、互いに祈りましょう。汝らは癒されるでしょう」(ヤコブ5:16 KJV)。罪の多くは、つまるところ[一日の終わりには]、罪びとに向き合わず、告白されずに残されています。贖いの犠牲があなたの味方/益として懇願している間に、今、あなたの罪に向かい合い、それらを告白し捨て去るために離れることが最善です。この問題において、神の意思を学ぶことにしくじらないようにしましょう。ほかの人々の救済とあなたの魂の健康は、この内容をたどるあなたのコースに依っています。「ですから、神の力強い手のもとで自分自身を謙虚にしましょう。それゆえ、彼はあなたをケアするので、彼にあなたのケアの全てを任せていて、適した時にあなたを高貴にできる神の力強い手のもとで、自分自身を謙虚にしましょう」(1ペテロ5:6,7)。この謙虚と砕かれた心はカルバリーの十字架と神の愛の何かを欲しくなることでしょう。神の好意にあずかる者となることができる者によって、その状況に合う人によって体験された祝福の多くのものがあるでしょう。

 

2.明け渡しのための呼びかけ

 私達は、自分の心を神に明け渡すために存在しています。神は私達を、天の法廷に合うように、清めて新しくすることができるでしょう。私達は、そのような特別な時を持つために存在しているのではありません。そうではなく、今日、罪に仕えることを拒んで、私達は彼に自分自身を預けるために存在しています。あなたはとがめられた事柄からすぐに離れましょう。彼は、苦悩と死によって、あなたの罪からの清めのための予見を持っていないのですか。私達が罪びとであること、打ち砕かれるために特別な岩の上に落ちているということに気づく時、特別な永遠の腕は私達の周りに置かれて、そして、私達はイエスの心の近くに連れて行かれます。その時、私達は、彼の気高さと美しさによって、魅了され、自分自身の義に愛想を尽くして、私達は、十字架のもとに近づいていく必要があります。もっと、私達はそこで自分自身を謙虚に、もっと高貴になれて、神の愛を表すでしょう。キリストの義と恵みは、自分を理性的に良いと考えている人、自分自身の状態と戦っている人、健全を感じている人達のために役立たないでしょう。神性の光と助けの必要に気付かない人の心の中にキリストのための部屋/余地はありません。

 イエスはこう言っています。「祝福された人は、精神の中に貧しさがあります。その人々は天の王国にいます」(マタイ5:3 KJV)。そこでは、神の恵みが満ちています。そして、私達は、彼の精神と力をたくさん持つことができます。自己の義という籾殻で養わないでください。そうではなく、主の所に行きましょう。主はあなたに着せるための最良の衣服を持っています。そして、彼の腕は、受け入れるために開かれています。彼はこう言うでしょう。「そのひとから汚れた服を脱がせてください。そして、その人に替えた服を着せましょう」。

 

3.悔い改めた罪びとの一人として

 私達は、清められたと感じるまで待っているのでしょうか。いいえ、キリストはこのように約束しました。私達が自分の罪を告白するならば、彼は、私達の罪を赦すこと、全ての不義から私達を清めることに、正しく、忠実です」(1ヨハネ1:9 KJV)。あなたは、神の言葉を通して、神に届いていることを証明されています。あなたは、神があなたの願いを聞いたと信じる前に、素晴らしい感動を持つために存在しているのではありません。なぜなら、感情は雲と同じように変化するものだからです。あなたは、信仰の基のための堅固なものを持つ必要があります。主の言葉は、あなたが信頼できる無限の力のある言葉です。主はこう言いました。「求めなさい。汝は受けるでしょう」。カルバリーを見上げてください。イエスは、私はあなたがたの擁護者だ、と言わなかったのですか。あなたは、キリストがあなたの罪を取り除いて、自分の義をあなたに与えることを信じて、義の太陽に頼りに行くために存在しています。

 あなたは、主が約束したように、主は正義をなすことを信じ、赦す父、恵みに満ちた神性の擁護者、イエスの名を通して、悔い改めている罪びとの一人として、神の所へいくために存在しています。神の祝福を期待している人々は、ノックして、そして、恵みの玉座からの確かな保証の声を待ちましょう。「汝のために」と彼は言いました。‟受けることを求める全ての人々のために、発見することを求める人、ノックする人のために、それは、開かれているでしょう”」。主は、全ての事をなすことができる彼を信じて、神を求めるこれらの人々を持てることを期待しています。

 私達がどんな準備をしているかを示すように求めている主は、一般的な場所と状況で、最も親密な利用の仕方によって、私達の求めを聞いて応えるために存在している神です。彼はこう言いました。「あなた方のうちで、子どもがパンを求めているのに、石を与える人がいますか。魚を求めているのにヘビを与える人がいますか。たとえ、汝らが、悪い者でも、あなた方の子どもらに、良い贈り物の与え方を知っているのだから、天にいるあなた方の父は、求める人々にどれほど多くの天の良い物を与えることでしょうか」(マタイ7:9-11 KJV)。キリストは、神に進んで助けを求めることについて、子孫たちへの親の自然な愛を主張して、私達にアピールしました。一体、どんな父親がパンを求める自分の子どもに背を向けるのでしょうか。神がその子らへの呼びかけに応答しないだろうと想像して、神に敬意を払う必要がないと考えるのは誰でしょうか。私達は、彼[子ども]に失望だけを期待させて、彼[子ども]をじらして、子どもと親のわずかな可能性を考えるのでしょうか。父親は、石を与える時に自分の子どもに養う食物と良い物を与えることを約束するのでしょうか。もしも、汝らが、人間であれ悪人であれ、あなた方の子どもらに良い贈り物を与えるのであれば、もっと多くのものを、あなた方の天の父は、彼に求める人々に良い物を与えるのでしょうか。主に求める人々に、主は聖霊を与えることを保証しています。

 罪びと達の信仰と悔い改めの表明において、キリストは自身の義を混ぜ合わせています。罪に落ちた人の祈りは、天の父の前に芳しい香のようにのぼって行き、そして、神の恵みが信じている魂に与えられるでしょう。イエスは、震えて悔い改めている魂に、語りかけています。「彼に私の力を定着させましょう。彼は私と平和をつくることができます。そして、彼は私と平和をつくるでしょう」(イザヤ27:5 KJV)。「さあ、来てください。私達は共に論じ合いましょう。主は言っています。あなたの罪は緋色のようだけれど、それらは、雪と同じように白くなるでしょう。昆虫のクリムソンのように深紅色だけれど、それらは羊の毛のように白くなるでしょう」(イザヤ1:18 KJV)。あなたは、自分の魂の保護を忠実な創造者に委ねてくださいませんか。行って、それから、私達は、ダビデがしたように、祈り、彼の平穏の光の中に生きましょう。「ヒソプを持って私を清めてください。私は清められるでしょう。私を洗ってください。私は雪よりも白くなるでしょう」(詩編51:7 KJV)。キリストの血はあなたの心に信仰によって適用します。なぜなら、それだけがあなたを雪より白くすることができるからです。しかし、あなたはこう言います。「私の偶像の全ての明け渡しは、私の心を打ち砕くでしょう」。神に全てを放棄することは、打ち砕かれた存在と堅固な岩の上に落ちたあなたを表しています。それから、主のために全てを放棄します。なぜなら、あなたが砕かれない限り、あなたは無価値だからです。

 あなたが、水を貯めることができない壊れた水槽から離れ去り、すぐに神に行って、あなたの擁護者イエスの名によって、あなたに必要な事や物を求める時、キリストの美徳があなたの美徳として、また、キリストの義はあなたの義として明らかに示されるでしょう。その時、あなたが義と認められることはキリストにある信仰を通してだけ来る、ということを理解するでしょう。なぜなら、キリストの中には、神の品性の完全が啓示されているからです。彼の生涯の中に、聖化の原則の外側の働きが現されています。キリストの贖いの血を通して、罪びとは有罪宣告と罪のとりこの状態から解放されます。罪のない身代わり人と保証人の完全を通して、人は、神の全ての戒めに従順と謙遜についてのレースを走ることができます。キリストがいないまま、人、罪びとはいつも、神の律法の咎めのもとにいます。しかし、キリストにある信仰を通して、人は神の前に正しくつくられています。


 

50章 キリスト、私達の罪を負う神性

 

 

 

 

 

1.行って探して、発見する [26]

 自分自身を救うことは、人間にとって不可能です。人は、このテーマについて自分をだますことができます。しかし、人は自分自身を救うことができません。キリストの義だけが人の救済に役立つことができます。そして、これは神の贈り物です。これは、あなたが、子羊の婚宴の夕食会に招かれた時に、ゲストとして参加することができる礼服です。グズグズせずに、キリストに属する信仰を定着させて、この世界の人々への光として、あなたはイエスにあって、新しくつくられた者となりましょう。

 キリストは「主、私達の義」と呼ばれました。信仰を通して、それぞれの人は「主は、私の義」と言っています。信仰がこの神の贈り物に置かれる時、神への賛美は、私達の口にあるでしょう。そして、私達はほかの人々にこう言うことができるでしょう。「世界中の人々の罪を取り去る、神の子羊を見上げなさい」(ヨハネ129)。その時、私達は、人類救済に関して、特別に失われたものを語ることができるでしょう。その一方で、世界の人々は、罪のコースの下におかれています。その主は、罪に落ちて希望のない罪びとに恵みの言葉を贈り、その恵みの意味と価値を明かにしました。恵みは、値しない人への贈り物です。罪を全く知らない天使達は、自分達に施された恵みを得ることがどういうことかを理解しません。しかし、私達の罪深さは、恵み深い神から恵みが施されるようにと求めています。私達を避難所に連れ戻し、さ迷うような私達を探し求めることは、私達に送られた恵みです。

 あなたの魂の中に、足りないものがあるという思いを持つことがありませんか。あなたになすため、あなたに不可能なことを主の聖霊の力を通して、あなたのためにこれらのことをするよう、主が求めているので、その時、これは、キリストがあなたの心に働いていたことと、この必要の思いをつくったということの一つの根拠です。彼の愛を期待して、彼の勧めを望んで、あなたが主の恵みを飢えるように求める以外の具体的に挙げる状況はありません。「求めなさい」。この求めは、あなたが自分の求めに気づくことを表しています。あなたが信仰によって求めるならば、あなたは受けるでしょう。主は、彼の言葉で請い願いました。そして、それはしくじることがありません。あなたは、自分が罪びとの一人であるということを知って考えているということには、主の恵みと感動を求めているという十分な論拠があります。あなたが神のもとに行くことができるという状態は、あなたが聖なる者だろうということではなく、あなたが、あらゆる不正から正しくされ、全ての罪から清められるために神に求めることだろうということです。その時、なぜ、長く待っているのですか。なぜ、神の言葉をとって、神を信じないのですか。こう言っています。

「ここにいます。主よ、私は自分を汝に預けます。

これが、私がすることのできる全てです」。

 サタンが、あなたと神の間に彼の影を投げかけるために来ている時、神の恵みを疑うよう、神を信頼しないようあなたを誘惑している時、このように言いましょう。神は私の力ですから、私と神の間に来て、私の弱点をつくことを許すことができません。私の多くの罪は、私の神性な身代わりと犠牲のイエスに負わされています。

「私の手には持って行くものが何もありません。

私は、そなたの十字架に素直に信頼します」。

 しっかりと自分を受容して、自分自身の内面を見て、神に自分を推奨して気に入らせるような、自分の品性の何かを見つけることができる人はいません。イエスひとりが私達の贖い主、私達の擁護者、そして、仲保者です。主の中にだけ、赦しと平和と義認のための私達の希望があります。罪に打ちひしがれた魂が健全に回復されるうるのは、キリストの贖いの血の美徳/功績によってです。キリストは、父に受け入れられるためのあなたの嘆願をしている芳しい香りです。その時に、あなたはこのように言うことができませんか。

「ひとりの嘆願なく、私がそこにいた時に、

汝の血は、私のために流されました。

汝は、そなたに行くよう、私に命じました。

おお、神の子羊、わたしは行きます」。

 キリストのもとに行くことは、難しい知的な努力や苦労を求めることではありません。それは、救いの言葉を単純に受け入れています。神は自分の御言葉をわかりやすく語りました。その祝福は、全ての人々に無料開放されています。それはこのように招いています。「さあ、渇いている人はみな、汝ら水の所においでなさい。金を持っていない人、汝ら、来て、買い、そして、食べなさい。しかり、来て、ワインとミルクに金を払わずに、値段なしに買いなさい。なぜ、汝らはパンにならないものに金を払うのですか。また、満足しないもののためにあなたの労働をするのですか。私に心を傾けて聞きなさい。そして、汝らは良い物を食べなさい。そして、あなたの魂を豊かにして楽しませましょう」(イザヤ55:1,2 KJV

 

2.キリストの中に見られた義

 それから、来て、探して、そして、見出して[ください]。開かれている力の宝庫は満ちていて無料開放されています。神の好意を得る手柄として良い働きをする必要があるとは考えないで、あなたがキリストのもとに行く前にあなた自身を良くする必要があるとも考えないで、謙虚な心で来て[ください]。あなたは、良いことをするための、また、あなたの状態を良くできる力がありません。キリストから離れて、私達は功績も義も持っていません。私達の罪深さ、私達の弱さ、私達の人間性の不完全さは、私達がキリストの染みのない義を着せられない限り、神の前に現れることを不可能にしています。私達は、自分自身の義を持ってではなく、主の中で見られるために存在しています。全ての名の上に存在している特別な名によって、人々の間に与えられた特別な名によって、どのようにして、人々は救われることができて、神の約束を叫ぶ[のでしょうか]。このように言っています。「主よ、私の罪を赦してください。助けを求めて、そなたの手の中に私の手を置きます。私は、それを持つ必要があります。さもないと滅びます。私は、今、信じています」。救い主はその悔い改めている罪びとにこう言っています。「私によらなければ、天の父のもとに行く人は誰もいません」(ヨハネ146)。「私のもとに来る人を、決して追い返したりしない主義です」(ヨハネ6:37)。「私は汝の救い主です」(詩編353)。

 あなたがキリストの引き寄せに応答し、また、自分自身を彼に繋ぐ時、あなたは救いの信仰を現しています。普段と同じ方法によって宗教的なことを語ること、生きた信仰と現実的に魂の飢えなしに霊的な祝福を求めることは、益するものが僅かです。イエスの周りに取りついていたさ迷える群衆は、その付き合いから生きた力の接近に気づきませんでした。しかし、12年間病気に罹っていて、ある貧しく困っていた女性が、大きな必要から手を伸ばして、彼の衣服の縁(ヘり)に触れました。彼女は癒しの効能を感じました。彼女のそのひと触れは、信仰に属していました。そして、キリストはそのひと触れを認識しました。彼はその癒しの効能が自分から出て行ったことをわかっていました。そして、彼は群衆の方を向いて、「私に触れたのは誰ですか」(ルカ845)と聞きました。そのような質問に驚いた弟子達は答えました。「先生、群衆、大勢の人が汝の……そなたは、私に触れたのは誰ですか、と言っています。そして、イエスは言いました。誰かが私に触れました。私は、癒しの効能が私から出て行ったのを感じたからです。その女性がそれを見た時、彼女は隠せませんでした。彼女は震えながら出てきて、彼の前にひれ伏しました。彼に触れた理由と、どのようにすぐに癒されたかを大勢の人々の前で彼に話しました。彼は彼女に語りました。娘よ、良き慰めがあるように、汝の信仰が汝を健全にしたのです。平和のうちに過ごしなさい」(ルカ845-48 KJV)。キリストとの生きた付き合いによって私達に益をもたらす信仰は、私達の側の最高の優先権、完全な信頼、全的な献身によって表されています。この信仰は、愛によって働いていて、魂を清めています。それは、キリストに追随する人々の生活の中で、神の戒めへの真の従順として働いています。神への愛と人への愛はキリストとの生きたつながりという結果をもたらすでしょう。「キリストの霊/精神をもっていない人は、誰も、キリストに属していません」(ローマ89)。

 イエスはこう言いました。「私はブドウの木、汝らはその枝です」(ヨハネ155)。私達は、このたとえの意味以上に親密な関係を考えることができますか。大枝についている小枝たちは、そのブドウの木と同じ幹に繫がっています。大枝たちに幹から、養分と支えの力と、生命のコミュニケーション(伝達)が、遮るものなく常にあります。その根は、大枝を通して、その木の養分を送っています。人がキリストの中にしっかりと留まって彼の栄養を摂っているならば、キリストと信者達との関係は、このようなものです。人の魂とキリストの間の霊的/精神的な関係が、個人的な信仰体験を通してだけで確立されることが可能です。しかし、闇の勢力に対抗する力を私達にもたらし、天の力と私達が繫がるのは信仰なので、「信仰なしに、主を喜ばすことは不可能です」(ヘブライ11:6)。「私達の信仰でさえも、これはこの世界の勢力を制覇する勝利です」(1ヨハネ54)。信仰は、神の栄光を誠実な目で見て生きて、神の臨在や存在を人の魂に習熟させています。私達は、益々、神の恵みの卓越さ、主の品性の美しさを見分けています。私達は、天の特別な雰囲気で生きていて、神が私達の右側にいることに気づいていて、私達は動揺させられないので、私達の魂は霊的な力によって強くなっています。主のかたちimageに変えられるようになるためにいる私達が見上げることによって、まったく愛すべき人、何千人もの多くの人々の中の長として主を見上げて、私達は、世界の人々の前に出現しています。


 

51章 キリスト、私達の罪を負う神性

 

 

 

 

 

1.生きているブドウの木と繫がっている [27]

 「誰かがキリストの中にいるならば、その人は新しく創られています。古い人は過ぎ去りました。見上げなさい。すべては新しくなりました」(2コリント517)。神性の力以外に、人間の心を再創造し魂たちにキリストの愛を注ぐことができる者は存在しません。それはいつまでも、主が死んだ目的をこれらの人々のために、それ自身の愛を現しているでしょう。聖霊の実は、愛、喜び、平和、忍耐、善意、信仰、柔和、節制です。人が神に回心させられる時、新たな道徳の味わいが提供されて、一つの新たな行動の力が与えられ、そして、その人は、神が愛している事柄を愛しています。その人の生活は、イエスの命に約束されている不変の金の鎖によって結ばれています。愛、喜び、平和、そして、言葉で表せない喜びが魂に満ちているでしょう。そして、「汝の穏やかさが私を偉大にしました」(詩編1835 KJV)と言う、祝福された人の言葉が存在するでしょう。

 罪に打ち克つように自分の側の努力の決意なしに、自分達の品性の素晴らしい変化を見上げて待っているだけの人は、失望させられるでしょう。私達は、イエスを見ている間は心配する理由がありませんし、疑う理由もありません。彼は、自分のもとに来る人をみな、最高に救うことができますが、私達はいつも、自分の古い性質が支配権を得るのではないかと心配しているでしょう。かの敵は、私達が再び彼のとりこになるように罠を仕掛けているでしょう。主の善意の喜びを行なって、あなたの中で意思を働いているのは神なので、私達は、恐れおののきながら自分自身の救いを成し遂げるために存在しています。私達の有限な能力において、私達は、神が彼の領域で聖であるのと同じように、私達の領域で聖であるように存在しています。私達の能力を広げるために、私達は、神性の品性の卓越さと愛と真理を現すために存在しています。蠟が封印を表しているように、その人の魂は、キリストのかたちimageを保ち、神の聖霊の印象を表すために存在しています。

 私達は、霊的な愛らしさ/美しさのうちに日々に成長するために存在しています。私達は、時々、神性の型を複写する時の努力に失敗しているでしょう。私達は、自分の欠点と失敗のために、しばしば、イエスの足元で涙を流して膝をつく必要があるでしょう。しかし、私達は、落胆するためにいるのではありません。私達は、もっと熱烈に祈り、もっとたくさん信じ、そして、私達の主のように成長するため、より忠実へと再挑戦するために存在しています。私達が自分自身の力に信頼しない時に、私達は自分達の贖い主の力に信頼し、神へ賛美を返しています。主は私達の振舞いの健康であり、私達の神です。

 キリストと繫がっているところではどこでも、愛があります。ほかの実たちも何でも、私達は生み出すでしょう。愛が失われると、それらは何も益がないでしょう。神と私達の隣人への愛は、私達の宗教の真の本質です。キリストを愛することができない人は、主の子らを愛することができません。私達がキリストに繫がっている時、私達はキリストの知性/心を持っています。清らかさと愛は品性の中から輝き出ていて、柔和と真理はその生活を統制しています。その振舞いの真の表れは変えられています。その魂の中にとどまっているキリストは、形成する力を働かせていて、その中で統制している喜びと平和を証しして、外側の容貌を生み出しています。私達は、ブドウの木から枝に流れる養分として、キリストの愛を飲んでいます。私達がキリストに接ぎ木されているならば小枝から小枝へと、また、私達が生きているブドウの木[キリスト]に繋がれているならば、生きている実の豊かな実りをもたらすことによって、その事実の根拠を与えるでしょう。私達がその特別な光/知識に繫がっているならば、私達は、光/知識の通路となって、私達の言葉と働きによって、私達はこの世界の人々に光/知識を反映するでしょう。真のクリスチャンであるこれらの人々は、天と地を繋ぐ愛の鎖で結ばれています。それは、有限な人間を無限な神に結んでいます。イエスキリストの顔に輝いているその光は、神の栄光として、主に追随する者達の心の中に輝いています。

 見上げることによって、私達は変えられるようになるために存在しています。神聖な[人格]モデルの完全を熟考する時、私達は全面的に形成されて、主の清らかさのかたちimageに新しくされるようになりたいと望むでしょう。怒りの子が神の子になり、その品性の中に形成が始まるのは、神の息子の中にある信仰です。その人は、死から命へと移っています。その人は、霊的spiritualになり、霊的なことを識別しています。神の知恵は、彼の知性に光を与えて教化していて、彼は、神の律法が表している素晴らしい事柄を見上げています。人が真理によって改心した時、品性を形成する働きが進んでいます。その人は増した理解の程度を持っています。神へと従順な人間になることによって、その人はキリストの知性を持っていて、そして、神の意思が彼の意思となっています。

 神の聖霊のガイダンス/案内のもとで自分を率直な場所に置く人は、自分の知性が広くなり発達することがわかるでしょう。その人は、神への奉仕によって、一つの教育を得ています。それは、品性の一側面の発達や欠陥のある一側面のものではなく、釣り合いの取れた完全な結果を人に[発達させて]います。力強さのない品性と優柔不断の意思に表された虚弱さは、その人がキリストの知性を持って、キリストとの親しい関係をもたらす清らかさと継続した献身によって、克服されます。その人は、原則の力と健全さを持って、キリストと一つです。その人の認知力は、清明で、その人は、神から来ている知恵を現しています。ヤコブはこう言っています。「あなたがたのうちで、知識を授かり知恵のある人は誰ですか。その人は、知恵にかなう柔和さを自分の働きによって、良い回心を表していることを示しましょう」(ヤコブ313 KJV)。「上からの知恵は、第一に清いこと、次に平穏、優しさ、そして、温和、思いやりに満ち、良い実、偏り見ず、偽りがないことです。そして、義の実は、平和を作り出す人々によって、蒔かれています」(ヤコブ317,18 KJV)。これは、救いの杯から飲んでいて、主の名を呼んでいる人によって現された知恵でしょう。律法の違反者に提供される赦しの救いが、全知全能の方の綿密な調査を生み出すキリストの義をその人に送って、神の強大な敵に打ち勝つ勝利を与えて、それを受ける人のために喜びと永遠の命を提供しています。そして、その多くは、それを聞いて喜んだ人、謙虚への喜びのテーマでしょう。

 

2.いなくなった羊の譬え

 99匹を残していなくなった[羊を]捜しに行った羊飼いの、キリストが与えた、いなくなった一頭の羊の美しい譬え話は、その魂の救いをめぐって宇宙全体の喜び、罪びとの状態とキリストの特別な働きを描いています。その羊飼いは、その羊たちを注意深く見ていませんでした。こう言っています。「私は99匹を持っています。迷っている1匹を捜しに行くことは、私にとってあまりに多くの問題を課しているでしょう。自分で戻ってこさせましょう。その羊が中に入れるように、私は羊小屋の戸を開けておきましょう。私はその羊を捜しに行くことができません」。いいえ、その羊がさ迷い出るとすぐに、その羊飼い[の心]は悲しみと心配に満たされています。彼は、その群れの数を何度も数えました。そして、1匹の羊がいなくなったことを確認した時、休んで寝ようとはしませんでした。羊飼いは、99匹を囲いの中に入れて置いて [28](He leaves the ninety and nine within the fold,)、暗い夜、嵐のような風が吹いているにも拘らず、また、こわくて危険な道にも拘わらず、長時間の辛い役目にも拘らず、弱ることなく、ためらうことなく[進みました]。彼の捜索は無益なものではありませんでした。嬉しくなって喜びのうちに、疲れ切った羊を自分の肩に載せました。彼は、迷っていた羊をその小屋に連れて帰りました。彼の喜びは、歓喜の歌のメロディーで表されています。そして、彼は、友人達と隣人達に伝えています。こう言いました。「私は、いなくなっていた私の羊を見つけたので、私と一緒に喜んでください」(ルカ156)。迷子の羊は、その羊の偉大な羊飼いによって見つけられています。天の使い達はその羊飼いの喜びの言葉に応答しました。いなくなった羊が見つけられる時、天と地は感謝と喜びで一つに結ばれます。「まさに、悔い改める必要のない99人の人以上に、悔い改めた一人の罪びとのゆえに、天に喜びがあるでしょう」(ルカ157)。


 

52章 キリスト、私達の罪を負う神性

 

 

 

 

 

1.キリストは私達の大祭司 [29]

 正義は、その罪が単に赦されるものではなく、その罰の死が実行される必要のあることを要求しています。神は、そのひとり息子という贈り物によって、それら[赦しと罰]の要求に立ち向かいました。人間の代わりの死によって、キリストはその罰を全て受けて、許しを提供しました。

 人間は、罪によって、神の命との関係が断絶させられていました。彼の魂は、罪の創始者サタンのたくらみによって、麻痺させられていました。彼自身について、彼は、神性の性質に相応しく正しく理解する能力を欠いていて、罪を感じる能力もありませんでした。それ[神性の性質]は、彼[人間]の届く範囲にもたらされましたが、[人間には]それ[神性の性質]がありませんでした。人間の生来の心はそれ[神性の性質]を望んだことでしょう。サタンの魅惑する力は彼のうえにあります。ほのめかしが可能な、その悪の全ての巧妙なごまかしは、あらゆる良好な衝動を阻害するように、人の知性に表されました。人に与えられた神について[知る]能力と[知性と精神と体の]力は、神性の恩恵をもたらす者に反対して武器として利用されました。そういうことで、神は、人間を愛しましたが、与えようと望んだ祝福と特別な贈り物を人間に安全に与えることができませんでした。

 しかし、神は、サタンによって、覆されないでしょう。神の道徳的な価値の物差しによって、人間を高めるように、自分の息子に神性と人間性を結び付けて、人間の姿と性質を取った彼を通して、神はこの世界の人々の中に彼を送りました。人間の救済のために、ほかの方法はありませんでした。キリストは言いました。「[神性の]私がいなければ、汝らは[神性に関することは]何もすることができません」(ヨハネ15:5 KJV)。人間の性質に生気を与える命の水が湧き出るようにできるキリストを通して、そして、キリストだけが、品位の味わいを形成し、人間の感情を天に向けてなびかせています。人間の性質と神性との結合を通して、キリストは、背きと罪によって死んだあちこちの魂に命を与える宝を注ぎ入れ、理解を教化/啓蒙することができるでしょう。

 ある人間の知性がカルバリーの十字架に引き寄せられる時に、キリストは、不完全な視点によって、十字架が恥ずかしいものと識別されることがあります。なぜ、彼は死んだのですか。罪の結果によって[です]。何が罪ですか。神の律法の違反です。その時、その人の目は罪の品性/特徴を見るために開かれています。神の律法は、破られていても、その違反を許すことができません。それ[神の律法]は、処罰を強いる私達の校長先生schoolmaster養育係です。どこで特別補修授業がありますか。その律法は、彼の義の品性の中に天の父をこのように人々に示して、そして、私達を、罪深い人間、罪に落ちた人々に自分の義を与えることができるかもしれない十字架にかけられたキリストに連れて行って[補修授業をして]います。

 十字架上のキリストは、神の律法の違反のゆえに、神に向けて人々を悔い改めに引き寄せているだけではなく、――彼がまず悔悟者をつくって、神が許すために――キリストは、正義を充足させました。彼は、一つの贖いとして自分自身を提供しました。彼のほとばしった血、傷ついた体が破られた律法の必要を充足させて、このようにして、彼は、罪がつくった深い溝に橋を架けました。彼は、肉体の中で苦しみました。打ち傷に衰弱した体によって、彼は、無防備な罪びとをかばうことができるでしょう。人類家族には本質的ではないゆえに、また、神の自己否定はあり得ないという彼の挑戦を沈黙させて、その勝利は、全宇宙に存在する者達を支配し、非難するサタンの力を永遠に打ち砕いた、カルバリーでの彼の死によって得られました。

 天でのサタンの立場は、神の息子の次にありました。彼は、はじめに、天使達の間に存在していました。彼の能力は品位が落ちて行きました。しかし、神は、それ自身の中にある真実の光を明らかにすることができず、彼の悪い影響を排除せず、彼と調和している天の全ての支持を得ることができませんでした。彼の能力は増大していました。しかし、その悪は、まだ、認識されていませんでした。それは、全宇宙に存在している者達にとって、命取りになる一つの能力でした。しかし、世界の人々の安全と天の統治のために、それ自身の中にある真実の光が明らかにされることと、それがやがて進展することは必要なことでした。

 

2.神の自己否定

 心の痛手と体の打ち傷と深い悲しみのうちに、キリストがカルバリーの十字架に掛けられるまで実行したかの敵サタンは、全宇宙の存在者達の感情から自分を完全に引き離してしまいました。神は、人類を愛していたので、世界の人々の罪のために神自身を与え、神の息子によって自分自身を否定しました。その創案者は、無限の神の息子によって現されました。この特別な質問、「神の自己否定が存在しうるのですか」は、永遠に答えられました。キリストは神でした。そして、肉体になるために、身を落としてへりくだりました。彼は、人間性を帯びて、そして、死に至るまで従順になりました。そして、無限の犠牲の体験を耐えたのでしょう。

 一人の人間の犠牲が、キリスト忍耐を経ることができたのに、それにもかかわらず、サタンは、誘惑によって、キリストをそそのかすあらゆる努力を尽くしていました。しかし、もっと完全で最大の誘惑は、その犠牲でした(Whatever sacrifice a human being could undergo Christ endured, notwithstanding Satan put forth every effort to seduce Him with temptations; but the greater the temptation,the more perfect was the sacrifice.)。キリストが、神性の性質と自分の人間性の性質を結び付けて耐えたことによって、サタンとの闘いにおいて耐えることは人間にとってまったく可能なことでした。[キリスト]は、人々が神性の性質にあずかる者としての存在として勝利できるように、人々がだます誘惑者にずっと耐えるあらゆることに忍耐して、人々の身代わりと保証人として、最後まで罪がなく従順で、人間のために死にました。

 清らかな真理は、偽りに競り合い、高潔さと誠実さは策略と巧妙に競り合うように見られました。キリストのような全ての人は、真理のために自分自身の命さえ、みな犠牲にしようとしています。サタンのたくらみに抵抗することは簡単な作業ではありません。それは、初めから終わりまで、神性の性質を堅く捉えておくことを求めています。そうでないと、それは実行することができません。キリストは、カルバリーの十字架の上での死によって達成した勝利によって、人間のために開いた道を明白に置き、そして、このように、人間のために、特別な命、特別な真理、特罰な道を通して神の律法を守ることを可能にしました。ほかの道はありません。

 キリストの義は、罪びとがそれを受け入れるならば、条件なしに贈られたものとして提供されています。清く聖なる神にはまったく嫌悪感を抱かせる、罪に汚され、堕落し、頽廃したものばかりで、罪びとは自分自身に属する[良い]ものを何も持っていません。イエスキリストの義の品性を通してだけ、人間は神に近づいて行くことが可能です。

 キリストは、神に生きることを通して、カルバリーにおいてまったく不朽の名声を博した覆いの中で大祭司として、罪に死に続けています。もしも人に罪があったとしても、その人は天の父と一人の擁護者がいます。

 彼[キリスト]は、神性と人間性を結び付けた――栄光と素晴らしい能力によって、収められていた死の墓から天使達の集団と共に現れました。彼は、サタンが合法的な縄張りだと統括権を主張している世界の人々を見回しました。そして、素晴らしい働きによって自分の命を与えた彼は、人類、人々全体の神への好意を回復しました。……

 特別な境界線を引く人がいないようにしましょう。人間の何かの働きにおいて狭い見解は、人の違反の罪の疑いを一掃する方法の可能性を失わせます。これは命取りになるだましです。あなたがそれを理解しているならば、あなたは、お気に入りの考えの押し問答をやめる必要があります。また、謙虚な心は協調/贖いを吟味しています。人々が自分自身の働きに依存しているので、この内容は、神の子らであると主張する何千何万という多くの人々が悪人の子らであるというようにとてもぼんやりとだけ理解されています。神の律法がそれ[良い働き]を求めているので、神は、いつも、良い働きを求めました。しかし、人間の良い働きがある所で、罪の中に自分を置いた人は価値がありません。キリストの義だけがそれを明らかにできます。キリストは、私達の執り成しをするために永遠に生きていているので、最高に救うことが可能です。人が自分の救いに向けてなす可能性のある全ては、その招待を受け入れることにあります。「欲しい人は誰でも、命の水をただで飲んでください」(黙示録2217)。義務の履行がカルバリーでなされなかったならば、人間によって託されることが可能な罪はありません[No sin can be committed by man for which satisfaction has not been met on Calvary.。このように、その十字架は熱くアピールをして、罪びとに罪の償いを提供し続けています。

 

3.悔い改めと赦し

 あなたがカルバリーの十字架に近づく時、ほかにはない愛が見られます。あなたが、特別な犠牲の意味を信仰によって眺める時、律法を破ったことによって責めて、あなたは自分自身を罪びととして見ています。これが悔い改めです。キリストは、世界中の人々の罪のための犠牲を絶えず捧げて、その祭壇に立ち続けている者として表されているので、あなたが謙遜な心で[キリストに]行く時に、あなたは赦しを見つけます。彼は、人間ではなく主が張った真の幕屋の奉仕者の一人です。ユダヤ人達の仮庵の祭の影の予型は、もはや何の効力も潜在しなくなりました。イエスは、殺された子羊として、流した血を捧げて、神の臨在として務めています。イエスは、罪びとの全ての欠点を、全ての反則の罪のために捧げた供え物として現されています。

 キリストは私達の仲保者として、聖霊はいつも人間の味方として仲裁しています。しかし、聖霊は、キリストがしているように、私達のために請い願っていません。彼[聖霊]は、世界の創造から流されたキリストの血を指し示しています。聖霊は、私達の心に、祈りと悔悟へと引き寄せています。私達の口からあふれ出る喜びは、聖霊が心の音楽を目覚めさせ、清い記憶によって魂の琴線を打つ結果です。

 宗教的な奉仕/礼拝は、祈り、賛美、罪の悔悟の告白、天の聖所への芳しい香りとして、真の信者達から昇って、それらは、血によって清められない限り、汚れています。それらは、神に属するために価値あることができません。それらは仲保者がいない限り、染みのない清いものとして昇ることができません。キリストは、神の右にいて、彼の義によって、神が容認できないような全ての人を提示して清めています。地上の仮庵から昇る全ての香りは、キリストの血の滴りの清めが添えられる必要があります。彼は、天の父の前で、地上の汚れのない自身の功績という吊り香炉を持っています。彼は、自分の染みのない義をそれらと共に、この祈りの香炉の中に、自分の民の告白と賛美と祈りを集めています。キリストのなだめの供え物と共に立ち上った香りは、全部が完全に受け入れられて神の前に昇って行きます。それから、恵み深い応答が戻されます。

 あらゆる賛美と感謝、悔悟、従順を見ることができる人々はみな、キリストの義の火が燃えている所に置かれる必要があります。この義の香気は、恵みの座の周りに雲のように立ち上っています。


 

53章 キリスト、私達の罪を負う神性

 

 

 

 

 

1.信仰と従順を通した[人格の]変容 [30]

 福音の中のキリストの教えは、旧約聖書の預言を通したキリストの教えと完全に調和しています。その様々な預言は、新約聖書の中でキリストのメッセージを声によって伝えた使徒達と同じように、旧約聖書の中で主のメッセンジャー達を通して語りました。そして、それらの教えの間に矛盾はありません。しかし、サタンは、ずっと働いてきていて、神の言葉を効果なきものにしようと、あらゆる不義のだましによってまだ働いています。彼は、簡単で分かりやすいものを未知なものmysteriousにしようとしています。彼は、この働きの体験をしようとしてきました。彼は、神の品性を知っています。そして、巧妙さによって、彼は、世界中の人々をとりこにしました。罪がこの世界の人々にもたらされたのは、神の言葉を効果のないものにするためでした。アダムは、神の品性が間違って表されたために、サタンの嘘を信じました。アダムの一生は、人生観が変わってしまい、美しさと幸福が損なわれてしまいました。彼は、神の戒めに不従順でした。そして、神が彼にしないようにと語ったそのことをしました。不従順を通して、アダムは罪に落ちました。仮に、彼が特別なテストに耐え抜いて、そして、神に忠実だったらならば、苦悩のノアの大洪水の門は、私達の世界に開かれなかったでしょう。

 神についての間違った表し方をするサタンの信念を通して、人間の品性と運命は一変しました。しかし、人々が、神の言葉を信じるならば、知性と品性は変容し、永遠の命/生活に合うように形成されるでしょう。「神はこの世界の人々をとても愛しました。神は、彼を信じている人々が一人も滅びないで、永遠の命が得られるように、ひとり子を与えました」(ヨハネ3:16[という言葉]を信じることは、心が変容し、人の中に神のかたちimageが再創造されることです。

 今日の多くの人々がそうであるように、(回心の前の)パウロは、伝統的な清めをとても確信していました。しかし、彼の確信は偽りに基づいていました。それは、形式と儀式に信頼を置いた、キリストを抜きにした信仰でした。彼の神の律法への熱心さは、キリストに繫がっておらず、価値のないものでした。彼の自慢は、その律法を行なう行動の中に非難されることがないというものでした。しかし、キリストは、彼が拒否していた律法の何かを価値あるものにしましたbut the Christ who made the law of any value he refused.。彼[パウロ]は、自分が正しかったと確信しました。彼はこう言っています。「私は、ナザレのイエスの名前に多くの反対行動を行なう義務があると思っていました。私は、エルサレムでそれを実行しました。祭司長達の長から権限を受けて、多くの聖徒達をとりこにして捕らえました。彼らが死にやられた時には、彼らに反対して[不利なことを]言いました」(使徒言行録26:9,10 KJV)。しばらくの間、神に仕えていたと考えて、パウロは非常に冷酷な働きをしました。彼はこう言っています。「私は、不信仰の中で無知によってそれを実行していました」(1テモテ113)。しかし、彼の厳格さは、間違った真理をつくりだすことや彼の働きを義にはしませんでした。

 信仰は、真理や間違いが知性の中に宿る場所を見つける時の培養地です。真理や間違いが受け入れられることは、同じような知性の活動によるものです。しかし、それ[知性]は、私達が、人間の言っていること神の言葉を信じるかどうかで、異なった決定をします。キリストが、パウロに自分自身を現した時、彼[パウロ]は、主の聖徒達、その人々の中でイエスを迫害していたということを確信しました。彼は、それをイエスの中に存在している真理として受け入れました。[人格を]変容させる力は、知性と品性においても現されました。そして、彼はキリストによって新しい人になりました。現世や陰府(よみ)が彼を揺り動かしたのではありませんが、彼はたいそう十分にその真理を受け入れました。「信じています。信仰じているだけです」と叫ぶ多くの人々がいます。その人々に、あなたは信じている[だけ]のために存在していますか、と尋ねてみてください(Ask them what you are to believe.)。あなたは、神の聖で正しく善い律法に反対して、サタンによって徐々にその嘘を信じるために存在しているのですか。神は、その律法の効果をなきものにすることに対して、その律法を確立するために、その偉大で貴重な恵みを利用していないのですか。パウロの決心はどんなものでしたか。彼はこう言っています。「それでは、私達はどのように言ったらいいでしょうか。神の律法は罪なのですか。神は否定しています。そうではなく、その律法が‟汝は切望しないでしょう”と言ったことを除いて、私は強い欲望を知らなかったので、私は罪を知りませんでしたが、その律法によって[罪を知りました]。……かつて、私はその律法なしに生きていましが、神の掟がきた時、罪が生き返り、[その戒めはそのときに終わっていたのですか。いいえ]、私[パウロ]は死にました。……それゆえに、その律法は[私の自由と平和を守る方法として、明らかに立っていたのですか。いいえ]、聖で、正義で、そして、善です」(ローマ7:7-12 KJV)。

 

2.神の律法は赦すことが不可能

 パウロは、神の律法にはその律法の違反者を赦すための力がないことを学びました。「律法を行なうことによっては、肉[]は義とされません」(ローマ320 KJV)。「肉[]が弱められて、律法がなすように求めたことをしなかったので、神は、自分自身の息子を罪深い肉[]に似せて遣わし、そして、罪のために、その肉[]の中で罪を罰しました。こうして、律法に属する義が、私達の中で満たされて、私達は肉[の人]の後について歩むのではなく、聖霊[の人]の後について歩むことができるでしょう」(ローマ83,4 KJV)。

 主は、私達が罪に陥った状態を見ました。また、私達が恵みを必要としていることも見ました。そして、主が私達の魂を愛していた故に、私達に恵みと平和を与えました。恵みという財産は、失われている人にとって、また、理解している人に好まれています。私達が罪びとであるという事実は、神の愛と恵みから締め出すのではなく、私達が救われるように、私達のために肯定的に必要な神の愛の行動を起こしています。キリストはこう言いました。「汝らが私を選んだのではありません。私があなたがたを選んで、あなた方に託しました。汝らはやがて出て行って、実をもたらすでしょう。そして、あなた方の実はいつまでも残るでしょう」(ヨハネ1516 KJV)。

 アダムが罪に落ちた時、彼の回復のための対策が作られました。然るべき時に、イエス、命の君が、闇の勢力との争闘に入るために、私達の世界にやって来ました。この世界の中で、サタンは、全ての法all lowから解き放つという彼の原則をあらわにして、その働きの結果を提示する機会を持ちました。そして、キリストは、父の戒めに不動の従順によって、義の原則の実践の結果を現しました。悪の原則と一致させて、サタンは激しい誘惑によって神の息子を攻撃しました。ついに、彼を裁きの広場に連れて行きました。やがて、彼[キリスト]は根拠なしに死を求められるでしょう。悪の連合軍は、悪の原則を成し遂げるために人々の心を動揺させていました。キリストとバラバがあの群衆の前に現れました。バラバは、殺人者の注目を引く一人で、キリストは神の息子でした。ピラトは、二人を見詰めて、バラバの呪いの特徴と対照的に目立って、高貴さ、知性、清らかさが、彼の容貌から明白に現れていた、イエスを選ぶことにとまどいはないだろうと考えました。彼はこう尋ねました。「汝らは、二人のうちのどちらを解放して欲しいのか」(マタイ2721)。激怒した群衆の耳障りな「バラバを」と叫んでいる声が聞こえました。「ピラトは、群衆に言いました。キリストと言われているイエスについて、私は何をすべきだろうか。群衆はみな、彼に言いました。彼を十字架につけよ。その統治者は言いました。なぜ。彼はどんな悪事を行なったのか。しかし、群衆は、それまでよりもっと叫んで言いました。彼を十字架につけよ」(マタイ27:22,23 KJV)。

 

3.サタンは、キリストの死によって敗れた

 この選択において、サタンの原則が現されました。また、天のホスト役の者たちと神が創造した世界中の人々は、サタンが、嘘つき、殺人者、きょうだい達を訴える者だったと判断しました。天と罪に落ちていない世界の間では、サタンのだましの力と悪意の原則についての疑問は鎮められていました。そして、罪に落ちた人間の味方として、試練と特別なテストを耐え抜いたキリストの完全な聖と清らかさは、永遠に立証されました。サタンの品性と原則の進展によって、彼は、罪に落ちていない世界の人々の感情から永遠に根絶させられました。そして、キリストの主張と彼の主張に関する争闘は、永遠に天の中で鎮められました。キリストの品性の中に現れた義は、世界の人々の救いの希望として、永遠に特別な錨になるために存在していました。キリストを選んでいる全ての魂は、信仰によって「主は私の義」と言うことができるでしょう。

 キリストはこのようでした。「人々に拒まれて、蔑まれました。悲しみの人で悲嘆を熟知していました。私達はそれが私達の顔だったかのように彼から[顔を]隠しました。彼は蔑まれました。そして、私達は彼を高く評価しませんでした。確かに、彼は私達の悲嘆を負い、私達の悲しみに同行しました。しかし、私達は、神に打たれ悩まされ苦しめられた彼を高く評価しました。しかし、彼は、私達の違反の罪のために傷つけられました。彼は、私達の罪過のために打ち傷を受けました。私達の平安の体罰は彼のうえにありました。彼の数々の傷跡によって、私達は癒されました」(イザヤ53:3-5 KJV)。

 キリストの恵みと神の律法は分離できないものです。イエスの中で恵みと真理は共に向き合い、義と平和はキスしました。彼の生命と品性の中で、彼は神の品性を表しただけではなく、人間が神の品性を表す可能性を示しました。彼は、人間性の模範、神の代表者でした。彼は、信仰によって神性と一つになった時に人間性がなれるかもしれないことをこの世界の人々に表しました。神のひとり息子だけが、人間の性質を神性の彼に取り、そして、天と地の間に彼の十字架を立てました。その十字架を通して、人間は神へと、また、人へと神が引き寄せられました。その十字架で正義が充足されたので、天のホスト役の者達、聖なる軍勢が敬愛のうちにひざまずきながら、その十字架のそばに引き寄せられ、正義が、その高き所、荘厳な場所から[十字架のそばに]移されました。その十字架を通して、「神の息子を十字架につけたのは私の数々の罪です」と叫んでいる悔悟と和らいだ心で十字架に近づく罪びとはみな、悪の連合と罪の強力な束縛から引き寄せられました。その十字架に、その人は自分の罪を残しています。そして、キリストの恵みを通して、彼の品性は変容しています。贖い主は、灰の中からその罪びとを立ち上がらせています。そして、その人を聖霊のガイダンスのもとに置いています。罪びとは贖い主を見詰めています。その人は、希望、保証、そして、歓喜を見つけています。信仰は、愛によってキリストを捉えています。信仰は愛によって働いていて、その人の魂を清めています。


 

54章 キリスト、私達の義

 

 

 

 

 

1.1883年に出現したテーマ [31]

 「私達が自分の罪を告白するならば、彼は、私達を全ての不義から清めることと、私達の罪を赦すことに、正しく忠実です」(1ヨハネ19)。

 神は、私達が自分の罪を告白して、彼の前に心を低くすることを求めています。しかし、同時に、私達が、彼に信頼を置く人々を見捨てない優しい父として彼に信頼を寄せる必要があります。私達のうちの多くの人々が、信仰によってではなく、見えるものによって歩んでいます。私達は、見えている事柄を信じていますが、神の言葉によって私達に与えられた貴い約束を理解しようとしていません。また、「私達は熱心過ぎの中にいる、あるいは、主が、私達との約束を果たさないのではないか」と疑って、神が言っていることに不信頼を示すより以上に決定的に、私達は神の名誉を汚すことがありません。

 神は、私達の罪のゆえに私達を見捨ててはいません。私達は、間違いをすることがあって、聖霊を悲しませています。しかし、私達が悔い改める時、心の悔恨によって彼に行く時、彼は、私達を追い返さないでしょう。そこには、取り除かれる障害物があります。よこしまな考えが気に入られていて、そこにはプライド(自慢の混じった自尊心)と自己満足、いらだちと不平がありました。それらの全ては、私達を神から分離させています。様々な罪は、告白される必要があります。心の中で、深遠な恵みの働きが存在する必要があります。弱さと失望を感じている人々は、神の強い人になって、大教師のために貴い働きをすることでしょう。しかし、人々は、高い立ち位置からの働きをする必要があります。人々は利己的な動機によって影響されないようにする必要があります。

 

2.私達の唯一の希望、キリストの功績

 私達は、キリストの学校で学ぶ必要があります。主の義は、恵みの契約の祝福の一つとして私達に肩書を与えることができるに過ぎません。私達は、それらの祝福を得ようと試みて期待して待ち望んでいます。しかし、私達は、それらの価値を自分達でつくるための何かをすることができるだろうというアイデアを気に入っていて、それらを受け取れませんでした。私達は、イエスが生きている救い主だと信じず、自分自身から離れて見ることをしませんでした。私達は、自身の美点/恵みと功績が私達を救うだろうというと考えてはいけません。キリストの美点/恵みが私達の救いの唯一の希望です。主の預言者を通して、主は約束しています。「悪い者にその道を離れさせ、正しくない人にその考えを捨てさせましょう。そして、その人を主に立ち返らせましょう。その人は、私達の神にたくさん赦されるので、その人は主の恵みを得るでしょう。」(イザヤ55:7 KJV)。私達は、その約束をありのままに信じる必要がありますが、信仰しているからという感情で受け入れべきではありません。私達が、まったく神を信頼している時に、また、罪を赦す救い主としてイエスの功績を堅く信頼している時、私達は、自分達が望むことができるあらゆる助けを受けるでしょう。

 私達は、自分自身を救うための力を持っていたかのように、自分を見ています。しかし、私達はこのことをするためには無力なので、イエスが私達のために死にました。彼の中に、私達の義、私達の義認、私達の希望があります。私達は、落胆する必要も、救い主がいないと心配する必要も、主が私達に憐れみの心を持っていないと考える必要もありません。そのような時に、主は、私達の味方としての働きをしていて、救われるために、私達の弱さによって彼の所に来るようにと招いています。私達は、自分達の不信仰によって、彼を敬っていません。私達が自分の親友[イエス]をもてなす方法はびっくりするようなことです。どんなに小さな確信でも、私達は、最高に救うことができる彼、大いなる愛のあらゆる根拠を私達に与えた彼の中で安らいでいます。

 私の兄弟姉妹の皆さん、みなさんは、神の救う力をあなたが信頼する前に、罪から解放されるに違いないと考えて、自分の功績を神の気に入りとして推奨しようと期待していますか。このあがきをあなたの知性/心の中でしているならば、私は、あなたが[知的・精神的・身体的]力を得られないだろう、そして、ついに、失望するようになるだろうと心配しています。

 

3.見なさい、そして、生きなさい

 荒野の中で、主が、言うことを聞かないイスラエル人達を毒ヘビが噛むことを許した時、モーセは、青銅のヘビを見上げるように指示し、そして、放浪の旅をしていたすべての人々に、それを見上げて生きるようにと命じました。しかし、多くの人々は、天の指示した治療法に助けを見ませんでした。死んだ人と死にかけている人がその民の中の至る所にいました。その人々は、神性の助けがないと自分達の破滅の運命は確かだということを知っていました。すぐに癒されていたかもしれない時に、その人々は、力が尽きるまで、目がかすむまで、苦痛、確かな死、放浪の旅を嘆いていたことでしょう。

 「モーセが、荒野で青銅のヘビを掲げたように」、「人の子も[また]、……掲げられました。彼を信じる人は誰でも、滅びないで、永遠の命を持つでしょう」(ヨハネ3:14,15 KJV)。あなたが自分の罪を自覚しているならば、[あなたは]それら[]をつぶやくために自分のあらゆる力を注がないで、見て生きるでしょう。イエスだけが私達の救い主です。癒されることを必要としていた数百万の人々は、主の憐れみの提供を拒みましたが、主の功績を信頼した人々は滅びずに生き残されたことでしょう。私達が、キリストなしの無力な状態に気付いている間に、失望させられないようにする必要があります。私達は、十字架にあげられ、そして、よみがえった救い主を堅く信頼する必要があります。あわれな罪の病に落胆した魂は、見て生きましょう。イエスは、その言葉で堅く約束しています。彼は自分のもとに来る全ての人を救うでしょう。

 イエスの所に行きましょう。そして、平安と安息を受けましょう。あなたは、いまもなお、その祝福を持てるでしょう。サタンは、あなたが無力で、自分を祝福できないとほのめかしています。それは真実です。あなたは無力です。しかし、あなたは、イエスの前で彼を見上げましょう。「私は、よみがえった救い主を持っています。私は彼を信頼しています。彼は、私を惑わせず決して苦しめないでしょう。彼の名によって、私は打ち勝っています。彼は私の義です。私の歓喜の冠です」。希望がないということではないので、この世では、自分の場合は絶望だ、とは考える人がいないようにしましょう。あなたは罪深くて[よい]行動がないと考えてしまうことでしょう。しかし、あなたが救い主を必要としていることは、この説明の正しさを表しています。あなたが罪を告白するために無駄にする時間がありません。それらの時間は黄金のようなものです。「私達が自分達の罪を告白するならば、彼は、全ての不義から私達を清めるような、また、私達の罪を許すような真実で正しい存在です」(1ヨハネ19 KJV)。飢え渇いて義を追い求める人々は、イエスがそれを約束したので、満たされるでしょう。何と、貴い救い主でしょう。彼の腕は、私達を受け入れるように開いています。彼の大いなる愛の心は私達を祝福するために待っています。

 ある人は、人々が祝福を求める前には、試験期間があるに違いない、また、新しく形成し直されたことを主に証明する必要がある、と考えているように見えます。しかし、それらの親愛な魂達は、いますぐに祝福を求めることができるでしょう。その人々は、人間の弱さを助けるキリストの霊、主の恵みを持てて当然です。そうでないと、その人々は、一つのクリスチャン品性を形成することができないでしょう。まさに、私達は――罪深く、無力で、寄る辺ない者として、キリストは、彼の所に行く私達を迎えて愛しています。

 

4.神の贈り物としての悔い改め

 許しと同じように、悔い改めはrepentance、キリストを通した神の贈り物です。私達が罪に属していることを確信させられ、自分達の赦しの必要を考えさせられるのは、聖霊の感化によるものです。悔い改めたcontriteだけで許される人はいません。心に悔い改めpenitentを生じさせるのは、神の恵みです。彼は、私達のあらゆる弱さと欠点を熟知しているので、私達を助けます。

 告白と悔い改めによって、神の所に行く人、また、自分達の罪が許されるということを信じている人でさえ、まだ、神の約束を求めることにしくじっているでしょう。その人々は、イエスが永遠に臨在している救い主であるということを見ていません。また、その人々は、自分達の心の中に始まる恵みの働きに完全に信頼している、自分達の魂にイエスを保っている、という約束の準備ができていません。その人々は、神と自分達が約束していると考えている一方で、そこには、自己依存への大きな偏りがあります。そこには、一部分を神に信頼し一部分を自分達に信頼するという、良心的な・真面目な魂達がいます。その人々は、神の力によって守り続けることも、神を見ることをしていませんが、その確かな行動は、神に受け入れられるための確かな任務の実行と、誘惑に対する用心深さを頼りにしています。この種の信仰には、勝利は存在していません。そのような人々は、目標がなくて苦労しています。その人々の魂は、隷従が続いていて、彼らは自分達の重荷をイエスの足もとに降ろすまで、安息を見つけることがありません。

 愛の奉仕と、熱心さと注意深さが常に必要です。しかし、これらの人々は、

魂が信仰を通した神の力によって保たれる時に、本来の自然さが訪れるでしょう。私達は、神性に気に入られるような、自分で推薦できるための何事も、全く何事もすることができません。私達は、自分達の良い働きのためだけではなく、私達自身のための全てにおいて信頼してはいけません。しかし、過ちのある罪深い存在として、私達がキリストの所に行く時、私達は彼の愛の中に安らぎを見つけ出すでしょう。神は、十字架につけられた救い主の功績に全的に信頼して彼の所に行く全ての人々を受けいれるでしょう。愛は心の中から湧き出します。そこには感情の昂奮はありませんが、平安な信頼のとどまりがあります。キリストが課すくびきは負いやすいので、全ての重荷は軽やかです。当然なすべき任務は喜びとなり、犠牲は楽しみとなります。以前に見えた、闇の中のとばり(死者を覆う白布)は、義の太陽からの光線と共に輝くようになります。これは、キリストが特別な光の中にいるように、特別な光の中を歩んでいることです。


 

55章 キリスト、私達の義

 

 

 

 

 

1.古い真理を新しい枠組みで提示した [32]

 カンザスの集会での神への私の祈りは、かの敵の勢力が打ち破られるようにと、闇と無知の中にいるこの教会の人々が、古い真理を新しい枠組で多くの人々の知性に新しい真理を知ることができるように、神が送った特別なメッセージに心と知性を開くようにということでした。神の人々()の理解は、サタンが神の品性を間違って表していたので、目が塞がれていたようなものでした。私達の善良で恵み深い主は、サタンの態度を装っていた人々の前に提示されました。そして、真理を探し求めていた女性と男性達は、長い間、自分達の見解から神の栄光の不明瞭で雲のようなかげりを一掃することは困難だという間違った光と知識の中で神を考えていました。多くの人々は、疑いの雰囲気の中で生きていました。キリストの福音によって、自分達の前に希望を起こさせて手に入れることは、その人々にとってほとんど不可能に思えていました。……

 安息日に、会衆の大多数のために新しく存在していた様々な真理が提示されました。新しい事柄と古い事柄が、神の言葉の宝庫からもたらされました。その人々がほとんど理解できず自分のものにすることのできなかった様々な真理が明らかにされました。受け入れるにはあまりに貴重な光として、真理を求めて飢えていた魂と思われる人とキリストは私達の義であるという事実との関係において、また、福音と律法の関係において、神の言葉から光が輝き出ました。

 しかし、その安息日の労は無益ではありませんでした。日曜日の朝には、神の聖霊がこれらの全体の参加者の道徳的・霊的な状態を大きく変化させるように働いていたという決定的な根拠がありました。そこには、神への知性と心の明け渡しがありました。そして、貴重な証の数々が、長い間[霊的な]無知の闇の中にいた人々によって生み出されて伝えられました。ある兄弟は、キリストは私達の義であるという良い知らせを受けることができる以前に体験した苦悩を語りました。その闘いは深刻でした。しかし、主は、彼と共に働きをしていました。そして、彼の知性は変容し、彼の能力は新しくなりました。主は、キリストだけがあらゆる希望と救いの源であるという事実を明らかにして、その人の前に明確な基本線と特別な真理を提示しました。「彼の中に命がありました。そして、その命は人々の特別な光や知識でした」「そして、その言葉は肉[]につくられ、そして、私達の間に宿り(そして、私達は、天の父の一人子だけのその栄光、彼の栄光を見上げ)、恵みと真理に満ちていました」(ヨハネ1414 KJV)。

 私達の教会の若い伝道者の兄弟は、自分の以前の全人生以上にこの会議の間にたくさん神の愛と祝福を楽しみました、と言いました。もう一人は、数々の試練や当惑と自分の知性によって耐え抜いた論争は、全てを放棄するために誘惑された一つの特徴的なものだった、と言及しました。彼は、もっとキリストの恵みを受けることができない限り、自分には希望がなかったと考えました。しかし、この会議の影響を通して、彼は、心の変容を体験し、キリストにある信仰を通して救済のより良い知識を得ました。彼は、信仰によって義とされることは自分の特権だと知りました。彼は、神との平和を得ました。魂にやって来た祝福と安堵感を涙と共に打ち明けました。全ての公開集会で、多くの人々の証が、平安と満足と喜びのうちに生み出され、その人々は、光/知識を受けることを見ました。

 私達は、その人々の前に提示された貴重な光/知識によって、全ての人の心によって主に感謝しました。また、私達は、この時のための現在の真理である一つのメッセージを得たことを喜びました。キリストは私達の義である、という知らせは、多くの、多くの魂に安堵と慰めをもたらしました。そして、神はその民に「前進しなさい」と言っています。ラオデキヤ教会へのメッセージは、私達の状態に適応可能です。自分達は全ての特別な真理を持っていると考えている人、自分達の神の言葉の知識によって誇っている人、一方で、それ自身の清めの力がその人たちの生活の中で感じられなかった人、なんと、それらの教会の立場が明白に描かれています。神の愛の好意は、人々の心の中に求められています。しかし、世界の人々の特別な光、神の民を育てることは、この愛の好意です。

 

2.ラオデキヤの人々へのメッセージ

 特別な真の証は、冷淡で生気がなく、キリストのいない教会について、「私は、汝らの働きについて知っています。そなた達は冷淡でもなく、熱くもありません。私は、汝らが冷淡か熱いかであってほしい。汝らは関心がいい加減で、生ぬるく、冷たくないばかりか熱くもありません。私は、汝らを私の口から吐き出すつもりです」(黙示録3:15,16 KJV)。続く言葉に注目してください。「なぜなら、汝らは言っています。私は豊かです。財産や所有物がたくさん増えました。私が欲しいものは何もありません。しかし、汝は、不幸で、かわいそう、見えず、裸であることを知っていません」(黙示録3:17 KJV)。ここに、優越性と精神的な認識に憑りつかれて自分のプライド(自慢の混じった自尊心)を持つ一群の人々が提示されています。しかし、その人々は、神が自分達に授けた功績によらない祝福に応答しませんでした。また、彼[]がまだその人々のうちにとどまっていた時に、わがままな恩知らずの息子でも、父の配慮で許されて愛されていた時に、彼らは神の忘れる[配慮]に恩知らずで、反抗に満ちていました。彼らは、神の恵みに逆らって、神の特権を乱用し、神の機会を軽視しました。そして、偽善者の不誠実と、うわべだけの形式主義、嘆かわしい恩知らず[にもかかわらず]、安らぎを得ることに没頭して満足していました。パリサイ派的なプライド[あのような取税人ではないことと感謝します]と一緒で、彼らは、その言葉が彼らに語られるまで、自分自身を誇っていました。「汝らは言っています。私は豊かです。財産や所有物がたくさん増えました。私が欲しいものは何もありません」。

 主イエスは、これらの自己満足している人々に、永遠のことについての咎めや警告のメッセージを次から次へと送りはしませんでしたか。彼の勧めは、嫌われたり拒絶されたりしませんでしたか。彼に代理として使わされたメッセンジャーは、嘲笑の扱いをされ、また、彼らの言葉は役に立たない作り話として受け止められませんでしたか。キリストは、人間が見ない視点から見ています。彼は、その罪が悔い改められていないならば、その罪は神の長い忍耐の許容を使い尽くすだろうと、いろいろな罪を見ています (He sees the sins which, if not repented of, will exhaust the patience of a long-suffering God.)。キリストは、彼ら自身の自己能力に満足している人々を悪く言うことができません(Christ cannot take up the names of these who are satisfied in their own self-sufficiency.)。キリストは、あらゆることに通じていて知っていると主張する人、助けを必要としていないと考えている人々にあえて味方になることができません。

 偉大な贖い主は、自分自身を、天の無料の良い物、富の荷を積み込んで、戸口から戸口へと尋ねて回る、天から来た商人として紹介しています。「私は、汝に、火で精錬された金を私から買うことを勧めます。汝は豊かになるでしょう。また、白い衣服、汝はそれを着るでしょう。汝の裸は現れないでしょう。目を癒す軟膏をかすんだ目に塗りなさい。汝は見えるようになるでしょう。私が愛している多くの人々を、私は叱ったりこらしめたりします。だから、熱心に悔い改めなさい。見上げなさい。私は、戸の傍に立って、叩いています。誰でも私の声を聞いて、戸を開けるならば、私はその人の家に入るでしょう。そして、[私は]その人と共に、その人は私と共に夕食をするでしょう」(黙示録3:18-20 KJV)。

 神の前の私達の状態を考えましょう。[御言葉にある]真の証の勧めに注意を払いましょう。ユダヤ人達がそうであったような偏見に満たされないようにして、その光や知識が私達の心に来ないようにしましょう。キリストが人々に「汝らは、命を得ようとしていますが、私のもとに来ようとしていません」(ヨハネ5:40 KJV)と言った時、それは、私達へ言及していないものにしましょうLet it not be necessary for Christ to say of us as He did of them.

 その全体総会以来、全ての会議において、魂達は、キリストの義についての貴重なメッセージをひたむき熱心に受け入れました。私達は、霊的な認識眼を癒す軟膏、キリストの義という白い衣、愛と信仰という[精錬された]金――彼らが所有していなかった物の必要としていたことに気づいた魂たちがいることを神に感謝しました。あなたがこれらの貴い贈り物を所有しているならば、人間の魂の宮は、神聖を汚された祭壇のようにはならないでしょう。兄弟姉妹の皆さん、私は、みなさんに、ナザレのイエスキリストの名によって呼びかけます。神が働いている所で働きましょう。今は、特権と機会[に恵まれた]とても幸せな日です。


 

56章 キリスト、私達の義

 

 

 

 

 

1.真理を生み出す神性の資格[33]

1)神からのメッセージ[34]

 提示されたメッセージ――信仰による義――は、神からのメッセージです。それは神性の資格を生み出しています。それ自身の実は聖として存在しています。その貴い真理をとても必要としていたある人が、人々の前に紹介されました。私達の心配は、それ自身の益を受け入れませんでした。人々は、天からの訪問者として、イエスを歓迎するための心の扉を開きませんでした。そして、人々は、時間と労力の浪費に苦しみました。そこには、確かに、私達が歩むべく狭い道があります。主の十字架はあらゆる歩みに提示されています。私達は信仰によって生きることを学ぶ必要があります。その時、暗い無知の時間は義の太陽の光線に祝福されることによって、輝かされるでしょう。

 私達が知識と真理の光のために日毎に御言葉の研究を怠っているならば、私達は安全ではありません。この地上での祝福は、苦労なしに得られることがありません。私達は、霊的な天の祝福が私達の側の熱心な努力なしにやって来ることを期待できますか。真理の鉱脈は[私達が]働かされるようになるために存在しています。詩編記者はこう言っています。「汝の言葉の玄関口は、光や知識を与え、無学な者に理解を与えます」(詩編119130 KJV)。神の言葉は、私達の生活から切り離されないようにする必要があります。それ[神の言葉]は、知性の中で実演され、心の中に歓迎され、好意を持たれ、愛され、そして、従順にさせられる必要があります。私達は、もっともっと多くの知識を必要としています。私達は人類の救済の計画に関して光を与えられて教化される必要があります。永遠の福祉と私達の現在にとても必要なものであるテーマについて、聖書の真理を自分のために理解している人は、100人に1人もいません。この教会の人々の贖いの計画を明瞭にするために真理の光が輝き始める時に、かの敵は、人々の心からその光を遮るように、あらゆる知者達と共に働いています。私達が、謙虚な精神で教えを聞きに神の言葉に行くならば、間違いのクズは一掃されるでしょう。そして、私達の目から長く隠されていた真理の宝石が発見されるでしょう。

 唯一の希望と救済として、キリストが説き勧められるという大いなる必要があります。信仰による義の教理が[ニューヨーク州]ローマでの[キャンプ]ミーティングで提示された時、それは、水が渇いた旅人にやって来たように、やって来ました。キリストの義という思想は、私達の側の何かの功績ではなく、神からの無料の贈り物、一つの貴い思想として、私達に帰属させられているように思われます。『レビュー&ヘラルド』1889.9.3 [62]

 

2)罪の香りはない

 私達がキリストの義を着せられる時、キリストが私達と共に働いているので、私達は罪の香りを持っていないでしょう。私達は、間違いをすることがありますが、神の息子の受難を理由として、罪を嫌うでしょう。

              『レビュー&ヘラルド』1890.3.18 [63]

 

3)極端な教え

 間違いのクズの下に長い間隠れていた重要な真理があります。それは、人々に明らかにされるために存在しています。信仰による義の教理は、第三天使のメッセージを信じていると告白していた多くの人々によって、その視界から見失われていました。その聖なる人々はこの点において、大いに極端に行ってしまいました。彼らは、大いに熱心に教えました。「キリストにある信仰だけで救われます。神の律法を離れなさい」。これは、神の言葉の教えではありません。そこには、そのような一つの信仰の基礎はありません。これは、神がこの時のために、この[教会の]人々に与えた真理の貴重な宝石ではありません。この教えは正直な魂達を間違いに導きました。神の言葉からの光は、主の律法が宣言される必要があるという事実を明らかにしています。自責の念のない魂と罪を清める手段のない人を除いて(but will by no means clear the guilty and unrepentant soul.)、キリストは[律法]違反と罪過と罪を赦す救い主なので、彼が掲げられる必要があります。  『レビュー&ヘラルド』1889.8.13 [62]

 

4)そのメッセージは実[35]をもたらす

 私達は、最も優れた集会を続けています。ミネアポリスでの会議に存在していたあの精神はここにはありません。全てが調和のうちに動き始めています。多くの代議員達が参加しています。朝5時の私達の集会は沢山の人が出席しています。その内容も上等です。私が聞いた証はみな品性を向上していました。その人々は、昨年の自分達の生活はベストだったと言っています。神の言葉から輝き出た光は、キリスト私達の義、信仰による義――を明瞭に認識しました。その体験はとても興味深いものでした。

 私は、朝の集会に2回参加しました。8時に、ジョーンズ兄弟が信仰による義のテーマで話しました。大きな関心が湧き起こりました。そこには、救い主イエスキリストと、私達の主についての知識と、信仰の成長があります。そこには、以前にこのテーマで聞く機会のなかった多くの人々が清聴していました。また、その人々はその話を捉えて、そして、主の食卓からの美味しい一口分をいただいていました。私達の教会の人々のためにやって来た、真理と光のこのメッセージに存在していたことを語った、これらの人々からの万人に共通する証は、まさに、この時のための特別な真理でした。そして、この諸教会の間では彼らはどこに行っても、光や知識、慰め、神の祝福が確かにやって来るために存在していました。

 私達は、魅力的な事柄の御馳走をいただいています。私達が、特別な真理の光を見ている魂達を見ていて楽しくなり、信仰の創始者であり完成者であるイエスを見ています。あらゆる優秀さは[魂の]内部に存在しています。主の品性は私達の品性に存在する必要があります。人間とそのほかの全ての[人格]モデルから離れて、主の栄光の中のイエスを見上げて話しましょう。人々の知性は、主の優秀さのアイデアに圧倒されて、威厳に満たされています。ほかの全てのテーマは些細な事の中に沈んでいます。道徳的規律の全ての部分は、主のかたちimageに似るように促さないとして削除されました。私達が、大いなる光に向かって進んで行って、あらゆる光の筋を受け入れ、届くことのできる高さと深さを、私は見ています。終末は近くにあります。そして、神は、私達がこの時に眠っているようなことを禁じています。

 私達の教会で[牧会の]奉仕の働きをする兄弟達が自分自身のために御言葉を研究する傾向を見て、とても感謝しています。真理の宝を知性に蓄えるようにせず、御言葉の深い研究にとても大きな欠如がありました。私達は、主の聖なる言葉を理解するために、神性の教化の光を求めた多くの祈りと研究を私達の知性に課していないので、どんなにか多くを失っているでしょうか。

 私は、私達の教会の人々の間にもっと、第三天使のメッセージと平穏を保つ熱心な努力と、前進の決意があることを信じています。『原稿』10 1889[62]

 

5)大いなる叫びの始まり

 主が間もなく戻ってくると信じて主張している人々は、以前には決してなかったように御言葉を研究するようにしましょう。なぜなら、サタンは、私達が生きているこの時の危難に知性の目をくらませて、[霊的な]無知の闇に魂達を留めておくために可能なあらゆる方策をしようと決意しているからです。信徒達はみな、熱心に祈って自分の聖書を研究しましょう。その人は、存在している真理に応じて、聖霊によって光を与えられて教化されるでしょう。その人は、主が遣わしたイエスキリストについて、また、神について、もっと知ることができるでしょう。隠れた宝を探すように、特別な真理を探しましょう。そして、かの敵を失望させましょう。特別な試験の時間が私達に今存在しています。第三天使の大いなる叫びは、罪を赦す贖い主、キリストの義について明らかにされてすでに始まりました。人々の子らに働いた素晴らしい奇跡と弟子達に与えた教訓に啓示されて、預言の成就に現れたように、象徴の影となり、予型として現されたように、警告のメッセージが来たこと、イエスを掲げたこと、この世界の人々にイエスを紹介したことなどは、全ての人々の特別な働きなので、それは、全地を照らすその天使の栄光の開始です。

 あなたが、特別な悩みの時の間中立っているのであるならば、あなたは、悔い改めた罪びとに帰属させているキリストの義の贈り物に相応しい、キリストを知る必要があります。      『レビュー&ヘラルド』1892.11.22 [62]

 

6)キリストの義に相応しく

 キリストを通して、和解と同時に回復が人間に提供されます。罪によって作られた深い溝は、カルバリーの十字架によって橋が架けられました。充分な、完全な身代金は、罪びとが赦される効能のあるイエスによって払われました。神の律法に属する正義は保たれています。キリストが贖いの犠牲であるということを信じている全ての人は、行って、自分達の罪の赦しを受けるでしょう。なぜなら、キリストの功績を通して、コミュニケーションが人と神の間に開かれたからです。神は私を自分の子として受け入れることができます。そして、私は、自分の愛する父のように、主を喜び、主を呼ぶことができます。彼は私達の身代わりであり保証人なので、私達は、キリストひとりを天の私達の希望の中心におく必要があります。

 私達は、神の律法に違反してしまいました。その律法への行動によって、肉[]は義と認められないでしょう。人間が自分自身の力でつくることができる最善の結果は、人間が違反した聖と義の律法に向き合う価値がありません。しかし、キリストにある信仰を通して、人は全てを満たしたとして、神の息子の義を主張できるでしょう。キリストは、自分の人間の性質によってその律法の要求を充足しました。彼は、罪びとのために贖いをつくって、罪びとが抱えていた律法の呪いを負いました。彼を信じる人は誰も滅びないで、永遠の命を持つでしょう。真の信仰はキリストの義に相応しいものとなり、そして、その人は神性の性質にあずかる者として形成されているので、その罪びとはキリストと共なる勝利者にされるでしょう。このように、神性と人間性は結ばれています。

 神の律法を守る自分自身の働きによって、天に届こうという試みをしている人は、一つの不可能を企てています。人間は従順なしに救われることができません。しかし、その人の様々な働きは、その人自身に属するものではないでしょう。キリストは、主の良い楽しみをするために、また、しようという人の中で働くでしょう。もしも、人間が自分自身の様々働きによって自分を救うことができるならば、その人は喜びによって自分自身の中で何かを持つことができるかもしれません。その人が救いを得るために自分自身の力の中でつくるという努力は、カインの捧げ物によって表されています。キリストなしに行動することができる全ての人は、罪と自分本位に汚されています。しかし、信仰を通して働いているそれ[努力]は、神に受け入れられるものです。私達が、キリストの功績を通して天を得ようと求めている時、その魂は向上していきます。キリストを通して、神の恵みが私達の完全な救済を成し遂げたので、私達の信仰の創始者であり完成者であるイエスを見つつ、能力から能力へと、勝利から勝利へと進んで行くでしょう。

 信仰なしに、神を喜ばせることは不可能です。生きている信仰は、救済の計画から大いなる慰めと満足を引き継ぐことを可能にして、さらにキリストの功績を手に入れてその所有者となることを可能にさせています。

              『レビュー&ヘラルド』1890.7.1 [63]


 

57章 キリスト、私達の義

 

 

 

 

 

1.キリスト、命への道 [36]

 「イエスはガリラヤに行って、神の国の福音を延べ伝えました。時が満ちました。神の国は近づいています。汝らは悔い改めなさい。そして、その福音を信じなさい」(マルコ1:14,15 KJV)。

 悔い改めは信仰と結合していて、救いの要素として福音の中で力説されています。パウロは悔い改めを宣べ伝えました。彼はこう言いました。「私は、あなたがたに有益なことを何も隠さずに示しました。また、公の場でも家々でも、ユダヤ人とギリシア人の両方に証しして、私達の主イエスキリストへの信仰と、神への悔い改めを教えました」(使徒行伝20:20,21)。悔い改めなしに救いは存在していません。悔悟のない罪びとは、自分の心で義を信じることができません。悔い改めは、パウロによって、罪のための信心深い悲しみとして記述されています。「[信心深い悲しみは]、悔いのない、救いのための悔い改めとして働き、」(2コリント7:10 KJV)。この悔い改めは、その中に功績の性質のものを何ももっていません。しかし、それ[悔い改め]は、失われた罪びとの唯一の希望、唯一の救い主としてキリストを受け入れる心を用意しています。

 罪びとが神の律法を見ている時、その人の罪はその人に明らかにされていて、その人の良心に心の安らぐ場homeを押し付けています。また、その人はとがめられています。その人の唯一の慰めと希望は、カルバリーの十字架を見つめることによって見つけられます。その人が、その約束に思い切って賭ける時、主の言葉で神を信じて、慰めと平和がその人の魂に訪れます。その人は「主、汝は、そなたの息子の名前によってそなたの所に行く人全てを救うという約束をしていました。私は、魂に希望なく、助けなく、失われていた一人です。主よ、救ってください。そうでないと、私は滅びてしまいます」と叫んでいます。その人の信仰はキリストを捉えていて、神の前に義とされています。

 神が正義として存在している一方で、また、罪びとはキリストの功績を通して義とされています。なすべき義務を知ることを怠り、罪を知る行動を取っていながら、その一方で、自分の魂をキリストの義の衣で覆うことができる人はいません。神は、義認が行なわれる前に、心の明け渡しに入るよう求めています。人のために秩序正しく義認が確保されて、清められた魂と愛による生きた信仰と活動を通して、従順が継続する必要があります。

 ヤコブはアブラハムについてこう書いています。「私達の父祖、アブラハムは、自分の息子イサクを祭壇に捧げた時、自分の様々な働きによって義とされたのではありませんか。汝らが知っているように、信仰が彼の働きと共に機能し、そして、様々な行動によって信仰が完全に作られたのではありませんか。そして、御言葉の言っていることが充足されました。アブラハムは神を信じました。そして、義は彼に帰属されました。そして、彼は神の友と呼ばれました。汝らが知っているように、人は様々な働きによって義とされています。信仰だけによって[義とされる]のではありません」(ヤコブ2;21-24 KJV)。人間のために、信仰によって義とされる信仰は、それが人の動機と感情を支配する一つの点に到達する必要があります。また、それ[信仰]は、それ自身が完全に作られる信仰の従順のそばに存在しています。

 

2.約束における信仰の条件

 キリストの恵みなしでは、罪びとは希望のない状態の中にいます。その人のためにすることは何もありません。しかし、神性の恵みを通して、超自然的な力がその人に与えられています。そして、知性と心と品性の中で働いています。罪が忌み嫌われる性質のものだと識別され、ついに魂の宮から追い出されるのは、キリストの恵みが与えられることによってです。私達が救済の働きのキリストの仲間に加えられ、キリストとの親交にもたらされるのは、恵みを通してです。信仰は、救いは功績によって与えられるといっても、信仰に何かの効能があるものではなく、神が罪びと達を赦す約束に合うよう見たその状態です。しかし、しかし、信仰はキリストの功績を手に入れることができるものです。その処方箋が罪のために提供されました。信仰は罪びとの[律法]違反と欠陥の代わりに、キリストの完全な従順を表すことができます。罪びとが、キリストは自分の個人的な救い主だと信じている時、主の間違いのない約束によれば、神はその人の罪を赦していて、その人を無償で義と認めています。悔い改めた魂は、キリストが自分の身代わりと保証人として死んだので、自分の贖いと義として存在しているゆえに、自分の義が入手できるということに気づいていますThe repentant soul realizes that his justification comes because Christ, as his substitute and surety, has died for him, is his atonement and righteousness.

 「アブラハムは神を信じました。そして、それ[信仰]は義のために彼のものとされました。さて、人にとって、労働[の対価]は恵みによって計算されたものではなく当然の支払いとしての報酬です。しかし、人にとって、労働しなくても、主を信じ、信仰のない者を義とする彼を信じるその人の信仰は[恵みによって]義とみなされます」(ローマ4:3-5 KJV)。義は、主の律法への従順です。主の律法は義を要求しています。そして、罪びとは主の律法の義務を負っています。しかし、それを果たす能力がありません。人が義を得ることのできる唯一の方法は、信仰を通してです。信仰によって、人はキリストの功績を神に持って行くことが可能です。そして、主は、罪びとの記録簿に、主の息子の従順を置いています。キリストの義は人間の失敗の位置に受け入れられています。そして、神は、その悔い改めて信じている魂を受け入れて赦して義として、自分の息子を愛しているように、彼を愛して、義とされたものとして処遇しています。これは、信仰が義として記録される方法です。その赦された魂は恵みから恵へ、光からもっと大いなる光へと進んで行きます。その人は喜びのうちに言うことができます。「私達が行なった義の働きによってではなく、彼[]は、私達の救い主イエスキリストを通して私達に豊かに注いだ聖霊による新生と再生の清めによって、また、彼の憐れみによって私達を救いました。彼の恵みによって義として存在し、私達は永遠の命の希望を受け継ぐ者とされるでしょう」(テトス3:5-7 KJV)。

 再掲します。「彼を受け入れた多くの人々に、彼の名を信じる彼らのために、彼はその人々に神の子になる力を与えました。その人々は、血縁ではなく、肉に属する意思によるものではなく、人間の意思に属するものではなく、神に属するものとして生まれました」(ヨハネ1:12,13 KJV)。イエスはこう宣言しました。「再び生まれる人以外は、神の国を見ることができません」(ヨハネ3:3 KJV)。「水と聖霊によって生まれる人以外は、神の国に入ることができません」(ヨハネ3:5 KJV)。私達の前に置かれているものは、低い標準ではありません。私達は、個人個人として救われるために存在しています。[大いなる]試練と試験の日に、私達は、神に仕える人と、神以外の者に仕える人とを識別できる必要があります。私達は、主イエスキリストを個人的に信じている人々として救われています。

 多くの人々は、神に気に入られる功績として何かをしなければならない、また、天に昇らなければならないと考えている結果として、特別な光の道を見失っています。その人々は、自分の力の努力によって、自分達を良くしようとしています。これでは、その人々は成し遂げることができません。キリストは、私達の偉大な大祭司となることによって、また、私達の手本として生きることによって、さらに、私達の犠牲としての死によって、その道を作りました。彼はこう宣言しました。「私は、特別な道であり、特別な真理であり、そして、特別な命です」(ヨハネ14:6 KJV)。もしも、私達自身の一つの努力によって、天への梯子を私達が一段でも進むことができるのであれば、キリストの言葉は真実ではないでしょう。しかし、私達がキリストを受け入れる時に、私達が天に導かれているという真の小道を歩んでいて、キリストが私達の道であり、私達が命の道にいるというその根拠の実として、良い働きが現れるでしょう。

 

 

3.彼は私達の義となっている

 キリストは、[私達の]精神/霊を見ています。そして、彼は、信仰によって重荷を負っている私達を見ています。彼の完全な聖は、私達の不十分な点を償っています。私達が最善を尽くす時に、彼は、私達の義となっています。神が、世界の人々の特別な光として、私達を形成するために送っている光は、あらゆる光の筋を作っています。          『手紙』22,1889[37] [63]


 

58章 キリスト、私達の義

 

 

 

 

 

1.汝らが掲げた、汝らの最初の愛 [38]

 私は、黙示録24節から5節について、ミシガン州オッセゴの人々に話しました。「そなた達は、汝らの初めの愛を置き去りにしてしまったので、私は、汝らに都合の悪いことを話します。それゆえ、汝らが落ちてしまった時を思い出して、悔い改めなさい。そして、最初のさまざまな働きをしなさい。そうでないと、私は、汝らの所にすぐに行って、汝らのうちで悔い改める人々を除いて、汝の燭台をその場所から取り去るつもりです」(黙示録2:4,5)。この言葉を送られた人々は、その真の証によって、認識させられ、大変、高尚な才能を持っています。主はこう言っています。「それにもかかわらず、そなたたちは、汝らの初めの愛を置き去りにしてしまったので、私は、汝らに都合の悪いことを話します」。ここに、提供されるべきものがあります。そのほかのいろいろな恵みは、欠陥をきれいに修復することにしくじっていますAll the other graces fail to make up the deficiency.。この教会は、このように勧められています。「汝らが落ちてしまった時を思い出して、悔い改めなさい。そして、最初のさまざまな働きをしなさい。そうでないと、私は、汝らの所にすぐに行って、汝らのうちで悔い改める人々を除いて、汝の(しょく)(だい)をその場所から取り去るつもりです。……一つでも耳のある人は、聖霊が教会に語っていることを聞いてください。私は、勝利する人に、命の木の実を食べるために与えるつもりです。それは、神の園の中央にあります」(黙示録2:4-7)。

 それらの言葉は、右手に七つの星を持っている真の証をする者からの約束、もてなし、譴責、警告などです。「七つの星は、七つの教会の御使い達です。汝が見た七つの燭台はその七つの教会です」(黙示録1:20)。

 この教会が神聖な所としてバランスを保っていた時、それは、不足が見られて、その最初の愛を持ち続けていました。真の証をする者はこのように宣言しています。「私は、汝らの忍耐、汝らの仕事、汝らの様々な働き、また、汝らは、いかに悪い人々をそのままにしておくことができなかったかを知っています。汝らは、使徒であると自称している人々を試し、彼らの嘘つきで、そうでないことを見抜きました。私の名のために労苦して、挫けることがありませんでした」(黙示録2:2,3 KJV)。にもかかわらず、このすべての教会は不足が目立ち始めました。何が致命的に欠如しているのですか。「汝は初めの愛を置き去りにしてしまいました」。これは私達のケースではないでしょうか。私達の様々な教理はたぶん正しいでしょう。私達は間違った教理を嫌っているでしょう。原則に誠実でない人を受け入れないでしょう。私達は精力的に疲れないで労しているでしょう。しかし、たとえそうであっても十分ではないでしょう。何が私達の動機になっていますか。なぜ、私達は悔い改めを呼び掛けているのですか。「汝は初めの愛を置き去りにしてしまいました」。

 この教会のメンバー一人ひとりにこの大切な警告と譴責を研究してもらいましょう。キリストのやさしい愛を失っていないか、神学理論を[正しく]論じているか、真理を強く主張しているか、互いに見てもらいましょう。キリストが説教から外されていませんか。また、心の外に置かれていませんか。キリストの愛がその働きの中に編み込まれなかったのに、伝道の奉仕の働きをしていること、真理を告白して前進しようとしている大勢の人々に危険な事がありませんか。その真の証をする者からの譴責と警告は、多くのことを意味しています。それは、あなた方が、行なった最初の様々な働き、悔い改め、間違いに落ちた時のことを思い出すように求めています。「そうでないと」と、真の証をする者は言っています。「そうでないと、私は、汝らの所にすぐに行って、汝らのうちで悔い改める人々を除いて、汝の燭台をその場所から取り去るつもりです」(黙示録2:4,5)。その教会の人々は、最初の愛の情熱の必要に気付くかもしれません。これが不足している時、ほかの卓越した者達も力量不足です。悔い改めへの呼びかけは、滅びなしには考えられないという一つのことです。真理についての神学理論の中の信条では十分でありません。未信者達にこの理論を紹介するために、あなたはキリストのための証し人の一部を担っていません。あなたが最初にこの時のためのメッセージを理解した時、あなたの心を喜ばせたその光や知識は、あなたの体験と労苦の本質的な要素です。そして、これは、あなたの心と生活から失われてしまいました。キリストは、あなたの熱心さの欠乏を見詰めています。そして、あなたは落ちてしまい、滅びのとりこになっていると宣言しています。

 

2.愛の贈り物と律法が共に

 律法の求めと結ばれている[愛の]贈り物において、多くの人々は無限のキリストの愛の表現にしくじりました。この教会の人々に提示された重大な改革の大いなる真理を持っている人々は、人間に神の大いなる愛の表現として、贖いの犠牲の価値への気づきを持っていませんでした。イエスへの愛、そして、罪びと達へのイエスの愛は、福音の説教を託された人々の義の体験から抜け落ちてしまいました。そして、利己心が人類の贖い主の代わりに高められてしまいました。主の律法は、神から何かを切り離すようにではなく、どちらかと言うと主の知性と品性を解説者として、それ自身の違反があらわされるために存在しています。太陽の光が太陽から分離されることができないように、神の律法は、神性の創始者から分離して、人間に適切に表されることができません。メッセンジャーはこう言うことができるでしょう。「その律法の中に神の意思が存在しています。あなた自身のために、来て、見てください。その律法は、それが‟聖で正しく善です”とパウロが宣言したものです」。

 「それは、罪を戒めています。それは罪びとを譴責しています。しかし、それは、真理と善意と豊かな恵みをもって、その人にキリストの必要を示しています。しかし、罪びとにその負い目を負うことを求めています。キリストは、その恵みを信じて、悔いるすべての人々に豊富な赦しを約束していました。神の愛は、悔い改めて信じている魂に豊かに施されています。魂にある罪の縄目は、贖いの犠牲の血を通してだけ取り除くことが可能です。一つの捧げ物はまさしく、求められた天の父と等しかった主の犠牲そのものでした。彼の生涯、屈辱、死、失われた人間のための執り成しなどのキリストの特別な働きは、主の律法を偉大で、尊敬できるものにしています」。

 律法の要求を説き勧めた多くの説教は、キリストのいないものでした。この欠如は魂を覆って役に立たない真理を形作っていました。キリストの恵みのないそれ[説教]は、神の律法への従順の一歩を踏み出すことを不可能にしています。罪びとが、自分の贖い主、友人としての力と愛を聞く必要があります。キリストのためのメッセンジャーは、その律法の言っていることをわかりやすく、説明する必要があります。一方で、彼は、キリストの贖いの犠牲なしに義とされることは誰もできないということを理解されるようにする必要があります。キリストなしでは、神の臨在からついに分離して、燃える火のような憤慨を恐れながら見て、激しい非難だけが存在しうるでしょう。しかし、キリストの愛を見て、両目を開けている人は、愛と感動を満たす時に、神の品性を見上げるでしょう。神は、情け容赦のない存在の暴君のようにではなく、悔い改めた自分の息子を抱き締めることを望んでいる父親のように現れるでしょう。その罪びとは、詩編記者の言葉を叫ぶでしょう。「父親が自分の子ども達をかわいそうと思うように、主は自分を畏れる人々をかわいそうに思っています」(詩編103:13)。キリストがその真の品性を見られる時に、あらゆる失望はその魂から一掃されます。         『レビュー&ヘラルド』1891.2.3 [64]

 

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3.第三天使のメッセージの真実性

 私達の教会のある兄弟は、「信仰による義のテーマにあまりにもとどまっているでしょう。でも、御言葉によって表明されているこの教理を提示することに危険はないので、私は、警告される必要もないだろうと、希望を持って祈っています」という気がかりを表明しました。もしも、神の人(民)の適切な指揮に、過去において一つの怠慢もなかったならば、現在、そのための特殊な注意の呼びかけが必要なかったことでしょう。……聖なる御言葉によって、私達に与えられたとても偉大で貴い約束は、まるで全ての人の義について、かの敵がそれらをあるべき所に意図したかのように、広い範囲で視野から失われていました。彼(かの敵)は無知の暗闇の影を私達と神との間に投げかけていました。私達は神の真の品性を見ることができないでしょう。「主は、憐れみ深く、恵みに富み、長く忍耐して、善意と真実が豊かです」。

 信仰による義のメッセージが、第三天使のメッセージであるかどうかを尋ねた手紙が何通か私に届きました。私は「それは、本当に、第三天使のメッセージです」と書きました。    『レビュー&ヘラルド』1890.4.1 [63]


 

59章 キリスト、私達の義

 

 

 

 

 

1.キリストを通した完全な従順 [39]

 「汝らは、信仰だけによってではなく、人間が様々な働きによって義とされるのを見て知っています。……精神のない体(聖霊のない教会)the body without the spiritは死んでいるのと同じように、働きのない信仰も死んでいるようなものです」(ヤコブ2:24-26 KJV)。イエスを通して自分達が救われていると信じることと、イエスの中にある信仰を持つことは大切なことです。しかし、ここに、多くの人々が「私は救われている」と言って信じる立場を取る危険性があります。多くの人々がこう言いました。「あなたはいろいろな良い働きをする必要があります。そうするとあなたは生きているでしょう」。しかし、キリストから離れて、[神性の]様々な良い働きをすることができる人はいません。今日、多くの人々は「信仰、信仰だけです。そして、生きています」と言っています。信仰と様々な働きworksは共に進んで行きます。信じることと行なうことdoingは混ぜられています。主は、現在の魂にほとんど存在していない、罪に落ちる前の楽園にいたアダムに求めた以上の「完全な従順と汚れのない義」を求めています。恵みの契約のもとでの神の要求は、聖と正義と善意である主の律法と調和した、楽園で主がつくった時の要求と同じ適用範囲の広いものです。その福音はその律法の求めていることを弱めていません。それ[福音]は律法を高貴にして尊敬できるものにしています。新約聖書の新しい契約の下では、旧約聖書の古い契約の下で求められていたもの以上のものを求められていません。生まれつきの心が喜ぶような思い違いをする人がいないようにしましょう。神は、どんなに不完全でも生きていて問題のない人と、信仰があって問題ない人を誠実に受け入れるでしょう。神は、その子らに完全な従順を求めています。

 主の律法の求めに合うようにするために、私達の信仰は、それを私達の義として、キリストの義を捉える必要があります。キリストとの連合を通して、信仰によって彼の義を受け入れることを通して、私達は、キリストと協働する者となるために、また、神の働きをするために適していると認められるでしょう。もしも、あなたが、悪に流されて一人で漂うことを望んでいるならば、また、あなたの家族と教会の中で、違反をやめさせる天からのようなメッセンジャーと協力しないならば、あなたは永遠の義をもたらそうとせず、信仰を持つことがないでしょう。信仰は愛によって働いており、その魂を清めています。信仰を通して、主の聖霊は、その魂の心の中に聖をつくるために働いています。しかし、これは、その人間のメッセンジャーがキリストと共に働かない限り、行なうことができません。天の父に近づく道を見つけようとするならば、私達は、自分達の資格証明のようなキリストの義を持つ必要があります。私達は、その人の心に聖霊の働きを通してのみ、天に合うようにされることが可能です。私達がキリストの義を持てるためには、主の聖霊の感化によって、神性の性質にあずかる者として、日々に変容される必要があります。その人全体を高貴にすること、その人の心を清めること、その品位を向上させることは、主の聖霊の働きです。

 

2.イエスを見上げる

 魂がイエスを見つめるようにしましょう。「世界の人々の罪を取り除く神の子羊を見上げなさい」(ヨハネ129 KJV)。キリストを見る力のない人はいないでしょう。しかし、その招きの声は懇願と切望の言葉「見上げて生きなさい」を響かせています。キリストを見続けることによって、私達は、主の愛は比べるものがないことを見て知るでしょう。彼は罪びとの罪責の場所に立ち、そして、その人に彼の染みのない義を授けました。その罪びとが、自分の代わりに罪の呪いのもと、十字架のうえで死んだ自分の救い主を見ている時、彼の赦しの愛を見上げる時、愛がその人の心の中に目覚めています。最初にキリストがその人を愛して、そして、愛は主の律法を満たしているので、その罪びとはキリストを愛しています。その悔い改めている魂は、神は「あらゆる不義から私達を清めるために、また、私達の罪を赦すために正しく誠実です」ということを自覚しています。神の聖霊は、イエスキリストの恵みから恵へと、能力から能力へと届いて、もう一つの従順の一つの基準に前進することを可能にして、その信じている魂の中で働いています。神は、当然ながら、キリストを自分達の個人的な救い主として信じていない全ての人々をとがめています。しかし、彼は、信じて自分の所に来る人全ての魂を赦しています。そして、キリストと一つになる信仰を通して、神の働きをなすように彼を可能にしています。イエスはこれらの人々に言っています。「私は彼らの中に、そなたが私の中に[いるので]、その人々は完全に一つになれるでしょう[この一体は品性の完成をもたらしています。――題目編纂者]。「この世界の人々は、そなたが私を愛していたこと、人々を愛していたこと、そなたが私を遣わしたこと、を知るでしょう」(ヨハネ17:23 KJV)。主は、人間が無償の救済を十分にもてて、主の中で完成することができるので、あらゆる対策を取るでしょう。神は、神の子らがみな真理の光を持てるだろう、義の太陽の光線の輝きを持てるだろうと意図していました。神は、一人息子を贈り物として、無限の犠牲を払って世界の人々のために救済を提供しました。その使徒はこう尋ねています。「神は、一人ひとり息子を残さず惜しみませんでした。それだけではなく、私たちすべてのために自分自身を手放しました。神は、御子と共に全ての物を私達に無償で与えるのではないでしょうか」(ローマ8:32 KJV)。もしも、私達が救われていないのならば、その失敗は神の側にはなくて、私達の側にあるでしょう。私達は、神性の働き手達と協力することにしくじっていました。私達の意思は、神の意思と表裏一体になっていませんでした。

 世界の人々の贖い主は、人間性と自分の神性を着ました。罪に落ちた人間に必要とされた救済を世界の人々にもたらすことは、人間性と神性を取ることだったので、彼は人間性に届くことができる可能性があります。人間性は人間と神との間の伝達の一つのチャンネルを与えることができるかもしれないので、神性は人間性を必要としました。人間は、神に似るように自分を回復するために、自分自身にさらに外からの能力を必要としています。しかし、人間は神性の援助を必要としているために、それ[神性の援助]は、人間の活動がなくて済むものにしていません。信仰は魂の清めと愛によって働くので、人間の側における信仰が求められています。信仰は、キリストの効能や美点を手中に収めています。主は、人間の能力が麻痺されるようにではなく、神と共に協力するように設計しました。人間の能力は善意に役立つでしょう。主は家とよその両方で行なう私達を持っています。私達が特別な働きを成し遂げるために存在しているのは、まさにこの属性を通してのものなので、神は、私達の意思が破壊されるようにとは、設計しませんでした。主は、全ての人々に主の働きを与えました。全ての真実な働き人は、失われた人を救う働きという壮大な働きの中で、天の使い達とキリストと神と連合しているので、世界の人々に光を輝かせています。神性との協力から、その人は神の働きを行なって益々知的になっています。神性の恵みがよく働くと、その信徒は霊的に大きくなっています。託された能力によって働く人は、キリストの徒弟として、神の働きをすることを学ぶので、大教師のための賢明な職人になるでしょう。その人はその働きの重圧の下にいて、また、彼の意思は、自分の能力の拡大のため、神の人類救済目的によって高められる必要があるということに気づいているので、その人は、責任の重荷を避けないでしょう。しかし、イエスは、その人の押し潰されるような奉仕への従順と主の意思を取り去らないでしょう。その人は神と協力して真実で忠実なので、あなたの同情を必要とするような人ではなく、神の人類救済目的の重圧を担っているような人ではありません。人間の努力と神性の連合を通して、その働きは完全になされています。同情の対象の一人は、自分が呼び出された特権に気づかず、責任を避けている人です。


 

60章 キリスト、私達の義

 

 

 

 

 

1.信仰と様々な働きの関係[40] Relation of faith and works

                ニュージーランド、ネーピア 1893.4.9

A.T.[アロンゾ・トレビア・]ジョーンズ兄弟へ

 私はある集会に参加しました。多くの会衆が参加していました。私の夢の中で、あなたは、信仰によってキリストの義が授けられることと、特別な信仰のテーマを提示していました。あなたは、そこには何の条件もなく、様々な働き(行ない)worksは無いに等しいものだったと数回繰り返していました。その内容は、人々の知性が困惑させられ、信仰と様々な働きの説明によって正しい感銘を受けなかったとわかりました。それが特別な光の中で提示されたので、私はあなたに手紙を送ろうと決心しました。あなたはこの内容について、強調し過ぎた説明をしました。キリストの義と聖化と義認を受け入れるための条件があります。私は、あなたの意味することを知っていますが、しかし、あなたは、多く人々の知性に悪い印象を残しました。様々な良い働きは一人の魂さえ救わないでしょう。その一方で、様々な良い働き無しで救われることは一人の魂にさえ不可能なことです。神は、私達を一つの律法の下から救い出しています。だから、自分達がそのドアを開けるのであればノックして、私達は見つけるのであれば求めて、受け取るのであれば尋ねる必要があります。

 (God saves us under a low, that we must ask if we would receive, seek if we would find, and knock if we would have the door opened unto us.)

 キリストは、自分の所に来る全ての人々を最高に救おうとして、自分自身を提供しています。「私の所に来る人を、私は決して追い返さない主義です」(ヨハネ6:37 KJV)。あなたは、私が行なっているように、それらのテーマを事実として見ています。また、あなたは、自分の印象を通して人々の知性に困惑を引き起こして、それらを問題のテーマにしています。あなたが、様々な働きについて、あなたの心に急進的に印象を持った後で、質問がこのテーマであなたに求められました。それは、まったく明確なラインを展開していません。あなた自身の知性の中で、あなたは、ほかの人々の知性に、その正しい原則を定義づけられず明らかにすることができていません。また、あなたは、あなた自身の原則と信仰との調和した、あなたの論述を作ることができていません。

 若い人が質問を持ってイエスの所に行きました。「良い大教師。私は何を行なったらいいでしょうか」(マルコ10:17)。キリストは彼に言っています。「なぜ、汝は、私を、良い、と呼ぶのですか。一つのこと以外に良いことはありません。それは神です。汝が命に入りたいならば、神の戒めを守りなさい」。その人はキリストに「どの[戒め]ですか」と言っています。イエスはいくつかの聖句を引用しました。若い人はイエスに言いました。「それらのあらゆることを、私は十代の頃から続けてきました。何が私に足りないのですか」。イエスは若い人に言いました。「汝が完全になりたいと思うならば、行って、汝が持っている物を売りなさい。そして、貧しい人々に与えなさい。そうすると、汝は天に宝を持てるでしょう。そして、私に従ってきなさい」。ここにはいろいろな条件があります。聖書はいろいろな条件に満ちています。「しかし、その言葉を聞いた時に、若い人は悲しみに満たされて去っていきました。彼は、たくさんの財産を持っていたからです」(マタイ19:17,20,21,22 KJV)

 

2.注意を示す

 あなたは、それにはいろいろな条件がないと言う時、まったく範囲の広いいくつかの印象が生じさせられ、ある人はあなたの印象によって、一貫性をもって考えて見ることができていません。その人々は、自分達が、神の言葉が明確に言及したものとその人々の印象をどのように調和できるかを考えて見ることができません。どうぞ、それらの点を注意してください。これらのいろいろな働き(行ない)に関しての強烈な主張は、どんなに強くても、私達の立場を決して取っていません。私達の立場のいろいろな印象は弱められ、あなたが極端主義者だろうと考えている多くの人々がいるので、人々が知る必要のある多くのテーマについて、あなたが人々のためにもっている多くの教訓を失うでしょう。……我が兄弟、この点について悟ることは、知性では困難です。そして、誰かの知性は、御言葉と調和しない考えと混同してはいけません。どうぞ、キリストの教えの下で、弟子達の多くが嘆かわしいほどに無知だったことを考えてください。しかし、イエスが約束した聖霊が彼らのうえにやって来て、優柔不断のペテロが信仰の勝者になった時、なんと、彼の品性の中に変容が![生じました]。しかし、飾り立てた提示や印象によって、人の魂はつまずいて転ぶような信仰の弱さがあるので、水に流されて丸くなった小石の一つにしておいてはいけません。調和させ、平穏にし、深く、そして、堅固でいてください。何かによってどんな極端にも走ってはいけません。貴い、貴い救い主の、堅固な岩にあなたの足元を保ち続けてください。「私の戒めを信じて守る人は、私を愛しています。その人は、私を愛し、天の父に愛されるでしょう。私は、その人を愛するでしょう。そして、その人に私自身を現すでしょう」(ヨハネ14:21 KJV)

 これは、キリストの言葉を行なう―-本当のテストです。そして、それは、人が清らかな品性と聖と従順を現している実に実際的な根拠を世界の人々に主の意思を与えることを行なう人、また、イエスへの人間の働き手としての根拠です。……

 我が兄弟、神と共に気をつけて歩んでください。しかし、あなたが、汚点を付けてつまずいて転んで、無理をし過ぎて失敗するかもしれないと予期しながら、あなたに目を引き寄せられている人々がいることを覚えていてください。しかし、あなたが謙虚にイエスの近くに居続けるならば、すべてのことは好転するでしょう。……

 キリストの学校には、私達が進級するための場所はありません。私達は、[神の国の]増築計画の働きをするために存在しています。そして、主は掛け算式の計画で働いているでしょう。キリストの恵みを通して、私達を呼び出し、確かな選びがなされて、私達が[神の国の]増築計画に生きているのは、休みなく続く勤勉によっています。……

 「汝らがこれらのことを行なうならば、救い主イエスキリストと私達の主の永遠の王国に、あなた方がたくさん入れるように、入り口が仕えるので、汝らは決して失敗しないでしょう」(2ペテロ1:10,11 KJV)

 

3.罪との妥協は存在しない

 この教会の人々の前に、信仰といろいろな働きworksのテーマを紹介する人々、私の兄弟達は、知性が困惑しないように気を付けましょう。この教会の人々は、いろいろな良い働きを熱心に勧められる必要があります。その人々は、神の前に芳しい香りとなる捧げ物、清められる方法、うまくいく方法を示される必要があります。それは、キリストの血の効能のそばにあります。明確な特徴のあるメッセージは、この教会の人々のために生み出されて伝えられるためにあります。人々は、悪のあらゆる方法を譴責し、誤りを立証するために出かける必要があります。

 エペソの教会の天使に与えられたような任務がどこかの教会の天使に与えられているならば、罪と逆戻りと軽率を阻止するよう、そのメッセージが人間の働き手達を通して聞かれるようにしましょう。その教会の人々は、罪の告白と悔い改めへともたらされるでしょう。阻止するメッセージによって、罪を覆い隠すよう求めてはいけません。キリストは[説教の]最初とそして最後に宣言されるために存在しています。彼は、魂のためのすべてのすべてです。

 主の力は、打ち勝つような人々の求めを待ち構えています。誤りを立証することは、支配力と抗争できるよう、聞く人々を活気づけるために存在しています。その人の自己否定が体から右の腕が切り離されても、右の目を取ろうとしても、主は、人々があらゆる悪習慣から解放されるため、罪深い全ての行動からの救出のために、闘いを励ますために存在しています。譲歩や妥協は、罪深い行動や悪習慣をつくるために存在しているのではありません。

                     『原稿』26a,1892 [65]

4.神との協力

 人間は、神が人間に与えた能力によってあらゆる力を働かせて、神と協力するために存在しています。人は、生活のあらゆる習慣の中で、飲んで食べて正しく行動する者であることについては、無知になるように存在しているのではありません。主は、主の働き人達が、全ての人に尊敬されて責任を取る存在で、理性のある行動をするように意図しています。……

 私達は、神が与えた光/知識の一筋でも軽視することができません。勤勉を求めるそれらの事柄に私達の行動が怠惰なことは、罪に関わっていることです。主の働き人は、必要としている人々の感情の内側にいて、神と協力するために存在しています。このことを行なうために、人間は、彼の精神と傾向と活動を支配するための恵みを永遠に所有するよう、神への祈りによって、疲れないように元気でいる必要があります。キリストの恵みを与えられることを通して、人は勝利を可能にするでしょう。一人の勝利者になることは、多くの人々がその意味を考える以上のことを意味しています。

 悔い改めが神の贈り物で、[それは]キリストが魂を引き寄せているという根拠の一つなので、神の聖霊は、すべての悔悟する[人の]心の叫びに応えるでしょう。私達は、もしも、キリスト無しに許されることが不可能ならば、キリスト無しに罪を悔い改めることはもっと不可能です。人が必要とするすべてのために、主に信頼し信じて、イエスに真っすぐ道を進んで行くことは、その人の人間性の感情とプライド(自慢の混じった自尊心)にとってひとつの屈辱です。……

 神は、協力しない人のためには何もしないので、勝利の偉大な働きを行なうdoために、何もしないやほとんどしないという考えを表す人がいないようにしましょう。あなたの側でできることを全てやった後で、イエスがあなたを助けるでしょう、というものではありません。キリストはこう言いました。「[神性に関することについて]私がいなければ、あなた方は何事も行なうdoことができません」(ヨハネ15:5 KJV)。初めから終わりまで、人間は神と共に労する人の一人であるように存在しています。神の聖霊がその人の心に働いているのでなければ、あらゆる歩みにおいて、私達はつまずいてしくじるでしょう。人間の様々な努力だけでは、無価値なばかりか何も残りません。しかし、キリストとの協力は一つの勝利を意味しています。私達自身について、私達は罪を悔い改める力がありません。私達は、神性の援助に近づかない限り、救い主に向けた一歩を踏む出すことができません。主は、全ての魂の救いにおいて、「私は、アルファでありオメガです。初めであり終わりです」(黙示録21:6)。と言っています。

 キリストは全てではありますが、私達は、全ての人が弱らない勤勉さを奮起させるために存在しています。ずるい敵に打ち負かされないように、私達は、祈り、警戒し、努力し、格闘し、励むために存在しています。神から来ているこのことを行なうdoことができる恵みと力によって、私達は主を信頼するために存在しています。一方で、主は、全ての人々、主によって神に行く全ての人々を最高に救うことができます。人間の側に行なうことが何もないかほとんどないというように、この教会の人々の知性にその印象を残してはいけません。しかし、そうではなくて、神と協力することを人々に教えてください。その人は、困難を乗り越えることに成功するようになるでしょう。

 自分のいろいろな働きworksは、神の前の自分の位置と[社会的な]層で行なうdoためのものが何もないと言う人がいないようにしましょう。神の審判における宣告の一語[御国を受け継ぎなさい]は、何が行われたか、または、行われずに残ったかによります(マタイ25:34-40[これらの最も小さき者にしたのは私にしたのです])。

 尽力と労苦は、その人/木の品性/特徴を現しているその実なので、キリストの恵みを受ける側に求められています。人間のいろいろな良い働きworksはイエスの中の信仰なしで価値がないならば、キリストの功績で覆われていないカインの捧げ物もまた価値のないものでした。それらは永遠の命を受け継ぐために行なう人には価値がないことを証ししました。この世界の人々の道徳として考えられるそれは、神性の標準に届かず、カインの捧げ物をするより以上に、天の前に功績がありません。         『原稿』26a,1892 [65]

 

5.神の聖霊に委ねている間に

 クリスチャンであることを意味しているという感覚の気づきを持っている全ての人々は、全ての頽廃と汚れから自分を清めているでしょう。その人の生活のあらゆる習慣は、真理の御言葉の求めとの調和をもたらされるでしょう。その人は、神の聖霊の品性の形成[の働き]に委ねる一方で、信じているだけではなく、畏れとおののきをもって自分の救いを達成しようと働くでしょう。

               『レビュー&ヘラルド』1886.3.6 [59]

 

6.イエスは私達の心構えを受け入れている

 神への従順が心の中に存在している時、また、いろいろな努力がその終わりまで全力を尽くす時、イエスは、人間の最善の奉仕として、この処置と努力を受け入れています。そして、彼は自分自身の功績によって[人間の]その欠如を飾り立てています。しかし、彼は、自分の父の戒めに不忠実で、自分の信仰をもっていると主張する人々を受け入れないでしょう。私達は、信仰について、大いに伝えられて聞いています。しかし、私達は、いろいろな働きについて、もっと大いに聞く必要があります。多くの人々は、十字架の無い宗教に順応して、呑気な生活によって、自分達自身の魂をだましています。しかし、イエスはこう言っています。「誰でも、私の後についてきたいならば、自分を否定して、そして、自分の十字架を負って、そして、私についてきなさい」。

           『サインズ オブ ザ タイムズ』1890.6.16 [63]


 

61章 キリスト、私達の義

 

 

 

 

 

1.キリストがメッセージの中心 [41]

 第三天使のメッセージは、[十戒の]4番目の安息日を紹介するため、と言われています。そして、この真理は世界の人々の前にもたらされる必要があります。しかし、その大きな催し[再臨]attractionの中心、イエスキリストは第三天使のメッセージの外に置かれてはいけません。この時代の人々のための働きに繫がった多くの人々によって、キリストは、第二のものとされて、神学理論と論争が第一の場所に置かれました。神性の品性に関してモーセに現された神の栄光は、目立つものは述べられませんでした。主はモーセに言いました。「私は、汝の前に私のすべての良きものを通らせて、述べるでしょう」(出エジプト33:19)。「そして、主は、彼の前だけを通り越して、宣言しました。主、主なる神、憐れみと恵みが豊かで、寛容で、善意と真実に富み、数千代にまで恵みを施し、罪と違反と罪責を赦し、しかし、罪を清める意図のない者だけに命令をくだします」(出エジプト34:6,7 KJV)。

 一つの被いが神の人類救済目的の中で労した多くの人々の目の前にあるように見えました。人々が神の律法を示された時に、人々はイエスが視界に入りませんでした。そして、人々は、罪が満ちた所では、恵みが多く現れて満ちた事実を宣言しませんでした。義と平和がキスしたのは、また、憐れみと真理が互いに会ったのは、カルバリーの十字架上でした。罪びとは、永遠にカルバリーの十字架を見る必要があります。また、彼の恵みを信じて、彼の義を受け入れて、幼子の[ような]単純な信仰と共に、人はキリストの功績の中に安らぐ必要があります。真実の人類救済目的に従事する人々は、人々の[霊的な]視界が失われた時のために、新しい光としてではなく貴い光として、キリストの義を現す必要があります。私達は、キリストを個人的な救い主として受け入れるために存在しています。また、彼は、キリストの中にある神の義を私達に授けています。私達は、ヨハネが記述した真理を卓越したものにつくって繰り返しましょう。「ここに愛があります。私達が神を愛したのではなく、神が私達を愛しています。そして、私達の罪のために贖いとなるために神の息子を送りました」(1ヨハネ4:10 KJV)。

 神の愛が開かれたことによって、最も素晴らしく貴い真理の鉱脈とキリストの恵みの宝は、世界の人々とこの教会の人々の前に開示して置かれました。「神は、この世界の人々をとても愛したので、自分のひとり息子を与えました」(ヨハネ3:16 KJV)。私達がまだ罪びとであった時に、キリストが死ぬように導いたという、これはなんという愛でしょう。何と素晴らしい、なんと計り知れない愛でしょう。それは、多くの満ちているものを施すキリストの恵みの理解にしくじっている人にとって、また、律法を強く主張して理解している魂にとってなんという犠牲でしょう。この罪の世界の人々へのキリストの贈り物は全ての講話や説教にたくさん織り込まれる必要があるので、神の律法が神の愛を現しているということが、イエスの中の真理として教えられた時、それは真実です。それが冷たく命のない方法によって紹介された時に、人々の心がこの真理によって和らげられなかったのは不思議ではありません。牧師達と働き人達が、神の律法と恵みの関係によって、イエスを紹介することに失敗していた時、[彼らの]信仰が神の約束にたじろいでいたのも不思議ではありません。彼らは、なんとたびたび、この教会の人々に保証して請け合っていたことでしょうか。「神は、一人ひとり息子を残さず惜しみませんでした。それだけではなく、私たちすべてのために自分自身を手放しました。神は、御子と共に全ての物を私達に無償で与えるのではないでしょうか」(ローマ8:32 KJV)。

 人々を悔い改めに導くことは神の善意なので、サタンは、人々が、失われた人類を救済するために一人息子を与えるように導いた神の愛がわからないだろうと、決めつけていました。どのようにしたら、私達は、貴い神の愛を、世界の人々に詳しく表明することに成功するのでしょうか。私達には、語気を強めて言う以外に、それを達成できる方法がありません。「天の父が私達に授けた愛の方法を見上げなさい。私達は神の子ども達と呼ばれるでしょう。この世界の人々は、神を知らないので、私達を知りません」(1ヨハネ31 KJV)。罪びと達に言いましょう。「世界中の人々の罪を取り除く、神の子羊を見上げなさい」(ヨハネ1:29)。私達はイエスキリストに現れていた言語で言い表せない神の愛と憐れみを[自分の目で]見ることはできないので、天の父の代表として、イエスを紹介することによって、私達は、サタンが私達の人生の小道に投げかけていた影を追い払うことができるでしょう。

 

2.イエスを見上げましょう

 カルバリーの十字架を見上げましょう。それは、天の父の計り知れない憐れみと、無限の愛の堅い約束を立てています。それは、全ての人々が悔い改めて、自分達の最初の働きを始めるかもしれません。この教会の人々がこのことを行なう時、その人々は、神と隣人達を自分自身のように、最高に愛するでしょう。「エフライムはユダをうらやましく思わなかったでしょう。ユダはエフライムをまごつかせなかったでしょう。障壁は、その時に癒されたことでしょう。どぎつい争いの声は、イスラエルの境界線の中でまったく聞かれないでしょう」[訳者加筆。この3文は、ホセア5:4,7:1、イザヤ7:17,ゼカリヤ9:13です]。彼らに無償で与えられる神の恵みを通して、全ての人々は、キリストの祈りに応えようとするでしょう。主の弟子達は、主とその父が一つであるように、一つとなるでしょう。平和、愛、憐れみ、慈悲が、その魂の原則をとどめるようになるでしょう。キリストの愛は、あらゆる人々の言葉のテーマとなるでしょう。そして、「そなたたちは、汝らの初めの愛を置き去りにしてしまったので、私は、汝らに都合の悪いことを話します」(黙示録2:4)は、真理の証し人によって、まったく言われないでしょう。全ての人々の心が同じように形作られ、そして、全ての人々がキリストのかたちimageに再生され再創造されるでしょう。一つの精神/霊が全ての人々の心を活気づけ、キリストの愛が現されるでしょう。そして、神の人々()はキリストの中にとどまっているでしょう。真のブドウの木に繫がるための生きている枝たちとして、全ての人々は、生きているかしら、キリストと連なっています。キリストは、全ての人々の心に宿っていて、ガイドし、慰め、清め、そして、イエスに従う人々と連なっていることをこの世界の人々に紹介しているでしょう。このように、天を証明する証を生み出すことが、残りの教会に担わされています。キリストの教会の一致によって、神がそのひとり息子をこの世界の人々に送ったことが立証されるでしょう。

 神の人々()が霊/精神において一つである時、ユダヤの国の民の罪であったパリサイ主義のすべて、自己を義とするすべては、人々の心の中からみな放逐されるでしょう。キリストのひな形が、主の体[教会]の一人ひとりのメンバーに現れるでしょう。主の人々()は、主の新しいブドウ酒を入れることができるように新しい皮袋bottles[訳者加筆:ゴムの水枕もボトルと言います]となるでしょう。新しいブドウ酒は皮袋を壊さないでしょう。神は、何世代も隠してきたその未知を知られるようにするでしょう。彼は、「異邦人の間で、この未知の栄光の富、それはあなたの中の栄光の希望キリストです」(コロサイ)1:27[28,29]を知られるようにするでしょう。

 イエスは、人間の魂に神の聖霊を授けるために来ました。神の愛は人の心に広く注がれました。しかし、自分達の考えが固まっている人、教理がみな固定観念にとらわれていて変化できない人々、人々の言い伝えや伝統の後に従って歩んでいる人、キリストの時代のユダヤ人のような人に、その聖霊を授けることは不可能なことです。その人々は、彼らの形式に従ってとても厳格で、教会の人々を観察して、とても几帳面でした。しかし、その人々は、活気と宗教的献身に乏しいものでした。彼らは、皮袋として利用された乾いた皮として、キリストによって描かれていました。キリストの福音は、その人々の心に置かれることはできないでしょう。そこには、それを入れる余地がありませんでした。その人々は、主が新しいブドウ酒を注いで入れるための新しい皮袋となることはできないでしょう。キリストは、自分の真理と命の教理の皮袋として、パリサイ派の人達とその律法学者の間のどこかほかの所で恵みを施すことを求められました。彼は、心の再創造を持つために望まれる人々を見つける必然がありました。彼は、人々に新しい心を与えるために来ました。彼は「私は、あなたに新しい心を与えるでしょう」と言いました。しかし、来る日も明くる日も自己の義[を持っている人]は、新しい心を持つ必要を感じません。人々は救い主の必要を感じなかったので、イエスは、その律法学者を通り過ぎました。人々は、形式や儀式に執着していました。それらの奉仕は、キリストによって開始されたものでした。それらは、精神的な美と生気に満たされていました。しかし、ユダヤ人達はそれらの儀式から霊的/精神的な命を失ってしまいました。そして、精神的な命の後の死んだ形式を堅く信頼することが、彼らの間では途絶えました。彼らが、神の戒めと求めから離れた時、彼ら自身の求めたものを増やすことによって、神が作った以上の宗教的な要求を作って、そして、彼らは自分達が失ったものの場所を埋めようと求めました。彼らが現していた神の聖霊と愛が少なくなってきて、厳格が発展しました。キリストは、その人々にこう言いました。「律法学者達とパリサイ派の人々は、モーセの席に着いて[命じて]います。全ての人々はそれゆえに、彼らがあなたに守るように命じることは何でも、守って行ないなさい。しかし、彼らは言っても、行なっていません。それゆえ、彼らは、重い任務と悲しみを負うように束縛し、人々の両肩にそれらを載せていましたが、彼らは、自分自身、自分の指一本もそれらを持とうとしませんでした。しかし、彼らはすべての働きを、人々に見られるために行なっています。彼らは、聖句の札を幅広く作り、自分達の衣の縁飾りを大きくし、宴会の部屋では上座を、会堂では長の席を、市場で挨拶[されること]、そして、人々からラビ、学者、先生と呼ばれることを好んでいます」。「ああ、悲しいかな、あなたがた、律法学者、パリサイ主義者、偽善者達。汝らは、ミント、アニス、クミンの十分の一を納めていますが、その律法の重要な、裁き、憐れみ、そして、信仰の内容を故意に忘れています。汝らは、これらを行なう義務がありますが、そのほかの事も行なわないで残してはいけません」(マタイ23:2-7,23 KJV)。

 この残りの教会は、その当時のユダヤ人達と同じような体験を通って行くように呼び出されています。七つの金の燭台の真ん中に降りて歩んでいる[黙示録の]その真の証をする人は、主の人々()に伝えるための厳粛なメッセージを持っています。彼はこう言っています。「そなたたちは、汝らの初めの愛を置き去りにしてしまったので、私は、汝らに都合の悪いことを話します。それゆえ、汝らが落ちてしまった時を思い出して、悔い改めなさい。そして、最初のさまざまな働きをしなさい。そうでないと、私は、汝らの所にすぐに行って、汝らのうちで悔い改める人々を除いて、汝の燭台をその場所から取り去るつもりです」(黙示録2:4,5)。神の愛がその教会に欠けてきていました。その一つの結果、自分を愛することが、新しい行動の中に湧き上がりました。神への愛の喪失と共に、兄弟達への愛の喪失もやって来ました。その教会は、エペソの教会に与えられた全ての事実描写に向き合うことでしょう。そしてまた、活気のある深い信仰にしくじるでしょう。彼らについて、イエスはこう言いました。「私は、汝らの忍耐、汝らの仕事、汝らの様々な働き、また、汝らは、いかに悪い人々をそのままにしておくことができなかったかを知っています。汝らは、使徒であると自称している人々を試し、彼らの嘘つきで、そうでないことを見抜きました。私の名のために労苦して、挫けることがありませんでした。それにもかかわらず、そなたたちは、汝らの初めの愛を置き去りにしてしまったので、私は、汝らに都合の悪いことを話します。」(黙示録2:2-4)。

 律法主義の宗教は、この時代の人々のために全く正しい宗教だ、と考えられていました。しかし、それは間違いの一つです。キリストのパリサイ派の人々への譴責は、初めの愛の心を失った人々に適用が可能です。冷酷な律法主義の宗教は、愛がなく、キリストのいない宗教なので、決して、魂達をキリストに導くことができません。数々の断食や祈りは、神への嫌悪感を引き起こし、自分を義とする精神/霊の中で実践されています。礼拝のための厳粛な集会、数々の宗教的な儀式の全部、表面的な謙遜、義務として課された犠牲、――これらの事柄を行なう者doerである、と世界の人々への証として宣言されたこれら全ては、自分自身の義と考えられます。これらの事柄は、宗教的な義務の数々を守るように注意を呼び掛けて、「この人は天国への資格を与えられています」と言っています。しかし、それは、すべて、ごまかしの一つです。いろいろな働きworksは、私たちが天国に入るための資格を買うものではないでしょう。捧げられた特別に大いなる一つの犠牲は、信じる全ての人々のために十分なものです。そのキリストの愛は、新しい命を信じている人々に活気のあるものでしょう。命の泉から湧き出る水を飲む人は、神の王国の新しいブドウ酒に満たされるでしょう。キリストの中の信仰は、正しい精神と動機が信者達の行動を起こすことにより、意味のあるものでしょう。また、あらゆる善意と天使のような心が、信仰の創始者であり完成者であるイエスを見ているその人に始まるでしょう。人々を見ないで、神を見てください。神は、あなたのいろいろな欠点を負って、それらを癒してゆるすように忍耐して思っているあなたの天の父です。「これは永遠の命です。人々は、そなたが遣わしたイエスキリストと唯一の真の神、そなたを知ることでしょう」(ヨハネ17:3 KJV)。キリストを見上げることによって、あなたは、あなたの自己の義と不信心、以前の虚栄心と高すぎる自己評価、以前のプライド(自慢の混じった自尊心)を嫌うようにまで、変えられるようになるでしょう。あなたは、役に立たない重荷として、それらの罪をわきに投げ捨てるでしょう。そして、神の前に、謙虚に、柔和に、信頼を表して歩むでしょう。あなたは、神の子としてとどまって、すべての恵み、憐れみ、親切、優しさ、忍耐、愛を実践するでしょう。そして、ついに、清められた聖なる人々の間の位置を見つけるでしょう


 

62章 キリスト、私達の義

 

 

 

 

 

1.信仰による義 [42]

 神は、罪びとが受けるに値するその罰を免除して罪を赦している時、また、その人には罪がなかったとみなして、その人を遇している時、キリストの義の功績を通して神性の好意によってその人を受け入れています。その罪びとは、世界の堕落した罪びとのための捧げ物となった、神の愛する息子を通してつくられた、贖いへの信仰を通してのみ義とされることができます。自分自身のどのような働きによっても義とされる人はいません。人は、キリストの受難と死とよみがえりの効能によってのみ、違反の罪の刑罰から、主の律法の譴責から、罪の罪過から解放されることができます。信仰は、義を得ることができる唯一の条件です。そして、信仰は信条だけではなく信頼を含んでいます。

 多くの人々は、キリストへ有名無実の信仰を持っていますが、その人々は、十字架につけられよみがえった主の功績に相応しい主への生きた信頼を何も知りません。この有名無実の信仰について、ヤコブはこう言っています。「汝は、神は一人だと信じています。それはいいことです。悪の者達も信じて恐れています。しかし、汝は、愚かな人、様々な働きのない信仰は死んだものだということを知りたいのですか」(ヤコブ2:19,20 KJV)。多くの人々は、イエスキリストはこの世界の人々の救い主だということを認めています。しかし、同時に、その人々は、自分から主を離しています。そして、自分達の罪を悔い改めることにしくじり、自分達の個人的な救い主としてイエスを受け入れることにもしくじっています。彼らの信仰は、特別な真理を判断し、そして、考え方の同意に単純です。しかし、品性を変容させてその魂を清めるかもしれないという、その真理は心にまで届いていません。「神は予知していた人々のために、神の息子のかたちに形成しようとしてあらかじめ定めていました。彼は、多くの兄弟達の間で最初に生まれた者となるでしょう。あらかじめ定めていた者達をさらに呼びだして、呼びだした者達をさらに義として、彼らに栄光を与えました」(ローマ829,30 KJV)。呼び出しと義認は一つでも同じことでもありません。呼び出しcallingは、キリストへの罪びと達の引き寄せです。そして、それは、悔い改めに導き、罪を確信させて、その人の心に主の聖霊によって念入りにされた一つの働きです。

 多くの人々は、救いの働きの最初の第一歩として、何をするかということに困惑しています。悔い改めは、その人がキリストの所に行くようにするために、罪びとがしなければならない一つの働きとして考えられています。その人々は、神の祝福を得るように自分を合わせなければならないと考えています。しかし、悔い改めには赦しが必要というのは真実ですが、神に受け入れられるということは、心が砕かれて悔い改めることだけにあるので、また、罪びとは自分で悔い改めをもたらすことができないので、言い換えれば、自分でキリストの所に行く用意をしているだけです。罪びとは悔い改めないと、赦されることが不可能です。しかし、悔い改めは、キリストの贈り物なのか、あるいは、罪びとの特別な働きなのか、について解決すべき疑問が存在しています。罪びとは、キリストの所に行くことができる前に、自分の罪の激しい悔恨に満たされるまで、待たなければならないのですか。キリストへの最初の第一歩は、神の聖霊の引き寄せを通ることです。人がこの引き寄せに応答している時、その人は、悔い改めをするようにキリストに向かって前進しています。

(訳者加筆。つまり、悔い改めは、「神と人との協力」によるものだということです。彼女は、SMの第2巻のp.32,「前編」のp.26に聖化においても「神人協力説」を書いています)

 罪びとは、迷子になった一匹の羊として表されています。そして、迷子になった羊は、探された後で、その羊飼いによって抱えられて連れ戻されない限り、その小屋に戻ることは決してありません。義の祝福に属する価値を自分でつくることができて、また、自分で悔い改めることができる人はいません。主イエスは、罪びとの知性に感銘を与えて、世界の人々の罪を取り除く、その神の子羊、自分を見上げるようにと惹きつけて、いつも探しています。

 イエスが、悔い改めたことがない人を悔い改めの必要[を知る]悔い改めの体験に導いていて、魂に力を与え、引き寄せている時を除いて、私達は霊的な生活への第一歩を踏み出すことができません。大祭司達とサドカイ派の人々の前にいた時、ペテロは、悔い改めが神の贈り物であるという事実を明白に提示しました。キリストについて語って、こう言いました。「イスラエルに悔い改めを与えて、罪を赦すために、神は彼を救い主、王として、自分の右に高めました」(使徒言行録5:31 KJV)。悔い改めは、神の贈り物である赦しと義以外の何ものでもありません。そして、それは、キリストによってその魂に与えられる時を除いて、体験することができません。私達がキリストに引き寄せられているならば、それは、彼の力と善意を通したものです。悔恨の恵みは彼から来ています。また、義も彼から来ています。

 

2.信仰の意味

 パウロはこのように書きました。「しかし、信仰による義は、この知恵において語っています。汝の心の中で、誰が天にのぼるのでしょうか、と言ってはいけません(それは、キリストを上から引き下ろすことです)。あるいは、誰が深い地中にくだるでしょうか、と言ってはいけません(それは、キリストを死から引き上げることです)。では、それはなんと言っていますか。その言葉は汝の近く、汝の口、汝の心にさえあります。それは、私達が教えて来た信仰の言葉です。汝が口で主イエスを告白するならば、神が彼を死からよみがえらせたことを汝の心で信じるならば、汝は救われるでしょう。なぜなら、人間は心で義を信じ、口での告白が救いを与えられるからです」(ローマ10:6-10 KJV)。

 救いに至る信仰は、普段着の信仰ではなく、それは単なる知的な同意でもなく、それは、彼によって神に来る人々全ての人々を最高に救うことができるということを確信して、キリストを個人的な救い主として抱擁している、心に根差した信条です。キリストがほかの人々を救うだろうということを信じるけれど、自分を救わないだろうというのは真の信仰ではありません。その魂が、救いの唯一の希望としてキリストを捉える時にだけ、真の信仰が現されています。この信仰は、キリストに魂の感情のすべてに平和を所有するように導いています。その人の理解は、主の聖霊の支配の下にあります。そして、その人の品性は神性に近いものに似て形成されています。その人の信仰は、死んだ信仰ではなく、神性の品性に似たものとなるよう、また、キリストの美を見上げるよう導いていて、愛によって働いている一つの信仰です[申命記30:11- 14]。「そして、汝の神、主は、汝の心と汝の子孫の心に割礼を施す[心の清め]でしょう。汝の魂のすべてで、汝の心のすべてで、汝の神、主を愛するために、汝は生きるでしょう」(申命記30:6)。

 心に割礼を施すのは神です。その全体の働きは、初めから終わりまで、主のものです。その滅んでいた罪びとは言うでしょう。「私は失われていた罪びとの一人です。しかし、キリストが失われていた者を救うために探しに来ました。主はこう言っています。‟私は義人を招くために来たのではありません。罪びと達を悔い改めに導くために来ました”(マルコ217)」。私は罪びとの一人ですが、彼は私を救うためにカルバリーの十字架の上で死にました。私は、もはや、救われない一瞬も残されることがありません。彼は、私の義のために死んでよみがえりました。そして、彼は今も私を救っているでしょう。私は彼が約束した赦しを受け入れています。

 

3.帰負(帰属)される義

 キリストはよみがえった救い主です。彼は死にましたが、彼は再び生き返りました。私達の執り成しをするためにいつまでも生きています。私達は、口が救いを告白するため、心が義を信じるために存在しています。信仰によって義とされた人々はキリストを告白するでしょう。「私の言葉を聞いて、私を遣わした方を信じる人は、永遠の命を持っています。有罪宣告の中に行かないでしょう。死から命へと通り過ぎています」(ヨハネ5:24 KJV)。悪の者によって汚され染みをつけられた罪びとのためになされた偉大な働きは、義認に属する働きです。真理を語る主によって、人は義を宣告されました。主は、信者達にキリストの義を帰負/帰属させていて、全宇宙の存在者の前でその人の義を宣告しています。主は、罪びとの代表、身代わり、保証人として、人の罪をイエスに移動しています。主は、信じている全ての魂の罪過をキリストに置いています。「彼は、私達の罪のために、罪を知らない人を罪にしました。そうして、私達が彼によって神に属する者とされるでしょう」(2コリント521)。

 キリストは、全世界の人々のための罪責のため贖いをなしました。信仰によって神の所に行く全ての人は、キリストの義を受け取ることでしょう。「罪のために死んだ存在、あの木の上で、自身の体の中で私達の罪を自分自身で負った人によって、私達は義として生きているでしょう。縞模様の傷によって、汝らは癒されました」(1ペテロ2:24 KJV)。私達の罪は、贖われて、捨てられ、大海の深みに投げ捨てられました。悔い改めと信仰を通して、私達は罪を取り除かれて、私達の義、主を見ています。イエスは、不義のゆえの正義を耐え忍びました。

 罪びとらとしてですが、私達は主の律法の有罪宣告の下にいます。また、その律法への主の従順の報いによって、キリストは、主自身の義の功績を悔い改める魂に呼び掛けています。キリストの義を得るために、その悔い改めが知性と精神と行動をすぐに変える働きをしていると知ることは、罪びとに必要なことです。変容の働きworkは心の中で始まる必要があります。その存在者のあらゆる能力を通したそれ自身の力が現れてきます。しかし、人々に様々な贈り物を与え、能力から能力へと導き、高き所に昇天したキリストを通してだけ、その体験ができますが、人間はこのような悔い改めを始める能力はありません。

 誰が、本当に悔い改めた人になりたいと望んでいますか。何をする必要がありますか。その人はぐずぐずすることなく、イエスのいる所に行く必要があります。その人は、神の言葉は真実だということ、その約束を信頼し、求めて、そうして、受け取ることができる、と信じる必要があります。誠実な望みが人々に祈りを促す時、その人は無益な祈りをしないでしょう。主は、主の言葉の約束を果たしているでしょう。また、私達の主イエスキリストへの信仰と、神への悔い改めに導く聖霊を与えているでしょう。その人は、祈り、気を付けて、自分の罪を捨て去り、神の戒めへの従順への努力を尽くして、自分の誠実さを現すでしょう。信じるだけではなく、主の律法の指針への従順に加えて、その人は祈りと共に信仰を添えるでしょう。その人は、その事情をキリストの側から考えていることを自分に明らかにするでしょう。その人は、神から心を引き離す傾向のあるものに関連する全ての習慣を捨てるでしょう。

 悔い改めと赦しの特別な真理を受ける必要があって、神の子になろうと思う人は、まさに、キリストの贖いを得るために存在しているにちがいありません。このことを保証された罪びとは、自分のために行なったある働きと調和した一つの努力を表明する必要があります。また、弱ることなく永遠に、人は恵みの座に懇願する必要があります。元気を回復する神の力はその人の魂に訪れるでしょう。キリストは、悔恨した人の責任を赦すだけでなく、まず、悔恨させて赦しています。備えられた対策は完全です。キリストの永遠の義は、信じている全ての魂の記録に載っています。天の機織り機で織られた染みのない高価な衣は、悔い改めて信じている罪びとに提供されました。その人はこう言うでしょう。「主は義の衣で私を覆い、主は救いの衣を私に着せたので、私の魂は、私の神によって喜ぶでしょう。私は主を大いに喜ぶでしょう」(イザヤ61:10 KJV)。

 豊かな恵みは、信じる魂が罪から解放されて守られるように提供されました。無尽蔵の天の倉、天のすべては、私達の意のままの場所に置かれました。私達は、救いに関した良いものを引き寄せるために存在しています。キリストは信じる全ての人々の義のための律法の終わりです。私達自身の中では、私達は罪びとです。しかし、キリストの中では、私達は義です。キリストの義が帰負/帰属したことを通して、私達に義が持たされ、神は私達を正しいと宣告しています。そして、正しいとして私達を待遇しています。キリストは、私達を彼の親しい子どもとして見ています。キリストは、罪の勢力に逆らって働いています。そして、罪の多かった所では、恵みもまたとても多いものでした。「このように、信仰によって義とされたので、私達は、私達の主イエスキリストを通して、神の平和を得ています。私達は、立っているここで、この恵みへと信仰によって近づいています。また、私達は神の栄光の希望によって喜んでいます」(ローマ5:1,2 KJV)。

 「[全ての人々は]イエスキリストにある贖いを通した彼の恵みによって、無償で義とされた存在です。神は、神の寛容を通した、過去に存在した罪の赦免のために彼の義を宣言して、彼[イエス]の血への信仰を通した一つの贖いがあることを表明しました。私[パウロ]はこの時に、彼[罪びと]の義を宣言するために言います。彼[罪びと]は、イエスを信じていてイエスに属する正しい者です。彼を正しい者としてよいでしょう」(ローマ3:24-26 KJV)。「汝らは、信仰を通して、恵みによって救われました。それは、あなた方自身に属しているものではなく、神に属しているものです」(エペソ2:8 KJV[ヨハネ1:14-16題目編纂者]

 

4.聖霊の約束

 主は、信仰において、――その人々のために豊かに提供した偉大な救済について無知ではない――健全な主の人々()を持っているでしょう。その人々は、この働きが現在完全なので、自分達に行なわれるために存在している偉大な働き[]未来のある時にという考えで、前進的に見るように存在していません。その信者達は神の平和を自分でつくるために呼び出されていません。その人はこれを行なうことができるかさっぱりわかりません。その人は、自分の平和として、キリストを受け入れるために存在しています。キリストは、あの木の上で自分の体に罪の呪いを負って、罪に終止符を打ちました。そして、個人的な救い主として自分を信じるの全ての人々からその呪いを取り去りました。そして、彼は、信者達の品性と生活にキリストの恵みの真の品性を明らかにして、心の中の罪の支配の力にも終止符を打ちました。全ての信者達は、律法の有罪宣告とその呪いと同じく、汚れから放たれる必要があるので、主を求める人々に、イエスは主の聖霊を授けています。キリストが私達と共に働いていて、主の義が私達にあるので、真理の清める主の聖霊の働きを通して、主を信じる者達は、天の法廷に合ったものとなっています。これがない魂は、天への資格が与えられていないでしょう。私達は、キリストの精神/霊と義の感化による清い雰囲気の資格を得ない限り、天を楽しむことがないでしょう。

 天への志望者になるために、私達は主の律法が求めていることに向き合う必要があります。「汝らは、全ての心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、知性を尽くして、汝らの神、主を愛するでしょう。汝らと同じように汝らの隣人も愛するでしょう」(ルカ10:27 KJV)。私達は、信仰によってキリストの義を捉える時だけ、これを行なうことができます。イエスを見上げる時、私達は、心の中に原則を広げる一つの活力を受け取ることができます。そして、聖霊はその働きworkを担っています。そして、信者達は、品性から品性へ、力から力へ、恵みから恵へと前進しています。その人は、キリストの知的・道徳的に満ちた能力の丈に達して霊的に成長するまでずっと、キリストのかたちimageを形成しています。このように、キリストは、罪の呪いに終止符を打っています。また、罪の行動とその結果の束縛から信じる魂を解放しています。

 唯一、キリストはこのことを行なうdoことが可能です。「人々の罪のための和解を成し遂げるために、彼は、神に関連する事柄に忠実な大祭司、慈悲深い者になって、全ての事柄において兄弟達のようになることが、彼にとって相応しいことでした。彼は試練を受けて苦しんだので、試練を受けている人々を助けることができます」(ヘブライ2:17,18 KJV)。和解は、神と人間との間の断絶が取り除かれることです。そして、その罪びとが神の愛の赦しに気づくことを意味しています。罪に落ちた人間のためにキリストによって備えられた犠牲の道理によって、神は、キリストの功績を受け入れる律法違反の罪びとを赦して、正しいものとすることができます。キリストは、憐れみと愛を通して、神の心から、罪びとの心に義を注ぐことができるチャンネルでした。「私達が自分達の罪を告白するならば、彼は、全ての不義から私達を清めるような、また、私達の罪を許すような真実で正しい存在です」(1ヨハネ19 KJV)。

 ダニエルの預言の中に、キリストについてこう記録されています。彼は「不正の悪のための和解を作り、そして、……永遠の義をもたらす」でしょう(ダニエル9:24)。全ての魂はこう言うでしょう。「主の完全な従順によって、主は、神の律法の要求を成し遂げました。そして、私の唯一の希望は、主を私の身代わりと保証人として見ることによって見つかりました。主は、私のためにその律法に完全に従順でした。主の功績を信じることによって、私は、その律法の有罪宣告から解放されています。主は、私に主の義を着せています。それは、その律法のすべての要求への答えです。私は、永遠の義をもたらしている主の中で完全な存在です。主は、どんな人間の働き手も使わなかった糸で織った染みのない衣によって、私に神を表しています。世界の人々の罪を取り除く、神の子羊に与えられるために存在している権威と、尊敬、そして、すべての栄光、全ては、キリストに属しています」。

 多くの人々は、キリストの所に行くためには特別な動機[が訪れるの]を待っている必要があると考えています。私達に届けられた恵みと憐れみの捧げ物を受け入れることを決心して、目的の厳粛さが来ることだけが必要です。私達は、次のように言うために存在しています。「キリストは私を救うために死にました。その主の望みは、私が救われていることでしょう。そして、私はぐずぐずすることなしに、すぐにキリストの所に行くつもりです。私はその約束に賭けるつもりです。キリストが私を引き寄せている時、私は応答するでしょう」。かの使徒はこう言っています。「人間は心で義を信じ」(ローマ10:10 KJV)。神の言葉が禁じている事柄の実践を続けることによって、または、何かの義務を知ることを怠りながら、信仰によって義を得ること、心で義を信じることのできる人はいません。

 

5.良い働き、信仰の実

 良い働きは信仰の実なので、真の信仰はいろいろな良い働きの中に現されるでしょう。神が心の中で働いている時、その人は、自分の意思を神に明け渡して、そして、神が聖霊によって働いている活動を行なって神と協力しています。そして、その活動と心の目的の間には調和があります。あらゆる罪は、命と栄光の主を十字架につけた嫌われものとして放棄される必要があります。信者達はキリストの働きを行ない続けることによる体験の進展をもつ必要があります。義の祝福が保たれるのは、意思の明け渡しを続けることによって、また、従順を続けることによります。

 信仰によって義とされた人々は、主の道を保つように心を持っている必要があります。人の働きが自分の言ったことと一致していない時に、その人が信仰によって義とされないことが、[その]根拠の一つです。ヤコブはこう言っています。「汝らが知っているように、信仰が彼の働きと共に機能し、そして、様々な行動によって信仰が完全に作られたのではありませんか」(ヤコブ2;22 KJV)。

 良い働きを生み出さない信仰は、その魂を義としません。「汝らは、信仰だけによってではなく、人間が様々な働きによって義とされるのを見て知っています」(ヤコブ2:24 KJV)。「アブラハムは神を信じました。そして、それ[信仰]は義のために彼のものとされました」(ローマ4:3 KJV)。

 キリストの義が帰負(帰属)されることは、信仰による義を通してやって来ます。また、[それは]、パウロが熱心に取り組んだ義です。彼は、こう言っています。「それゆえ、主の律法を行なうことによっては、肉[]は、主の目に義とされません。なぜなら、その律法によっては罪の知識が存在しているだけです。しかし、今、預言者達とその律法によって、神の義がその律法なしに現されました。神の義は、信じる全ての人々にとって、全て、イエスキリストに属する信仰によって存在しています。そこには差別がありません。全ての人は罪を犯したので、神の栄光に達することができません。[すべての人々は]、イエスキリストにある贖いを通した彼の恵みによって、無償で義とされた存在です。神は、神の寛容を通した、過去に存在した罪の赦免のために彼の義を宣言して、彼[イエス]の血への信仰を通した一つの贖いがあることを表明しました。……すると、私達は、信仰を通して、その律法を無効にするのでしょうか。いいえ、私達はその律法を確立しています」(ローマ3:24-26 KJV)。

 恵みは、永遠に、値しない者に与えられるものです。そして、神への捧げ物を誇示することなく、信者達は自分自身のどんな功績もなしに義とされています。人は、キリストイエスの中にある贖いを通して、義とされています。彼は、罪びとの保証人と身代わりとして天の法廷に立っています。しかし、キリストの功績のゆえに義とされている一方で、その人は不義を働くことに自由ではありません。信仰は、愛によって働いていて魂を清めています。信仰は、枝の芽であり、つぼみであり、素晴らしい実の収穫を生み出しています。信仰が存在する所に、良い働きが現れます。病人が訪問され、貧しい者が世話され、父のない子らと寡婦たちが顧みられないことなく、裸の者に衣服が着せられ、極貧の人に食物が与えられます。キリストは良いことを行なうためにあちこちに行きました。人々がキリストに同行した時に、人々は神の子ら好印象を持ちました。そして、柔和と真実が彼らの歩みをガイドしました。顔立ちの印象は彼らの体験を明らかに示していました。そして、その人々は、イエスと共にいた人々[弟子達]についての知識を得ました。そして、イエスについて学びました。キリストと信者達は一つになっています。そして、彼の品性の美が、愛と力の源の方と命に関わっているほど、繫がっている人々に明らかにされています。キリストは、義と清める恵み、義の偉大な保管者です。

 全ての人々は、彼の所に行って、そして、彼の満ちている恵みを受けることができるでしょう。彼はこう言っています。「重荷を負って苦労している汝ら全ては、私の所に来てください。私は、あなた方に休息を与えましょう」(マタイ1128 KJV)。その時、なぜ、すべての不信仰を捨てて、イエスの言葉に注意を払わないのですか。あなたは、安らぎを求めていて、平安を望んでいます。その時、心から言いましょう。「主イエス、汝がこの招きを私に与えたので、私は行きます」。堅い信仰で、彼を信じてください。彼はあなたを救うでしょう。あなたは、信仰の創始者で完成者であるイエスを見たことがありますか。真実で恵みに満ちている彼を見上げたことがありますか。キリストだけが与えることのできる平安を受け入れたことがありますか。もしも、あなたがそれらのことをしたことがないならば、彼に明け渡して、そして、彼の恵みを通して一つの品性を探し求めてください。それは、高貴なもので、高尚にされるでしょう。いつも、変わらず、心からの精神で、求めてください。キリストに養われてください。彼は命のパンです。あなたは彼の品性と精神の愛らしさを現すでしょう。


 

63章 キリスト、私達の義

 

 

 

 

 

1.特別に高価な真珠 [43]

 「神はこの世界の人々をとても愛しました。神は、彼を信じている人々が一人も滅びないで、永遠の命が得られるように、ひとり子を与えました」(ヨハネ3:16)。彼は、きのうも今日も、そして、いつまでも同じです。キリストの義は、純粋の白い真珠のようで、欠陥も染みも罪もありませんでした。この義は、私達のものとなるでしょう。主自身の血がもたらしているきわめて貴重な宝は、特別に高価な真珠です。それは、探し求められて見つけられるでしょう。しかし、実際にそれを見つけた多くの人々は、それを買うために自分達が持っている物を全て売るでしょう。人々は、キリストが天の父と一つであるのと同じく、自分達がキリストと一つであるという証をしています。譬え話の中で、その商人は、一つの高価な真珠の所有権を得るために、彼が持っていた全てを売り払っている者として表されています。これは、それを所有するために、人々は全てを放棄するために行かなければならないという、その高貴な真理に相応しい人々を美しく表しています。その人々は、神のひとり息子の犠牲、自分達に提供された救いを信仰によって捉えています。

 美しい真珠を探して、いつも探している人々がいます。しかし、その人々は、自分達の良くない習慣を全部、放棄することをしようとしません。その人々は、キリストがその人々の中で生きることができるように、利己主義に死んでいません。そのために、その人々はその高価な真珠を見つけることができません。その人々は、世俗が惹きつけるものへの愛着と清くない野望に打ち勝てていません。その人々は、あの十字架を掲げないし、自己犠牲と自己否定の小道の中のキリストについて行こうとはしません。全体的な明け渡し無しに、安らぎも喜びもないので、その人々は、それが、魂の中で平和と調和を持つために存在しているということを決して知りません。ほとんどのクリスチャン達は熟達したクリスチャンではありません。その人々は天の王国に近づいているように見えますが、その中に入ろうとしません。ほとんど全部が救われたのではないということは、ほとんど[救われた]ということではなく、全部が失われた、ということを意味しています。

 神への日毎の献身は、平安と安らぎをもたらしています。その商人は、その高価な真珠を所有するために全てを売らなければなりませんでした。救いを求めているこれらの人々が、失敗や挫折することを拒否する時、彼らは主にある安らぎと平安を見出すでしょう。キリストは、彼らに自分の義を着せるでしょう。彼は、彼らに清い心と新しくされた知性を提供するでしょう。これらの祝福は、神の息子の命という犠牲が払われています。また、捧げられたその犠牲は彼らのために無償で提供されました。しかし、どれほど多くの人々が、その申し出された贈り物をもてなしているでしょうか。彼らは、この命/生活の喜びではないものを選んで、離れて行っています。キリストは彼らについて言いました。「汝らは、命を得ようとしていますが、私のもとに来ようとしていません」(ヨハネ5:40 KJV)

 罪びと達は、恐ろしいだましの下にいます。彼らは、救い主を嫌って拒んでいます。彼らは、自分達に提供されているあの真珠の価値に気づいておらず、侮辱と嘲りだけを贖い主に示して、それを投げ捨てています。多くの女性は、誉め言葉を得ようと考えて、腕輪やブレスレットで自分自身を飾っています。しかし、彼女は、彼女の聖化や尊敬や永遠の富を保証するような、とても高価な特別の真珠を受け入れることを拒んでいます。一つの夢中にさせるものが、なんと多くの人々の知性に存在しているものでしょう。その人々は、忠誠という神の報酬、不死の命の冠よりも、とてもキラキラと光る世俗の安物の飾りを気に入っています。「花嫁は自分の衣裳を、女中は自分の飾りを忘れることができますか。ところが、私の民は、その日を数えることがないままに、私を忘れてしまいました」(エレミヤ2:32 KJV)。


 

64章 さらなる光/知識

 

 

 

 

 

1.「理解しなかった[霊的な]無知の闇」[44]

 「初めに言葉がありました。その言葉は神と共にありました。その言葉は神でした。同じもの[言葉]が神と共に始まりの中にありました。全ての物は彼 [言葉] によって造られました。言葉なしに何も造られませんでしたが、それら[全ての物][言葉によって]造られました。彼[言葉]の中に命がありました。そして、その命は人々の光や知識でした。そして、その光や知恵は闇や無知の中で輝いています。その闇や無知はそれ[光や知識]を理解しませんでした。神から送られた一人の人がいました。その人の名はヨハネでした。その人は、特別な光/知識について証を生み出すために送られたのではなく、特別な光/知識について証を伝えて、一つの証をするために来ました。ここに、この世界に来た、全ての人々を照らす、真の光/知識がありました」(ヨハネ11-5 KJV)。

 ある質問者が、私に尋ねました。「主は、一つの人々()としての私達のために、どんなに多くの光/知識を持っていると、考えていますか」。私は、主は、私達のための新しい光/知識を持っています。また、それは、特別な真理の言葉から前に輝くために存在している古い光/知識で、貴重なものです、と答えました。私達は、私達に届くために存在している、その光の筋のかすかな光/知識だけを持っています。私達は、主が既に私達に与えた、その光/知識の多くをつくっているのではありません。そして、このように、私達は、特別に増している光/知識を受け取ることにしくじっています。私達は、すでに私達の上に注がれていた光/知識の中を歩んでいません。

 私達は、自分達を、戒めを守る人々()と呼んでいます。しかし、私達は、神の律法の諸原則にさらに到達し続けることについて、上回るパンを理解していません。私達は、神聖の品性について理解していません。特別な真理を教える教師であると言っている多くの人々は、イエスキリストについての生きた知識を持っていないので、神の律法を教える中で、彼らが行なっていることについての実際的な良い着想を持っていません。

 私達がM.ルター[1483-1546]J.ノックス[1514?-1572]、その他の主な宗教改革者達について読んだ時、神への信仰深い奉仕者達によって、私達は、その持っていた勇気と、不屈の精神と能力に感嘆しています。また、私達は、彼らを駆り立てた精神を捉えたものでした。私達は、彼らが弱さを脱して強くなった源を知りたいと願ったものでした。これらの偉大な人々は、神のための手段として利用されましたが、欠点がなかったのではありませんでした。彼らは、間違いをする人々で、大きな間違いをしました。私達は、彼らのいろいろな美点を見習うように努める必要があります。しかし、私達は、私達の基準で彼らを判断するべきではありません。これらの人々は、プロテスタント宗教改革の働きを前進させるために、稀な素晴らしい才能を持っていました。彼らは、自分自身を超えた一つの力によって動かされていました。しかし、高貴にされ栄誉を称えられるべきは、神が利用した手段としてのその人々ではなく、主の光と力を彼らの上に届けさせた主イエスです。それらの人々は真理と義を愛することを請け負って、これらの規範の擁護者に代々与えられた委託を集めて、全ての光の源なる方、神を讃えました。

 天使のようなメッセンジャーが天の事柄に関連する特別な知識の宝物を人々の前に開示するために存在していた、と宣言される必要があるならば、クリスチャン世界の中に、一つの活動のそよぎが、それ[宣言]を創るでしょう。天の雰囲気が、そのメッセンジャー達の周りに存在するでしょう。なんと、熱心な人々が、たくさん、彼らの口から出て落ちるその言葉を聞くでしょう。人々は、その天使のような人の言葉に注目を呼び掛けて様々な本を書くのでしょう。しかしそうではなくて、私達の世界の中に存在していた天使達のような人々よりも、偉大な存在者が[その天使のような人の言葉に注目を呼び掛けて様々な本を書くのでしょう]。主自身が、天の光を人々に反映するためにやって来ました。主は、肉[]の中に現れた神、恵みと真理に満ちていて、父と一つである、と自分自身を宣言しました。

 主イエス、彼は、見ることが可能な神のかたちimageで、滅び行く人間を救うために自分自身の命を与えています。おお、何という光、なんという力を、彼は、自分でもたらしています。彼の中に、父・子・聖霊Godheadの全部が満ちていて全てを宿しています。何という神秘の未知でしょう。贖いの神秘、キリストの威厳を捉えて理解することは、人間の理性では困難です。恥の十字架がほめたたえられました。爪が彼の手と足から剝がされました。冷酷な槍が彼の心臓を刺し通しました。そして、贖いの身代金が人類のために払われました。染みのない神の子羊が、その木の上で彼自身の体の中で、私達の罪を負いました。彼は、私達の悲しみを負いました。

 

2.尽きないテーマ

 贖いは、私達が深く熟考する価値があって、尽きないテーマの一つです。それは、もっとも生き生きとした想像を伸ばし、深い思考の理解を通り越しています。誰が、調査研究によって神を見つけ出すことができましたか。全ての人々に開かれていた知恵と知識の宝は、いつも私達の前にイエスを表明するために、自分の全部の時間を献身した何千という人々にたくさん贈られました。主の優れた魅力を表現する方法を研究して、彼らは決して、そのテーマを研究し尽くすことがありませんでした。著名な才能のある著者達は、素晴らしい真理をつくって知らせ、そして、人々に提示して光を増しました。救済のテーマは尽きないものなので、まだ、私達の日に、私達は新しい考え、そして、働くための広い伝道地を見つけ出すでしょう。その働きは、贖いの犠牲の中に現された神の愛とキリストの品性と生涯を表明しながら、世紀から世紀を超えて前進して行きました。贖いのテーマは、永遠の世界にわたって、贖われた人々の知性で[研究の時間が]費やされるでしょう。そこでは、永遠の世代にわたって救済の計画の中に現れて、新たに豊かな発展がなされるでしょう。

 イエスは、きょうも私達と共に存在していました。彼は、その弟子達に言ったように、私達に言うでしょう。「私は、あなたがたに言うための多くの事柄を持っています。しかし、汝らは、今、それらを担って伝えることができません」(ヨハネ16:12 KJV)。イエスは、深遠な、生きている真理をその弟子達の知性の前に開示しようと望んでいました。しかし、彼らの世俗的で曇ったようなおぼろげな欠陥のある理解は、それを不可能にしました。弟子達は、偉大で光栄ある厳粛な真理から益を受けることができませんでした。霊的な成長の欠如は、キリストから輝き出る光の筋に扉を閉じています。私達は、決して、私達のための光が増加しない時に、一つの最終段階にまで達しないでしょう。キリストが言っていたことは、いつも、それらの意味の中に、さらに到達し続けることが存在していました。それらを予想した見解の教えを聞いた人々は、主の言葉に付随した主の教えの意味を理解することができませんでした。イエスは、真理の創設者、その源です。

 旧約聖書の主要なテーマは、誤って理解され、誤って解釈されました。そして、キリストの働きは、与えられた人々によって理解されていなかった真理を詳細に説明するために存在していました。その預言者達は、その論述を作りましたが、彼らが書いた霊的な論旨は、彼らによって発見されませんでした。彼らは、読んでもその真理の意味がわかりませんでした。イエスは、彼らの理解が遅いので、主の弟子達を戒めました。主の貴い教えの多くは、彼らから失われました。彼らは、主の言葉の霊的な壮大さを理解しませんでした。しかし、彼は、慰め主がやがて来ること、真理の霊が彼らの知性の失われた言葉をやがて思い出させることを約束しました。主は、彼らが知らなかった価値ある真理の貴い宝を彼らに残したという理解力を彼らに与えました。

 

3.真理の鉱脈の中の貴い宝石

 キリストの十字架刑とよみがえりの後で、主の弟子達は、真理に関する主の教えから不思議な驚かされることを聞きました。それらは弟子達にとって新しい考えだと思えたからでした、主は、彼らにこう語りました。「以前、私があなた方と一緒にいた時に、あなた方に話した言葉は、こういうことです。……それから、彼[キリスト]は、彼らの理解力を啓発したので、彼らはその言葉を理解することができました」(ルカ24:44,45)。その真理は、いつも、異なった人々の知性に新たな未来を提示し開示しています。真理の鉱脈を掘る人々はみな、貴い宝石をいつもたくさん発見するでしょう。私達は次のことを切望しています。私達の前に今開示されている真理を信じていると言う全ての人々、また、特にほかの人々に真理を教える責任を担っている人々は、聖書のいろいろなテーマのあらゆる重要な意味について、自分で明確なよい着想や概念を持っている必要があります。

 神の律法の正当性を立証する中に立っている人々は、神の精神/霊をたくさん必要としているという立場にいます。もしも、牧師達がおとなしく待っているならば、あるいは、開かれた時に、彼らがすぐにイライラさせられるならば、それは、彼らが神性の光に照らされる(啓蒙、教化され)必要があるという証拠です。彼らは、人々の魂のために働く者として、キリストの恵みを現す義務があります。イエスの中にある真理は、それが、一つの論争的なテーマとして、あるいは、一つの神学理論として提示された時から、未信者達の知性にまったく一つの異なった感化力を持っているでしょう。

 私達が、ほかの人々の考えや意見を混ぜて、それ自身の特徴をかき回して、その真理を提示するために、ただ最善を尽くしているだけならば、それは不快な異議のある光/知識の中に現れるようにするので、間違いで人を接待する人々によって、間違って理解され、間違って用いられ、間違って言われるでしょう。あなたがもたらした特別な真理のために存在している、バビロンのブドウ酒を飲んでいなかった僅かな人々がいます。特別な真理を理解することは、彼らにとって困難なことでした。そのために、それ[真理]がイエスの中にあるように、それを教える必要性[があります]

 真理を愛していると言う人々は、偉大な教師がそうであったように、心が柔和で謙遜な立場でいられます。神の言葉の鉱床の中で知的に働いてきた人々は、真理の豊かな鉱脈の中の貴い鉱石を発見していました。長い間、隠されて来た神性のいろいろな未知mysteriesは、彼らが信じる清めの力と彼らの品性の中に明らかにされることによって、全ての真理の源である主イエスを高貴にするでしょう。霊的な成功の大いなる秘訣があるので、神聖な真理の提示の中で、奨励の言葉や、祈りやいろいろな話の中で、主が明らかにされる時、イエスとその恵みは、その魂の聖所の中で祭られる必要があります。

 利己心が私達の働き人達の中に織り込まれていると、その時、私達がほかの人々に伝えた特別な真理は、自分自身の心を高尚にせず、洗練せず、そして、清めないでしょう。それ[利己心]は、主が用いるためのいろいろな器として、私達が合うものであることを証ししないでしょう。私達がイエスと親しい仲間関係を保つことができるのは、熱い祈りを通してだけに存在しています。そして、この祝福された言葉の連なりを通して、その人の精神/霊にキリストの精神/霊の芳しさがつくられています。そこには、寝ずに見張りをしないという一つの心も存在していません。貴い救い主、イエスは用心深く油断のないことを喜びました。利己心の管理は一瞬でも気を抜いてはいけません。その心は、それが命から出たものではないので、知性によって保つ必要があります。その人の寝ずの見張りといろいろな考え方の原則[によって]、あなたは、自分の口[から出る言葉]と共に罪を犯さないでしょう。


 

65章 さらなる光/知識

 

 

 

 

 

1.教理に属する論争点との向き合い方 [45]

 私達は、自分が生きているこの時代の情勢を理解したいと思っています。私達は、その半分の理解も行なっていません。私達が立ち向かわなければならない論争の相手について考えると、そして、私達がその敵対者に立ち向かう用意をすることにどんなにか貧弱なので、私の心は私の中で震えています。イスラエルの子らの試練と、キリストの初臨の前の彼らの心構えと、キリストの再臨の前の人々の体験の中で、神の民の立場を描いて、繰り返して私の前に提示されました。何と、かの敵対者は、ユダヤ人達の知性を支配するあらゆる[方法の]ために、あらゆる場合を探しました。そして、今日、彼は、神に奉仕する者達の知性を無きものにしようとしています。彼らはその貴い真理を識別することができないでしょう。

 キリストが私達の世界に来た時、サタンは地上にいました。そして、飼い葉桶からカルバリーに至る主の道の中で、進んでいくあらゆる地点で異議を唱えました。サタンが、自分自身、ほかの者達のためのどのような自己犠牲もしていなかった時に、また、彼が、自己否定が自分自身に何を意味していたかについて何も知らなかった時に、彼は、ある天使達が自己否定を求められたことについて、神を非難していました。これは、サタンが天で神に反逆して唱えた異議です。その悪の者は、天から追放された後で、自分自身を変えないで、主を執拗に攻撃し続けました。キリストは、天の父を明らかに示して、これらの間違った異議を唱える者達に立ち向かうためにこの世界に来ました。私達は、[神性の]主自身に私達の人間性を取って耐えた、この屈辱を思いつくことができません。人類に所属するということは一つの恥でした。しかし、彼は天の権威者、栄光の王でした。そして、彼は、死ぬ運命の人間に属している苦悩と欠乏を耐え忍んで、赤ん坊となるために[神性の]自分自身の身を低くしました。彼は、権力と富の人になるため、また、高い地位につくために、主自身を低くしたのではなく、彼は豊かだけれども、私達が彼の財産を通して豊かにされるために、私達のために貧しくなりました。彼は、身を低くして一歩また一歩と足を運びました。彼は、人々が、この世界の人々のための光/知識を受け入れなくても、人々のために町から町へと進みました。人々は自分達の立場に完全に満足していました。

 キリストは、真理の貴い宝石を与えましたが、人々は、間違いと迷信の瓦礫に捉われていました。彼は、人々に命の言葉を与えましたが、神の口から[出る言葉に]由来するあらゆる言葉によって生きていませんでした。それが人々の伝統によって隠されていたので、彼は、この世界の人々は神の言葉を知ることができないのだろうと見ていました。彼は、天と地に関連のある重要なことをこの世界の人々の前に置くために来ました。そして、それ自身の場所に真理を置きました。イエスだけが、救いを得ることができるように、人々が知る必要のある真理を明らかにできるでしょう。彼だけが、真理の概略の中にそれを置くことができるでしょう。そして、天の光自身によって人々の前に置いたものの間違いを解き放つことが彼の働きでした。

 サタンは、堕落して以来、全ての努力を表明していなかったので、[霊的な]無知の闇に現れる光/知識をつくるために、主に反対することに奮起しました。闇/無知は光/知識ですか。キリストが、人々の救いに関連した相応しいに真理を人々の前に置こうした時、サタンはユダヤ人の指導者達を通して働き、そして、この世界の贖い主に反対する敵意を彼らに吹き込みました。彼らは人々に一つの印象を与えてから、主を妨害するために自分達のすべての勢力で行なうことを決心しました。

 真理の偉大な宝を大祭司達に開示するために、キリストはどのように願ったでしょうか。彼の心はどのように燃えたでしょうか。しかし、彼らの知性は、主の王国に関連する真理を彼らに示すことは不可能で、二の次のことだという一つの鋳型のようなものの中に投げ込まれていました。御言葉は正しく読まれていませんでした。当時のユダヤ人達は、メシアの来臨を待ち望んでいました。しかし、彼らは、[キリストの]二度目の現れのように、栄光のうちに来るに違いないと考えていました。彼[キリスト]は、まったく王の権威を持って来なかったので、彼らは、彼を完全に拒絶しました。彼らが主を拒絶したことは、彼が輝かしいうちに来なかったので、単純なことではありませんでした。それは、彼が清らかさの肉体化した者だったことと、彼らが清くなかったことのゆえでした。彼は染みのない高潔な人間として地上[の人生]を歩みました。不正と道徳の低下した社会のただ中で、そのような品性は、人々の期待と調和しないものなので、彼は軽蔑され虐待されました。彼の染みのない生活は、彼らの心に光を照らして、それ自身が与える不愉快な特徴によって、彼らに罪責感を見つけさせました。

 神の息子は、闇と無知の勢力によって、全ての歩みの途中で激しく非難されました。彼のバプテスマの後で、彼は、聖霊によって荒れ野に導かれました。そして、40日の間、誘惑に耐えました。「キリストは人間と同じ性質を持っていたのではありませんでした。もしも、彼がそれを持っていたのであれば、彼は同じような誘惑の下で罪を犯したでしょう」と強く主張する数々の手紙が私の所に届いていました。もしも、彼が人間の性質を持っていなかったならば、彼は私達の模範にならないでしょう。もしも、彼が、私達の性質にあずかる者でなかったならば、彼は人間が誘惑されたように、誘惑されなかったでしょう。もしも、誘惑にさらされることが、彼にとって可能でなかったならば、彼は私達の助け主にならなかったでしょう。キリストが、人間の益のための味方として、人間としてその戦いを闘うために来たということは、厳粛な事実でした。彼が受けた誘惑とその勝利は、人間性は主の人間性の型をコピーされる必要があることを私達に語っています。人間は神性の性質にあずかる者になる必要があります。

 

2.神性と人性はキリストの中で一つ

 キリストの中で、神性と人間性は結ばれました。[キリストの]神性は人間性のために品位を下げられませんでした。神性はその位置を保っています。しかし、神性と連合した存在者としての人間性は、あの荒れ野の最も激しい誘惑の試験に立ちはだかっていました。この世の王が、長い断食の後にキリストの所に来ました。彼が空腹であった時、彼に、石にパンになるように命じることをほのめかしました。しかし、人間の救済のために考案された神の計画は、人間が体験するあらゆる[社会]層の人々の欠乏と空腹を知っているキリストを提供しました。彼は、人間が抑制できる特別な力を通して、その誘惑に立ちはだかっていました。彼は、神の玉座を捉えて[信頼を]置いていました。そして、神の中の信仰を通したその同じ助けに近づけない男性と女性は一人もいません。人間は、神性の性質にあずかる者となれるでしょう。誘惑と試練の中にいる時、天の援助を呼びだせない魂は生きていないでしょう。キリストは自分の能力の源を明らかにするためにやって来ました。人間は、自力の人間性の能力に決して頼らないでしょう。

 勝利する人々は、彼らに存在する全ての能力に重い負担を課する必要があります。彼らは、神性の能力のゆえに神の前に膝をついて(謙虚になって)、必死で努力する必要があります。キリストは私達の手本となるために、そして、私達が神性の性質にあずかる者となれることを私達が知れるようにするために来ました。[それは]どのようにしてですか。強い欲望を通して世界中の人々の中に存在している滅びを逃れることによってです。サタンは、キリストを征服できず勝利を得ませんでした。彼は、贖い主の魂を自分の足で踏みつけませんでした。彼は、キリストの踵を傷つけましたが、頭には触れませんでした。キリストは、自分の手本によって、人間が高潔さの中に立てるだろうという根拠をつくりました。人々は、キリストが勝利したように人々が勝利できる場所の一つの力、現世も死も黄泉(よみ)も支配できない一つの力、悪に抵抗するための一つの力を持てるでしょう。神性と人間性は人々の中で結ばれるでしょう。

 罪に落ちた人間に彼が与えた原則と指針を明らかにすることと、福音の枠組みの中の現在の真理の提示は、キリストの働きでした。あらゆる考えを提示した人は、彼自身でした。彼は、全ての真理の創設者だったので、誰かからの思想を借りる必要もありませんでした。全ての知恵は彼のものだったので、彼は、知者達と預言者達の思想を提示して、そして、自分の独自性を保っていたことでしょう。彼は、全ての真理の泉の源でした。彼は、全ての前進の中にいました。そして、彼の教えによって、彼は全ての時代の人々のための霊的なリーダーになりました。

 神のいと高き大祭司メルキゼデクを通して語ったのはキリストでした。メルキゼデクはキリストではありませんでしたが、彼はこの世界の人々の中で、天の神を代表する神の声でした。過去のすべての世代の人々を通して、キリストは語ってきました。キリストは、神の民を導いてきて、この世界の人々の光でした。神は、自分の代表としてアブラハムを選んだ時に、彼を引き立たせるために、彼を親族から離して、その故郷の外へ彼を連れ出しました。神は、自分自身の[人間]モデルに似せて彼を形成しようと望みました。神は、自分の計画のために彼を教えようと望みました。この世界中の教師達の特別な鋳型は、彼のために存在していませんでした。神は、正義と裁きを行うために、主の道を守って、彼の後の子らとその子孫に命じ方を教えるために存在していました。これは、神が私達に行なうようにと命じた働きです。神は、主の道を守るために、私達の家族の者達の教え方、子ども達の育て方、自分の家族の治め方を理解するよう私達に期待しています。

 

3.ヨハネは特別な働きを呼び掛けた

 ヨハネは、特別な働きをするために呼び出されました。彼は、主の道をまっすぐに示して、主の道を用意するために存在していました。主は、彼をラビ/学者達や預言者達の学校に送りませんでした。主は、人々が集まっている所から、人里離れた所へ連れて行きました。彼は、自然界を造った神から自然界の性質を学んだことでしょう。神は、ユダヤの指導者達や祭司達の人の特性/雛形を形成するようにと望みませんでした。彼は、特別な働きをするために呼び出されました。主は、彼に主のメッセージを与えました。ヨハネは、指導者達や祭司たちの所へ行って、このメッセージを宣言するよう求めましたか。いいえ、彼らの精神と教えによって感化されないようにと、神は、ヨハネを彼らから離れさせました。彼は荒野で叫ぶ一つの声でした。「汝は、主の道を用意しなさい。私達の神のために、人の通らない地に王道をまっすぐに作りなさい。数々の低地は高くされるでしょう。山や丘はみな低くされ、まがった道は真っすぐにされ、凹凸のある所は平らにされるでしょう。そして、主の栄光が明らかにされるでしょう。主の口がそれを語ったので、すべての肉[]はそれを共に見るでしょう」(イザヤ40:3-5 KJV)。これは、まさに、私達の教会の人々に与えられた必然のメッセージです。私達は時の終わり近いところにいます。そして、そのメッセージは、王の通る道を明示して、その道の数々の石を集めて捨てて、主の民のために一つの標準を掲げています。主の民は、目覚めさせられる必要があります。平和だ安全だ、と叫ぶために、今、時間はありません。私達はこのように勧められています。「力の限りに、大声で叫びなさい。汝の声をトランペットのように響かせなさい。そして、ヤコブの家の者達の罪と、私の民に、その違反の罪を示しなさい」(イザヤ58:1 KJV)。

 神の栄光の光/知識は、私達の特別な代表者の上に輝いています。そして、この事実は、神の栄光は私達の上に輝くでしょう、と私達に語っています。主の人間性の腕[/権力]によって、イエスは人類を取り囲みました。そして、天と地を神と人を繋いで、彼の神性の腕[/権力]によって、彼は神の玉座を捉えました。

 神の栄光の光は、私達の上に下って当然です。私達は、高き所からの聖なる油を必要としています。知性がありながら、また、学んだ人でありながら、イスラエルの神を堅く捉えていたのでなければ、人は教えるために適した人ではないでしょう。神の中にある信仰によって、人は人間性に働きかける能力を持てるでしょう。その人は、イスラエルの家の失われた羊を探すでしょう。神性の能力が人間性の努力と結びついていないならば、私は、最も卓越した人が行なうことができる全てに、一本の麦わら(価値の無いもの)も与えないでしょう。主の聖霊は私達の働きを望んでいます。私達の教会の兄弟達によって現された不一致の精神を見ること以上に、私をぞっとさせるものはありません。私達は、議論で否定された点について礼儀正しく丁寧に調べて、クリスチャンとして共に向き合うことができない時に、危険な足場に立っています。聖書のいろいろな教理について率直に調べることができないこれらの人々の人間モデルを受けないように、私はその場所から立ち去るように考えています。

 自分と異なる一つの立場の根拠について、偏らずに調べることができない人々は、神の[人類救済]目的のどのような分野でも、教えることに適していません。私達が必要としているものは主の聖霊のバプテスマです。この体験無しに、私達は、彼らの主の十字架刑の後の弟子達がそうだった以上に、この世界に出て行くために適していません。イエスは、弟子達の欠乏を知っていて、天からの力に励まされるまでエルサレムにとどまるように話しました。全ての教師は、一人の学習者になる必要があります。その人の目は、神の真理を前進させる根拠を見るために油を注がれるでしょう。義の太陽からの光線は、その人がほかの人々に光を与えようとするならば、その人自身の心に照らされる必要があります。

 主の聖霊の援助なしに御言葉を説明することのできる人はいません。しかし、素直な心で、謙虚に、神の言葉を説明する時、神の使い達は、真理の根拠を説明するあなたの側にいるでしょう。神の聖霊があなたの上に宿っている時、そこには、ほかの人の立場で調べていることに、嫉妬や羨望を感じないでしょう。そこには、キリストに反対したユダヤ人指導者達の心に吹き込まれたサタンの精神のような批判や非難の精神がないでしょう。その時、キリストはニコデモに言いました。私はあなたに言います。「汝は、もう一度生まれなければなりません」「人はもう一度生まれることを除いて、神の国を見ることができません」(ヨハネ3:7,3)。あなたは、その真理が求めている神聖を識別できるようになる前に、神性の人間モデルを持つ必要があります。その教師がキリストの学校の学習者でなければ、その人はほかの人々を教えるために適していません。

4.エレン・G・ホワイトの特別な働き

 私達は、全ての相違が溶けて消え去るような位置に行く必要があります。私が光を持っていると考えているならば、私はそれを提示する義務を行なうでしょう。主がこの教会の人々に与えるために、私に与えたメッセージに関してほかの人々に相談したとすると、その扉は閉じられているので、その光は、神がそれを送ったとしても人々に届かないでしょう。イエスがロバに乗ってエルサレムに入った時、「大勢の主の弟子達はそれまでに見たすべての力ある働きのゆえに喜んで、大きな声で主を賛美し始めました。こう叫びました。主の名によってきたる王に祝福あれ、天に平和が、そして、いと高き所に栄光あれ。その群衆の中からパリサイ派の人が来て、先生Master、汝の弟子達を叱ってください、と彼に言いました。主は彼らに答えて言いました。私はあなた方に言いますが、もしも、これらの人々が自分の平和を保つ[ために黙る]ならば、これらの石たちが叫びだすでしょう」(ルカ19:37-40 KJV)。

 そのユダヤ人達は、神の言葉の中に与示されていたメッセージの宣布をやめさせようと試みていました。しかし、預言は成就されて当然です。主はこう言いました。「見上げなさい。主の恐ろしく高貴な日が来る前に、預言者エリヤをあなた方に送るでしょう」(マラキ4:5)。ある人は、永遠の力と精神において来るために存在していました。そして、彼が現れている時、人々はこう言うでしょう。「あなたは熱心過ぎで悪評をもたらしています。あなたは適切な方法で御言葉を解釈していません。あなたのメッセージを教える方法を私に話させてください」。人間の働きと神の働きの間を見分けることのできない大勢の人々がいます。私は、神が私に与えているその真理を話しましょう。私はいまそれを話しています。もしも、あなたが不一致の精神を持って、誤りを見つけ続けているならば、あなたは決して真理を知らないでしょう。イエスは、その弟子達に言いました。私は、あなたがたに言うための多くの事柄を持っています。しかし、汝らは、今、それらを担って伝えることができません」(ヨハネ16:12 KJV)。彼らは、永遠の事柄と神聖に相応しい状態ではありませんでした。しかし、イエスは慰め主を送ることを約束しました。彼は彼らに全ての事柄を教えて、そして、彼が彼らに語ったものは何でも、彼らの[忘れていた]記憶のすべてを思い出させるでしょう。きょうだいのみなさん、私達は、人間に私達の信頼を置いてはいけません。汝らは、鼻に息のある人[に信頼するの]をやめなさい。その人はどういう点で価値がありますか」(イザヤ2:22)。あなたは、無力な魂をイエスに寄せる必要があります。そこが山の泉である時に、谷間の泉から飲むことは、私達に相応しくありません。もっとも低い流れを去りましょう。高い泉に行きましょう。そこが、あなたが調べず、認めない所で、あなたにとって理解できない真理の地点であるならば、聖句と聖句を比較して、神の言葉の鉱脈の中にまで深く掘り下げて真理の根幹に沈み込んで行ってください。あなたは、神の祭壇にあなたの意見とあなた自身を提示する必要があります。あなたの思い描いた考えを捨て去り、そして、天の精神があなたをすべての真理の中にガイドするようにさせましょう。私の兄弟が、ある時に、確信させられるだろうことを恐れて、私達が捉えた教理に関して何も聞いていなかった、と言いました。彼は、その集会に行かなかった、あるいは、その講話を聞かなかったのでしょう。しかし、彼は、後で、あたかも、それらを聞いていたかのように、やましさがあったと思えた、とはっきり言いました。神は、彼に特別な真理を知る一つの機会を与えました。そして、神は、この機会のゆえに彼に責任を課したでしょう。現在、議論されている教理に反対して根拠のない偏見を持たされる人々が私達の間に大勢います。彼らは、聞くために行かないでしょう。彼らは落ち着いて調べないでしょう。しかし、彼らは闇と無知の中で彼らの異議を表明しています。彼らは、自分達の立場に完全に満足しています。「なぜなら、汝らは言っています。私は豊かです。財産や所有物がたくさん増えました。私が欲しいものは何もありません。しかし、汝は、不幸で、かわいそう、見えず、裸であることを知っていません」、「私は、汝に、火で精錬された金を私から買うことを勧めます。汝は豊かになるでしょう。また、白い衣服、汝はそれを着るでしょう。汝の裸は現れないでしょう。目を癒す軟膏をかすんだ目に塗りなさい。汝は見えるようになるでしょう。私が愛している多くの人々を、私は叱ったりこらしめたりします。だから、熱心に悔い改めなさい。」(黙示録3:17-19 KJV)。

 この御言葉は、そのメッセージの声のもとで生きているけれども、それを聞きに行こうとしない人々に適用されています。主の道が用意されて、新しく設定されたその位置で、主は、主の真理の新たな根拠を与えているだけだということをあなたはどのように理解していますか。神の民の様々な[社会]層に注がれている新しい光に、あなたはどんな計画を立てましたか。神がその子らに光を送らなかったという、どんな根拠をあなたは持っていますか。意見についての、プライド(自慢の混じった自尊心)、自己本位、自己満足はすべて放棄される必要があります。私達は、イエスの足もとに行って、彼の謙遜な心と柔和を学ぶ必要があります。イエスは、ラビ/学者達が彼らに教えたようには、弟子達に教えませんでした。大勢のユダヤ人達が、キリストが救いの神秘/未知を明らかにした時に行って聞きました。しかし、彼らは学ぶために行ったのではなく、彼らは批判するため、何かの矛盾で彼を捕らえるために行きました。彼らは、主の民に何かの偏見を持っていました。彼らは、自分達の知識に甘んじていました。しかし、神の子らは、真の羊飼いの声を知る必要があります。神の前で断食して祈ることは、高度に相応しい時ではありませんか。私達は、議論を尽くされ否定された点の側を取る危険性、不一致の危機の中にいます。私達は何が真理であるかを知ることができるように、魂を謙虚にして、熱心に神を求めないのでしょうか。

 

5.イチジクの木の下に行きなさい

 ナタナエルは、ヨハネが救い主を指し示した時に聞き、そして言いました。「世界の人々の罪を取り除く神の子羊を見上げなさい」(ヨハネ1:29)。ナタナエルは、イエスを見ました。しかし、彼は、世界の人のための贖い主の出現として認めませんでした。苦役と清貧の特徴を負う人がメシアであり得るのですか。イエスは一人の職工でした。彼は、謙虚な労働者として苦役を担いました。それで、ナタナエルは彼から離れて行きました。しかし、彼は、イエスの品性が確固としていた時に、確固とした自分の考えを形成しませんでした。彼はイチジクの木の下で膝をついて、この人は確かにメシアなのかを神に尋ねていました。彼がそこにいる間に、ピリポが来て言いました。「私達は、律法の中のモーセと預言者達が書いていた人、ヨセフの息子、ナザレのイエスを見つけました。しかし、その「ナザレ」という言葉に彼の不信仰が再び湧き起こされて言いました。「ナザレから何の良い者が出るだろうか」。彼は、偏見に満たされていました。しかし、ピリポは彼の偏見と争おうとはしませんでした。彼は、簡潔に「行って、見てください」と言いました。ナタナエルがイエスのいる所に行った時、イエスは「一人のイスラエル人を見上げなさい。確かに、その人には罪がありません」と言いました。ナタナエルは驚きました。彼は「そなたはいつから私を知っているのですか」と言いました。イエスは彼に応えて言いました。ピリポが汝を呼びに行く前に、汝はイチジクの木の下にいたのを私は見ました」(ヨハネ1:45,46-48)。

 それは、ナタナエルのうえにあったように、神の目は私達のうえにもあるのではないでしょうか。ナタナエルは主を信じて、そして、叫びました。「ラビ/先生、そなたは神の息子です。そなたはイスラエルの王です。イエスは、彼に答えて言いました。汝がイチジクの木の下にいるのを見た、と私が汝に言ったので、汝は信じたのですか。汝はそれ以上の大いなることを見ることでしょう。そして、イエスは彼に言いました。本当に、本当に、私はあなたがたに言います。これから先、汝らは、天が開かれて、そして、神の使い達が人の子のうえに上り下りするのを見るでしょう」(ヨハネ1:49-51 KJV)。

 これは、私達が神と繫がっているならば、私達も見ることです。神は、私達に、人間にではなく主に信頼することを望んでいます。彼は、私達が新しい心を持つことを望んでいます。彼は、私達に神の玉座からの光を明示して与えようとしています。私達は、あらゆる困難と格闘しているでしょう。しかし、ある闘った点が提示された時、あなたは自分の意見を見つけ出すため、また、その人からあなたの結論を明確に引き出すために人間の所に行くのではありませんか。いいえ、神の所に行ってください。あなたが求めていることを神に話してください。あなたの聖書を開いて、そして、隠されたいろいろな宝物を探してください。

 

6.私達は十分に深めていない

 私達は、真理のための自分達の研究において、十分に深い所に行っていません。現在の真理を信じている全ての魂は、主にある希望に理由を与えることを求められているでしょう。神の人々()は、地上の王達、君主たち、支配者達、そして、卓越した人々に呼び出されるでしょう。そして、その人々は、真理であるものを知る義務があります。神の人々は回心した男性と女性になる必要があります。神は、あなたに、この地上の卓越した人々から学ぶことができる以上に、主の聖霊によって一瞬に教えることができます。全宇宙の存在者達は、地上で進展しているその闘いを見つめ続けています。計り知れない犠牲によって、神は、全ての人々に、救済について知恵を得て知るための一つの機会を提供しました。何と、この機会を自分で生かす人を見ようと、天使達は熱心に見詰めていることでしょう。

 一つのメッセージが神の人々()に提示されている時、彼らはそれに反対して、起き上がろうとしないでしょう。彼らは聖書に行く必要があります。律法と証によってそれを比較して、それが、このテストに耐えることができないならば、それは真理ではありません。神は、私達の知性を広げるように期待しています。彼は、私達のうえに主の恵みを置こうと望んでいます。神は、私達のために天の全部の宝を開示できるので、私達は、毎日、良い事柄の食物を得ることができるでしょう。私達は、キリストが天の父と一つであるように、彼と一つになるように存在しています。そして、その天の父はその息子を愛しているように私達を愛しているでしょう。私達は、キリストが持っていた助けと同じ助けを持っているでしょう。私達は、神が私達の前の護衛、後ろの護衛なので、あらゆる危機のための体力・知力・精神力・霊の力を持っているでしょう。彼は、私達の[活動の]あらゆる側面を閉じるでしょう。そして、私達が、この地上の権威者達の前、支配者達の前に連れ出される時、私達が話すであろうことについて、あらかじめ考えておく必要はありません。神は、私達が必要とする日に私達に教えるでしょう。私達が、ほかの人々に教える者となることを求める前に、今も、神は、私達がイエスの足もとに行って、彼について学ぶように助けているでしょう。

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7.聖書、私達の信条 The Bible our creed

 神の言葉が[人によって]研究されて、理解され、従われた時、一つの光の輝きがこの世界の人々に反映されるでしょう。新しい様々な真理は、[人々に]受け入れられて活動されて、イエスとの強い絆によって私達を結ぶでしょう。聖書、聖書だけが、連なりの唯一の絆、私達の信条として存在しています。この聖なる言葉にひざまずく全ての人々は、調和の中に存在しているでしょう。私達自身の見解と考えは、私達の努力の成果を支配してはいけません。人間は間違いをする可能性があります。しかし、神の言葉は間違うことがありません。ほかの人と口論する代わりに、人々に主を高めさせましょう。私達の大教師Masterが「それは、書かれています」と言っているように、全ての反対意見に立ち向かいましょう。記述されたものの旗を掲げましょう。聖書は私達の信仰と原則の基準です。     『レビュー&ヘラルド』1885.12.15 [57]



[1] この記事は『レビュー&ヘラルド』の1898.4.5に現れました。[71]

[2] この記事は、『Sings of the Times1886.4.15に現れました。[59]

[3] この記事は、『レビュー&ヘラルド』1909.1.28に現れました。[82]

[4] この記事は、『Sings of the Times1905.8.2に現れました。[78]

[5] この記事は、『Sings of the Times1878.3.14に現れました。[51]

[6] この記事は『レビュー&ヘラルド』の1902.4.22に現れました。[75]

[7] この記事は、『ユース インストラクター』1898.10.13に現れました。[71]

[8] 訳者加筆。フィリピ26について、口語訳「キリストは、神のかたちであられたが、神と等しくあることを固守すべき事とは思わず」、共同訳「固執しようと思わず」、新改訳「神のあり方を捨てられないとは考えず」という訳です。日本語聖書はいずれも二重否定で「神であることを捨てて」という意味に訳されています。ここでは、「失わないように」と訳するのが妥当と考えました。

[9] この記事は、『レビュー&ヘラルド』1906.4.5に現れました。[79]

[10] この記事は、『サインズ オブ ザ タイムズ』1898.6.9に現れました。[71]

[11] この記事は、『レビュー&ヘラルド』1891.12.22に現れました。[64]

[12] この記事は、『レビュー&ヘラルド』1895.6.15に現れました。[68]

[13] この記事は、『レビュー&ヘラルド』1874.7.28に現れました。[47]

[14] この記事は、『レビュー&ヘラルド』1874.8.4,18に現れました。[47]

[15] ここで言及している「木」は、明らかに知識の木です。命の木ではありません。「命の」という言葉は、印刷者の明らかな一つの間違いです。それは、『サインズオブザタイムズ』1874.7.9に現れたこの最初の記事には見られません。それだけではなく、42頁の『贖いやキリストへの誘惑』という題のパンフレット形式で再印刷されたものにも見られません。――題目編纂者

[16] この記事は、『レビュー&ヘラルド』1874.8.18, 9,1に現れました。[47]

[17] この記事は『レビュー&ヘラルド』1874,9,1に現れました。[47]

[18] この記事は『レビュー&ヘラルド』1898,11,8に現れました。[71]

[19] この記事は『サインズ オブ ザ タイムズ』1897,4,8に現れました。[70]

[20] この記事は『ユース インストラクター』1898,4,4に現れました。[71]

[21] この記事は『ユース インストラクター』、タイトル「よみがえった救い主 パート21898.8.11に現れました。[71]

[22] この記事は『サインズ オブ ザ タイムズ』1903.9.30に現れました。[76]

[23] この記事は『レビュー&ヘラルド』1890.6.17に現れました。[63]

[24] この記事は『サインズ オブ ザ タイムズ』1892.12.5に現れました。[65]

[25] この記事は『サインズ オブ ザ タイムズ』1892.12.12に現れました。[65]

[26] この記事は『サインズ オブ ザ タイムズ』1892.12.19に現れました。[65]

[27] この記事は『サインズ オブ ザ タイムズ』1892.12.26に現れました。[65]

[28] 訳者加筆。KJVはルカ15:4を「within the hold囲いの中に」と訳していますが、NKJVでは「does he not leave 」と修正されています。「囲いの中」は誤訳と理解したようです。同じKJVはマタイ18:12では「doth he not leave (残して)と訳しています。

 口語訳;新共同訳は「山に残しておいて」、新改訳は「山に残して」と訳しています。譬え話なので「たとえ残してでも」という意味なのでしょう。この譬え話を「良い羊飼い」に着目すると、①99匹にも1匹にも愛情のない羊飼い、②99匹に愛情があるが1匹には愛情のない羊飼い、③1匹に愛情があるが99匹には愛情のない羊飼い、④99匹にも1匹にも愛情のある羊飼いが考えられます。④が良い羊飼いでしょう。

[29] 原稿50,1900.[73]

[30]この記事は『サインズ オブ ザ タイムズ』1893.6.5に現れました。[66]

 

[31] 188311月ミシガン州バトルクリークでのSDA全体総会で、朝の牧師達の全体の集会で語りました。『Gospel Workers1892 編集 pp.411-415。タイトル「キリスト 私達の義」。[56]

[32]『レビュー&ヘラルド』1889.7.23に印刷された、カンザス州オッタワでのキャンプミーティングの記事。[64]

[33] 1888年にミネアポリスで開催されたSDA全体総会において、信仰による義のメッセージについて公開された報告から引用した内容。

[34] ニューヨーク州ローマでのキャンプミーティングの報告からの引用。

[35] エレン・G・ホワイトの信仰による義のメッセージの成果のレポートは、ミシガン州バトルクリークでの18891018日から115日までのSDA全体総会で述べられました。ミネアポリスで開催された1888年のSDA全体総会で、嘲笑と粗探しによってある部分に論争の精神を加えて、議論の精神を呼んで、聖書研究の取組について発展した状況を言及しています。

[36] この記事は、『レビュー&ヘラルド』1890.11.4に現れました。[63]

[37] 原文は『手紙』33としてあげられています。この記事は『手紙』22として1889年に再分類されました。

[38] 18901010日ミシガン州オッセゴでの説教の一部。『レビュー&ヘラルド』1891.2.3に印刷された。[64]

[39] この記事は『レビュー&ヘラルド』1892.1113に掲載されました。[65]

[40] Notebook Leaflets』に掲載。『The ChurchNo.5  [64]

[41] この記事は『レビュー&ヘラルド』1894.3.20に掲載された。  [67]

[42] この記事は『Bible Students' Library series1893.4に掲載された。[66]

[43] この記事は『レビュー&ヘラルド』1899.8.8に掲載された。[72]

[44] この記事は『レビュー&ヘラルド』1890.1.3に掲載された。[63]

[45] 1890年1月29日、ミシガン州バトルクリーク教会で、朝に話された。この記事は『レビュー&ヘラルド』1890.2.18に掲載された。[63]

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